「月清き夜半とも見えぬくも霧のかかれば曇る心かな……やい、頼光」
「むっ、何者」
さすがは頼光、間を置かず跳ね起き、身構えた。油断なくあたりを見回すが、誰もいない。
「不思議や、空耳か……」
「ここだ、頼光」
「えい、卑怯なり、曲者、姿を見せい」
「よく見ろ、きさまの足元だ」
「なに、なんと……ちっぽけな蜘蛛が……わしに話しかけたか」
「ただの蜘蛛ではない、我は土蜘の精魂なり」
頼光の眉に、ぴくっと緊張の色が走った。
「しかし、化生の者とは見えぬ、ただの小蜘蛛じゃ」
「寝ぼけるな、いくらでも化け物らしくはなれる。ただ疲れるから小さいままでいるのだ」
「確かに、ただの蜘蛛が言葉を語るとは思えぬ、しかし、土蜘は……」
「退治されたはず」
むっ、と頼光はうなずいた。
「そのとおり、かの土蜘は汝が膝丸の刃にかかって死んだ」
「それは違うぞ、葛城山まで逃げのびて、そこで果てたはず」
「あなたは知らないのだ」
「独武者の武功は誰も知らぬ者はない」
「誰も知ってはいないのだ」
「むっ、ならばおまえはなんだというのだ、土蜘が死んだのなら、おまえは……」
「その土蜘の、息子だ」
「なんと」
「病は癒えたな、頼光」
「なにっ」
「それを待っていた」
「なんだと、恨みを晴らしに来たのであろうが」
「いかにも」
頼光は口をつぐんだ。病は癒えたな、だと?誰も知らないとは、何を知らないというのだ。
「いかにも頼光、恨みをはらさんがために来た、ならばどうする」
「えい、この痴れ者め、言うにや及ぶ、返り討ちにしてくれん」
頼光は枕元に手を伸ばした、が、それはいたずらに空を探るばかりである。
「くくく」
頼光はものすごい眼光で蜘蛛を振り返った。
「おのれ……蜘蛛切りをいずれへか隠したな?」
「くっくっ……、いいや知らぬ、我ではない」
「ぬかせ、なんの土蜘如き、小太刀でも渡りおうてくれようぞ」
しかし、小太刀はおろか、手に取れそうなものは何もない。頼光は何か自分が、悪い夢にでも翻弄されているような気分になってきた。なぜこんなちっぽけな蜘蛛ごときに、慌てふためかねばならんのだ?
「うぬ、卑怯なり、畜生めが」
「まあ落ち着け、頼光」
「くそ、誰かある、太刀を持て!」
「血迷うたか、頼光」
「来るか、化け物、正体を現わせ!」
頼光は手の先に何か触れたのを、小蜘蛛目がけて投げつけた。ひどくはずれて転がったそれは、枕であった。これには小蜘蛛も、呆気に取られたように黙った。
信じ難い頼光の動揺であった。それはその小蜘蛛に対してというより、その背後に隠れた何者かに、おびえているような有様だった。しばし、張り詰めた空気のなかで、頼光も小蜘蛛も動かなかった。
そこへ、廊下を渡る軽い足音が近づいて来た。
「いかがなされました」
「太刀は持ったか!」
「それが、侍どもが一人もおりませぬ、太刀のありかも……」
「なんとしたことじゃ、この土蜘め……」
「我ではないというに、わからぬか、頼光」
「えっ、土蜘?」
表の女の声がすくんだように叫んだ。ふるえるように持ち上げられた簾の下から覗いたのは、胡蝶の顔であった。
「胡蝶か、危ない、下がっておれ」
頼光は、わずかに我に返ったように言った。それを聞いた小蜘蛛は胡蝶のほうを向きながら言った。
「胡蝶?面白い、いいところへ来た」
胡蝶は小さな蜘蛛がしゃべっているのを知ると、信じられないという顔をして、身をこわばらせた。
「くくく……、胡蝶どの、例の薬をお持ちになったのはあなたでしたな」
「逃げろ、胡蝶」
しかし、胡蝶は動けなかった。
「あの薬はいったい、なんだったのです」
頼光は眉をしかめた。こいつは何を言っているのだ?薬は薬……。
「ご存じないか、胡蝶どの」
「な、……何も……」
「本当に知らぬか」
蜘蛛はぐっと胡蝶をにらんだ。頼光にはそうみえた。
「……知らぬか、……なら聞こう、薬をもてとあなたに言ったのは、誰か」
短いが、それは奇妙な沈黙だった。蜘蛛は何やら興奮している気配で、胡蝶は何か上の空におびえていた。一人頼光が、訳のわからない様子で双方を見守っていた。
「独武者ではないのか?」
ゆっくり、ためらいがちに、胡蝶は首をたてに振った。
「……なんだというのだ?いったい、薬がどうした、独武者が、どうしたというのだ?」
胡蝶はなにか考えこむ様子だった。
「そういえば独武者はどこへ行ったのだ?侍たちはなぜおらぬ、なにか知っているのか、胡蝶!」
蜘蛛は頼光のほうへ向き直った。こころもち、大きくなったように見えた。頼光は思わず、身を硬くしていた。
「さあ、思い出すのだ、頼光」
「思い出す?何を?」
「薬を飲む前のことを、病にかかる前のことを……あの夜のことを、思い出していただきたい、月雲でござる、頼光どの……」
蜘蛛の目が、らんと光った。頼光はぐっと唾を飲んだ。
「おのれ、たぶらかす気か」
「たぶらかされているのはあなたです、さあ……」
何か思い出すことがあるような気がした。それを、思い出してはいけないような気もした。しかし、何かがささやいていた。彼の中の何かが思い出せと……。
土蜘……つ、ち、ぐ、も、つきぐも……月雲?月雲?
「そうです、月雲です、さあ……」
何か固いからのようなものが、かれの心の中でこわれ、過去の時の流れが、ゆっくりと流れ出してきた。
頼光はその晩、月雲に出会った。満月の宵で、そぞろ歩きに屋敷を出たのであるが、まもなく群雲が漂ってきて、月をおおい隠してしまった。すぐ帰るのもつまらなかったので、彼はそのまま人気のない大路を歩いていった。
ふと気がつくと、前を誰かが歩いている。少年らしく、まだでき上がっていない体格が後ろ姿から見て取れた。少年はゆっくりと、ぼんやり明るい空を見上げながら、歩いていた。
頼光は自然な歩調で追いつき、並んで話かけた。
「ひとり歩きかな」
少年はちょっとびっくりしたような目を頼光に向けた。頼光は静かに微笑みかけた。
「いい月夜でございますから」
「しかし」
頼光は空を見上げた。
「せっかくの満月も雲に隠れてしまっては」
「……雲の陰に、月があるのがわかります」
頼光は少年を振り返り、また空を見た。彼には、雲の向こうの満月というのがどうもぴんとこなかった。
「しかしあれでは、満月かどうかわかるまい」
「先程見たばかりでございます」
「もしずっと雲がかかっていたら」
「今宵は上弦より七日、満月でございます」
「上弦の月が見られなかったら」
「その前の満月からでも数えられましょう」
「それも、その前のも、ずっと見ることができなかったら」
「ならば、わたしは月の満ち欠けを知りますまい、どころか、あなたも、月のあることさえわかりますまい」
頼光は言葉につまった。二人はしばらく黙って歩いた。
「しかし……このとき、今だけ空を見れば、満月かどうかは、わからない」
「この時だけ、などということはございません。今までずっと満ち欠けする月を見てきたからこそ、満月があり、今宵こうして私とあなたが歩いている。あなたも知っているではありませんか、ただ雲の陰の月を感じ取れないだけで……」
頼光は心中を言い当てられ、びくりとした。
「きのうときょう、あの月と私、こういうものは片一方では考えられないのではありますまいか。月を知らぬ私はこの私ではなく、私がいなければ月もあの月ではない。もしほかの一切のものと関わりなく、流れる時と全くつながりのない今だけに、私がいるのだとしたら……」
「だとしたら?」
「この、ここにいる私は……この世のものではございますまい」
頼光は少年の顔にじっと見入った。それは半分無表情のようで、あと半分何を考えているか、それも頼光にはわからなかった。
「名は、なんと申す」
「……月雲」
「月に雲……、まことの名か、それは……まあよい。どうじゃ、わしの屋敷へ来ぬか。少しばかり馳走をしようぞ」
「お武家様の屋敷などは、性に合いませぬ」
頼光は、名乗ろうかと思った。自分が何者か知れば、この少年もおとなしく従うだろうと思ったからである。彼はそういうことをよく知っていた。しかし、なぜかためらわれた。この少年に対して、そんなことを口にするのは、何か無礼なような気がしたからである。おかしなことだ。彼は胸の中で苦笑した。
「なら、どこでもいい、そなたはどこに住んでおるのじゃ」
「家は、ございませぬ」
「浮浪の者ではあるまい、見ればわかる。だが言いたくないのならかまわぬ、どこでもそなたの好きな所へ行こう。それともつきまとわれるのはいやか」
月雲は黙って歩き出した。頼光は黙ってそれについていった。それから、どこへどう行ったのか、頼光には全く思い出せない。明け方近くになって、屋敷の近くを一人で歩いていたのを知っているばかりである。……月雲の肌のぬくみが、体のそこここに残っていた。
なぜ月雲とそうなったのか、彼にもよくわからない。いちばん不思議なのは、月雲が彼を拒まなかったことである。しかしわけなどどうでもよかった。満月と新月の晩に、彼は月雲に会うことができた。どこに住んでいるかも決して言おうとしなかったし、後をつけることもできなかった。しかし彼は、その月に二度の逢瀬を壊れやすい玉のように大事にし、誰にも話そうとはしなかった。ところが、いつか彼は病にかかり、床に伏してしまったのである。
「ああ、月雲!」
「思い出されましたな」
「うむ、そうだ、……なぜ忘れていたのだろう」
「薬のせいでございます」
「薬が?」
「おそらく天竺の、ものを忘れさせるという薬でございましょう」
「なぜそんなものを……胡蝶?」
「私は、知りません、なにも……」
「独武者の仕業です、やつが典薬の頭に命じて……」
「なぜそんなことを……」
「おそらくは、あなたのうわごとか何かを聞いて、考えたのでしょう」
「どういうことだ」
「あ、あの、頼光様は土蜘の化物にたぶらかされていると……それで精気を吸い取られて病になっているのだと……」
「独武者が申したのか」
「はい……」
頼光はじっと眉根に力を寄せ、考えこんだ。
「……そうしてあなたは、月雲のことを忘れ果ててしまわれたが、一向に回復は捗らなかった……」
頼光の顔は次第に青ざめていった。
「ところが、月雲はあなたのことを忘れてはいなかったのですよ。ひと月、ふた月と、あなたが来ないのを案じて、ある夜僧形に身をやつし、あなたの寝所へ、ここへ、忍んできたのです」
頼光の額には、ねっとりと汗が浮かんできた。
すると、あなたは知らぬ体で刀を抜き、いきなり切りつけた、……何も知らない月雲は、傷つき、うちひしがれて、逃げ帰ったのです」
「わしは、わしは……」
「あなたも知らなかった、ただ苦しんだのは月雲ひとり、その上……」
「やめてくれ!」
「あなたの差し向けた独武者の手にかかって、無残にも殺された」
「知らなかったのだ……」
頼光はものすごい声でうめいた。胡蝶はもうすっかり気が転倒していた。
「月雲、月雲、……独武者はなぜそんなことをした、なぜ、よけいなことを……」
「勘違いかもしれません、あなたのためを思って……だが、今宵彼は……?」
「胡蝶、言え、独武者はどうした」
「その、侍どもを連れて酒を飲みに、……それに、酒のさかなだといって蜘切り丸を……」
「あやつが、けしからぬことを」
「それだけではございますまい。近ごろ彼は土蜘退治で都に隠れなき名声、諸家の評判もとみに高く……」
「むっ?なにを……」
「あなたもいよいよ羽振りがよい、しかしもっと条件のいい雇い口がいくらもございます、それに独り立ちしたいは人情……」
「くら替えしたと申すか、土蜘退治と蜘切り丸を手土産に……」
「給料第一のご時勢……」
「なにか証拠があるか」
「明日になってみればわかること」
「もしそうだとすれば、独武者は始めからそのつもりでわしに薬を盛り、土蜘退治をでっち上げたというのか……」
「さあ、そこまでは。もし偶然こうなったとしても、彼は同じことをするでしょうから……」
「うそよ!」
胡蝶が金切声で叫んだ。
「そんな、うそよ、独立するときは私もいっしょに連れて行くって、だから、なんでも手伝ったのに……」
「どこへ行く胡蝶」
胡蝶は立ち上がり、ふらふらと歩き出した。
「あれも、たぶらかされていた一人でございます」
やがてその足音も聞こえなくなった。
「……どうする」
頼光は落ち着いた声で言った。
「わしを取り殺すか」
「いえ……」
「わしも苦しんだ、これで死ねば、月雲と同じだ……」
「それには及びません」
頼光の心に、疑いの気が湧き上がった。
「おまえはただ、この話をしてわしを苦しめるためだけに来たのか。……おまえは、土蜘の息子と名乗ったな、では、月雲もまことは蜘蛛だったのか?」
「だったら、どうします」
「知らず知らずの内にでも、精気を吸い取っておったのかも……わしは、やはりたぶらかされていたのだろうか?」
「……まだ、さようなことをおっしゃるか」
「しかし……」
「あなたはあの時、なんとおっしゃられた?もし私が化生の者だとしたら……」
頼光の頭に、夢のようにある夜の光景が浮かび上がった。
「もし私が化生の者だとしたら、なんとなさいます」
「……かまわぬ、……化生の者だとて、なんだとて、今は月雲じゃ。この月雲しか、わしはそなたを知らぬ。もしそなたが化生となってわしの前に現われ、世に害をなさんとするなら、その時わしはそれを討つだろう。しかし今は今、この時だけじゃ、あとでどうなろうと、この時を後悔はしない……」
「そうです」
はっ、と頼光は我に返った。
「あれはあの時限りだったのです。忘れていただいたままの方がよかった。あれっきりで終わりだったのです、あれは、……しょせん、別々の世界に住むものなのです……」
枕元に少年の姿が立っていた。半分無表情で、半分悲しそうな、そうではないような幻のような姿だった。
「月雲!」
「いいえ、私は土蜘の息子……」
「そなたは月雲じゃ」
「月雲は死にました、あなたの一太刀にかかった時、月雲は死んだのでございます……」
「ゆるしてくれ、月雲」
少年は袖で顔をおおったかと見えたが、すでにそれはかげろうのごとくぼやけ、うすれて、消えて行った。
「戻ってきてくれ、月雲……」
うきたるくものゆくえをば、うきたるくものゆくえをば、風の心にたずねん……。
(了)