「お師匠さま」
「ん……」
「いいお日和でございますね」
「そうじゃの」
「……」
「……どうかしたのか」
「いえ……、その……こののどかな陽ざしや青い空は、どこへ行っても同じというわけはないのでしょう」
「ふむ」
「あの山のかなたのずっと先では、今嵐が吹いているかもしれません」
「……」
「不公平に思えるのです、こうして自分が穏やかな気分に浸っているときに、どこかで苦しみを味わっている人がいる。なにか、不当な罪を犯しているような気がします。」
「言葉だけじゃな」
「えっ」
「確かに、今死につつある人さえいくらもいよう、しかしその人達のためにわしらがしてやれることなどなにもない……祈ること以外は」
「祈るというのは、自分の罪を知ることなのでしょう」
「うむ、しかし、罪とはもっともっと深いものじゃ、もっと恐ろしい罪をわしらは犯しておる、その罪を知らずに本当に祈ることはできない、おまえは今、この陽ざしの中にいることを罪だと言ったが、そんなものが罪だと言えようか。いや、もしかしたらそれは、思い上がりから来た哀れみに過ぎぬのかもしれぬぞ」
「……」
「もし人の不幸を救う力があるのに手をこまねいておるなら、それははっきり罪と言えよう。が、果たしてわれらにどれ程の力があるというのか、いや、その前に、我々はおのれ自身を救うことさえできないでおるではないか。自分の犯している罪さえ本当に知っておらぬのではないか……。自分のことを素直に考えるがよい。言葉だけと言ったのはそのことじゃ。隠さずともよい、母のことを考えていたのであろうが」
良一は頭を垂れた。良然の言う通りだった。ぼんやりと道を歩いている内に、ふっと母のことが頭に浮かんだ。暖かい春の陽が思い出させたのかもしれない。
母が今自分の知らないところで苦しんでいるのではないか−。それは恐ろしい直感だった。そんなことを忘れてのんびりしていた自分の姿が、彼をいたたまれなくした。だからあんなことをしゃべってしまったのだ、ということが良一にはわかった。母のことを考えまいとする衝動で、思いついたことを口に出してしまった。良然に言葉だけだと言われてもしかたがなかった。
お師匠様にはいつもこちらの心を見透かされてしまう。良一は思った。彼がなにを言っても、まるで議論にならない。自分でも気がつかないような、言葉の裏にある心の動きを言い当てられて、彼は口をつぐんでしまうのだった。そんな風に心をぴったりと捉えられているという感じは、なにか快いものでさえあった。
しかし一方で、彼は母という言葉をにがい思いでかみしめていた。母親のことだけは、良然に触れてほしくなかった。ただそっとしておいてもらいたかった。できることなら、彼はそれを忘れてしまいたかったのである。それは不可能でも、せめて過去の出来事の一片として、なんでもない思い出のようにしてしまいたかった。仏道に入るのなら、−良一は思った−そんなものは余計だ。
良一は小さい頃に母と別れてしまった。どんな風にしてそうなったのか、彼はよく覚えていない、父ともその頃別れてしまったらしいが、これはもうこの世にいないことを知っている。何があったのか、彼は不思議に思うのだが、どうにもわけがわからなかった。いや、彼はそれをつきつめて考えようとはしなかった。やさしかった父と母を、思い出すことはできる。まだどこかに生きているかもしれない母。しかし、そのことを、思い出すと苦しいのだった。なぜか父母のことに触れると、わけのわからない痛みが胸を襲うのだった。
そんな良一の気持ちを、良然はわかってくれないかのようだった。何かにつけて母のことに触れたがった、まるで良一のいやがるのを楽しむかのように、いや、そんなことがあるはずはない、と良一は思った。それなら……お師匠様はこの気持ちをわかってくれてはいないのだろうか……。それもありそうもないように思われた。それ以上に、そうは思いたくはなかった、じゃあ、…良一には何がなんだかわからなかった。
奇妙な、はぐれたような感じがそこにはあった。お師匠様でも自分のことを何もかもわかるわけではないのだ。という考えは、どこかしらうすら寒いような中に、ほのかな安心感のようなものを彼に与えた。お師匠様も自分と変わりない、一人の人間に過ぎないのだ、というような考えが、彼はそんなものはかき消そうと努めたのだが、頭の隅に巣食っていた。
良一はふと我に帰った。ゆっくり歩く良然のうしろ姿が目にはいった。がっしりとはしているが、もうそろそろ彼に背丈を抜かれようとしていた。彼はそれが見てはいけないようなものであるかのように、視線を落とし、さまざまに入り乱れた考えを全部胸の奥へおし込めようとした。師匠のしっかりとした足取りを目で追ってみた、そしてさっき言われた言葉の意味を考えてみようとした……。
雑多な思考の渦にのまれて、母の記憶もまた、再び暗い無意識の闇の奥へ戻っていこうとしていた。七年前……七年前の……。
木々の葉もあらかた散りつくし、いよいよ冬の色の濃くなったある冷え込みの厳しい夜半のことであった。良一は母と二人、遅い父の帰りを待っていた。
「ねえ、お父ちゃんまだあ」
良一は何度目かの同じ問いを繰り返した。
「もうすぐでしょう」
繕い物をしていた母は、うわの空のような調子で答えた。
「おなかすいたあ」
「もうすぐね」
突然良一は、母が自分の方に注意を向けていないのに気づき、怒った声で叫んだ。
「ねえ」
「えっ」と母はびっくりして顔をあげた。
「おなかがすいたんだってば」
「ああ、ごめんね、ぼんやりしてて、お父さんきっとお仕事で遅くなっているの。でももうすぐだと思うから、待ってましょう」
「やだ」
「だって、お父さんがいないとさびしがるのはおまえじゃない。どうしたの」
「おなかがすいたんだよ、早く食べようよ。お父ちゃんなんか、どうなったっていいよ」
「まあ」といいかけて母が腰を浮かしたところへ、がらがらっとやかましく戸の音をさせて、父が入ってきた。
「ああ、お帰りなさい」
母はほっとしたように立ちあがったが、そのままそこで立ちすくんでしまった。うしろ手に閉めた戸にもたれかかり、乱れた息をしている夫の、ちらりとこちらを見上げた目にあったとたんわけのわからない不安につかまれたのである。ふと耳に、表を吹く木枯らしの音が流れ込んできた。夫もそれに耳をすましているようだった。
良一はうつむいて、胸をどきどきさせていた。おこられるのかな、さっきの、きっと聞かれちゃったんだ、どうしよう。お父ちゃんはおこるとおっかない。そしておこる前にはいつも黙るんだ……。
こっちへ来ないのかな。お母ちゃんも黙ってる。きっとこわい顔してるんだ。どうしよう。
「追われてるんだ」
ぼそっと、切羽詰まったような声で父はそう言った。母は息をのみ、目で夫に問いかけた。だがそれは何も説明してくれなかった。あきらめと、すまなさの入り混じったような目で、夫は妻を見返していた。
良一はぎゅっと身を固くしていた。なんて言ったんだろう。追われて……って。なんのことだろう。あっ、お母ちゃんが降りて行った。何してるんだろう……戸に棒をかってるんだ。あ、二人ともこっちへ来る。良一はますます身をちぢめた。
突然、戸板が激しく鳴り出した。
「ごめん」
夫の顔から血の気がひいた。妻は思わずその袖にしがみついた。
「ごめん、ご亭主はおいでか」
戸板は頼り無げにがたがたとふるえた。
「……どなたです」
妻はやっとの思いでとがめた。戸はその声をかき消すようになり続けた。
「これをあけなされ、あけなさらぬと……」
裏から、と妻は低く叫んだ。ばん、と戸板が大きくゆがんだ。夫が身をひるがえして駆け出すのと、いやな音をたてて戸がはずれるのと、ほとんどいっしょだった。
黒い影がいくつか、戸板を踏みつけてなだれ込んできた。冷たい夜の風がその後を追っかけてきた。わきへ突きのけられた妻は壁板に寄りかかって、呆然と目を見開いていた。黒い影は入るとすぐ横に広がって、取り囲むように立ち止まったまま、身構えて腰に手をやった。その罠の中にはまってしまおうとするかのように、夫がゆっくりと後退りしてきていた。それは一瞬たちの悪い夢のように見えた。しかしそこにあったのは目に見えない力ではなく、裏の戸から入り込んでくる数個の黒い影であった、
動きが止まって、黒い影はすっかり夫を取り囲んでいた。風の音がまた、小さな一軒家の内外を満たし、乱れた。夫がふところに手をのばし、すかさず周りに白刃の弧がひらめいた。
それから何がどうなったか、誰がどうして何をわめいたのか、誰にもわからなくなった。
良一の回りで嵐があれ狂っていたのかもしれない。どしゃぶりの雨のなかで小犬が震えていたようでもある。暗がりに雨の音が返ってきた時、そこには呆けたように身じろぎもしない少年の抜けがらと、泥と血のなかに横たわった首のないむくろがあるきりだった……。
良一を救ったのは通りがかった旅の僧であった。初め、何を問いかけても少年は答えることができなかった。しばらくのちになるまで、ほとんどおしのような有様だったのである。僧はともかく死体を葬り、少年を連れてそこを離れた。
なるべく気晴しになりそうなところを選んで歩くうち、少年は何もかもすっかり忘れたように普通の子供らしく、ちゃんとしゃべるようになってきた。父母の名も覚えていたし、ほかに身寄りの無いらしいこともわかった。しかし、記憶がある夜のことに触れたとたん少年は気の狂ったように泣き出した。おそらくあの死体が父親だったのだろうと、僧はそれ以上聞きただそうとはせず、まるで赤子をあやすように少年をなだめた。そしてまたしばらくたって、僧は少年をともなって旅に出たのであった。
良という一字を同じくしたこの哀れな少年を、僧はまるで自分の弟子のように扱った。
少年も、本当の小僧のように仕えながら、しだいに父母のことを思い出さないようになっていった。
数年も行脚の伴をしているうちに、少年は本気で仏道にはいる気持ちを持つようになったらしい。ある日はっきりとそのことを師匠に打ち明けた。しかし良然は首を横に振った。
なぜでございます、と、良一は意外そうに声を高くした。良然はじっとその目を見据えて穏やかにいった。
−おまえには、母を捜すという仕事があるはず。それをおろそかにするような不孝で何が仏道か。
たちまち、わけのわからない恐怖が良一を襲った。そしてそれきり、彼はその事を口に出すのをやめてしまったが、心ではいよいよ堅く決心を固めていたのである。
その頃から良然の態度が変わった。それまでは連想が及ぶのさえ避けていたのが、掌を返したように父母と別れたいきさつを問ただすようになったのである。それは良一にとって耐え難い苦しみであった。
確かに、と彼は思った。お師匠様のいうことは正しい。でも決しておろそかにしようというのではない。行脚のかたわらで母を捜そうというのがなぜいけないのか。しかし、彼はそう言い出すことができなかった。なぜか怖かったのである。そう言えば、また何か師匠に言われそうな気がした。
自分が何を怖がっているのか、彼にはわかっていなかった。
二人は嵯峨野を歩いていた。清涼寺でこの頃念仏踊が評判だというので、それを見に行こうというのであった。さわやかな春の風に乗って、人のざわめきのようなものが聞こえて来た。境内へ入っていくと。なにやら人だかりが出来ているので、ふたりはそれをのぞいてみた。人垣に囲まれた中で、どうやら女が謡いながら舞をしているようであった。
「南無阿弥陀仏……」
女はゆったりとした節で謡い、ゆっくりした身振りで舞った。曲舞いのようであったが、今までに見たどれとも違っていた。ひとしきり人垣の中に笑いが起こった。何か女の身振りにおかしなあやをつけた者があるらしい。
女は構わず舞い続けた。
「南無阿弥陀仏……」
決して謡も舞もおかしなものではなかった。ただ女の姿は、それだけでさえ笑いを誘わずにはいないような代物だった。着物は、妙にはでな色合いだったが、ひどく色あせて、みすぼらしかった。しかもきちんと着つけていないので、襟が広くあき、袖もだらしなく垂れていた。また裾のほうも乱れて、裸足のすねが歩む度にのぞいた。さきほどの声はそれをはやしたものらしかった。帯もまた簡単に結んだだけで余りがしどけなく垂れ、裾といっしょに地面を引きずっていた。後ろに引いているのはそれだけではなく、左手に握った先には、こどもの玩具のような木の車が結いつけてあった。女が向きを変えて進むと、がたごととぐらつきながらあとを追った。
「力車に七車、積むとも尽きじ、重くともひけや、えいさらえいさと…」
また笑いが起こった。女はどんなことを思っているのかまるでわからないような表情に憑かれたような目を据えていた。髪はぼうぼうに乱れ、その上にはこれもおもちゃのような小さな冠のようなものを載せて、あごでひもを結んでいた。
「南無阿弥陀仏……」
「南無しゃかむにぶ……」
調子のはずれたような声が、人囲いの中からした。女はきっ、とそちらを振り返った。
「なむしゃかしゃか……」
人垣から、小柄な猿のような男が飛び出してきて、ひょうきんな身振りで踊り出した。笑い声とはやす声が、どっとあがった。女は舞うのをやめ扇の代わりのつもりだろう、右手に持った笹を振りあげて男のほうに近寄った。
「おやめ、この悪、なんてばちあたりなことを……」
女は笹の枝で男を打とうとした。男はすっとんきょうな声をあげ、にやにや笑いながらひょいと身をかわした。
「お待ち、この」
女は車を引っぱったままで男を追った。男は狭い人垣の中を巧みに逃げ回った。笹が空を打つ度に、笑い声が高くなった。
良然はその有様を見ながら、やや悲しげに眉をひそめていたが、ふと腕をつかまれて後ろを振り返った。
「お、……」
良一がのどをつまらせて何か言おうとしていた。彼は良然の腕にしがみついてぶるぶる震えていた。顔は血の気が失せ、驚愕のために引きつっている。
「どうしたのじゃ良一」
良然は彼の両腕をしっかりつかんでそう言った。ひくっ、と息をのむような声が良一の口から漏れた。回りの人間はそんな二人に目もくれずはやしたてていた。
「お師匠さま……」
良一はやっとそう言った。
「あれは……あれは……母です」
なにっ、と唇だけ動かして良然は振り向いた。とたんにしがみついていた手を突き離して、良一は人垣の外に駆け出した。はっ、と良然は振り返った。
「良一!」
良然はあとを追って駆け出した。歳とは思えぬ素早さで人ごみから抜け出したが、すでに良一の姿は見えなかった。良然は黙って走り出した。あちらこちらに目をやっていたがやがて方向を定めたらしく、方丈の裏手へ向かった。そこは下りの斜面になっており、杉の若木などが陽に暖められ、のどかに見えたが、突然あっ、という叫び声が空気を震わせた。何かのずり落ちる音を聞いて、良然はそちらへ駆け寄った。下草が生い茂ってわからなかったのだろう、えぐられたようなくぼの底に良一は横向きに倒れうめいていた。
「良一!」
良然はひらっと跳んで良一のそばへ降り立った。
「どうした、痛むか」
抱き起こされて、良一はううっと呻いた。彼の顔は涙で汚れてくしゃくしゃになっていた。
「おとうちゃんが」
良一は奇妙に甲高い声で叫んだ。
「おとうちゃんが死んじゃった」
彼は泣きじゃくりだした。
「おかあちゃんもいなくなっちゃた」
すすりあげのどをつまらせけんめいにしゃべった。
「ぼくがわるいんだ」
そこまでいうと 彼は火のついたように泣き叫びだした。もはやそれは十六才の少年ではなかった。彼の心は今、九つの日に逆戻りしていた。
「良一!」
良然は激しく彼の体を揺さぶった。彼は泣きやまなかった。良然は手を上げて、音高く彼の頬を打った。良一はひっ、と息を引いて呆然と目を見開いた。
「しっかりしろ、わしがわからぬか」
彼はびっくりしたように師の顔をながめ、突然また泣き出しそうに眉を曇らせた。
「……お師匠様……」
「本当にあれは母上なのか」
良一はこっくりをした。
「なぜ逃げた」
「わたしは、……わたしは……」
「母をあんな姿にしたのは自分だ、と言いたいのか」
良一の顔が恐ろしげに歪んだ。
「喝!」
良一は疑わしげにうつむいた。
「どうだ」
「でも……、でもわたしはもう、生きる望みがありません 母が、あんな……かわいそうな姿になってしまって、わたしにはもう、……」
良一は首を振った。良然の目に怒りが宿った。
「たわけ!」
良一は思わず師の顔を振り仰いだ。それは彼が見たことのない、恐ろしげに引きつった顔だった。
「それほど母に会いたくないか、それほど死んでしまいたいか、よし、死んでしまえ、おまえのようなやつがのうのうと生きていても何にもならん、死んでしまえ、しかしその前に……」
良然はいまいましげに言葉を切った。
「ふん、哀れなやつじゃ、母が今どうして、おまえを待っているか知らずに死ぬとは……」
良一はけげんそうな顔をした。良然は立ち上がって彼は引き起こした。
「来い、証拠を見せてやる、あの物狂いはおまえの母などではない」
良一は何か言おうとしたが良然は荒々しく彼を引っぱりたてて、大股に歩き出した。良一はわけがわからないままついていった。
「弥陀頼む、人は雨夜の月なれや、雲晴れねども西へいく、阿弥陀仏やなもうだと、誰かは頼まざらん、誰か頼まざるべき……」
さっき、からかっていた男はもういなかった。人々も静かで、見ほれたように女の舞を見守っていた。女はひとしきり舞うと謡うのをやめ、笹を差し伸べて人垣のきわへ近寄った。人垣が少し揺れた。
「のうのう、法楽の舞いを舞おうに、誰ぞ囃いてたべのう」
人垣にまた笑いが湧いた。ひゃいひょう、と誰かが笛の口まねをした。女はうろうろと歩き回った。どっと笑いが高まった。そこへ良然が分け入って、良一を人垣の中に残したまま、囲みの中に入って行った。
「いかに」
よく通る声が響いて、ざわめきがすっとやんだ。
「いかにそこな狂女」
女ははっとした様子で僧の方を振り返った。
「尋ね申したいことがある」
女は素直にうなずいた。
「御身の国里は、いずこか」
「これは奈良の都のものでございます。」
「また、なにゆえに狂気となったのか」
「狂気とは、……わらわは狂ってはおりませぬぞ」
人ごみの中から低く笑いが漏れた。良然はまじめな顔でうなずいた。
「なるほど、物狂いは自分のことを物狂いとは思わぬというからな」
また少し高く、笑い声があがった。女は深々と頭を垂れた。
「申しわけございませぬ、お見逃し下さいませ」
「見逃せとは」
「卑しい女の身で御門前をこのように汚してしまいました。」
「わしには知らぬことじゃ、ただの通りすがりでな」
「いえ、お隠しあそばしますな、きっと徳の高いお坊様でいらっしゃいましょう」
「いや知らぬ、それよりわけをお話しなさらぬか」
女はしばしうつむいていたが、やがて語り出した。
「実は、子に生きて別れました。そのためかように思いが乱れたのでございます。その時に夫も失いました。ずいぶんと長い間囚われの身となって、人とは思えぬ暮らし様の年月を送ったのでございますが……」
女は言葉を切って唇をかんだ。
「そこを逃れまして、それから我子を探し求めました。乞食のようなことをしてあちこち歩き回りましたが、あてもなし、もう神仏におすがりするよりないと思いまして、ここへ参りました……」
女は祈るような目で僧を仰いだ。僧はうなずいた。
「このような姿をするようになったのは、ただひとえに人目につきたいからでございます。このようにたくさんの人が見に来るならいつかは我子にも巡り会うであろうと……」
女はそっとため息をついた。
「ただそれ一心でこのような恥ずかしい姿もさらしましたし、おもしろおかしく舞っても見せたのです。決して御門前をないがしろにしようなどというつもりはございませんでした……」
「いや、決して、そのことをとがめたのではない。むしろ、礼を申したい……。御身の舞い、謡、念仏には心がある。子を思うの一心から出たまことの声だから、こう人を集めずには置かぬのだ。ただひたすら仏におすがりなさる、それほどの願いが届かぬことはよもあるまい」
女は腰をかがめて深く頭を下げた。
「ありがたき、御教化でございます」
「しかし」
女はぎくっとして僧を見上げた。
「もし御身の子が生きていて、元気でいようとも、その子が御身に会いたくないと思っていたとしたら、どうなさる」
女はおそれるように僧の目をうかがった。
「そのような……わたくしには思いもよりませぬ」
「もし生き別れになったときの恐ろしい思い出がこびりついて、母のことを思い出すのさえ怖れてすべてを忘れてしまおうとしていたら……」
女は苦しそうに顔を歪めて、呻くようにいった。
「ふびんなことでございます、でも……」
僧は声を和らげていった。
「別れた時、子はいくつであったかな」
「……九つでございました。七年前のことでございます。今は、もう十六になってございましょう」
「十六にもなって、何がふびんなものか」
突然僧は怒ったようにどなり出した。
「それは現実から逃げようとするものだ。人の道とは、この現実の中以外にはない。人の道からはずれては、仏の道もありえないのだ。現実から目をそむけようとして仏にすがろうなどというのは、弱音にすぎぬ。人の道をまず歩まずして、なんの仏ぞ。現実の苦しみを忘れようとして唱える念仏なぞ、虚しく響くばかりだ……」
あまりの激しい調子に、女は面を上げることができなかった。
「いや、御身は違う。御身の念仏には人の道が現われている。子に会いたい一念に正面から向き合って祈るからじゃ。もし御身にそのような不肖の子があろうと、……いやあるはずがない。御身の心の叫びを聞き取れぬようなものは、決して御身の子であるはずがない……」
女は顔を上げてはっと息をのみ、僧の背後に目をくぎづけにした。僧はいつのまにか澄ました顔に戻っていた。女は崩れ落ちるように地面にひざまずいた。
「お、……お許し下されませ」
「はて」
「どうぞ、この哀れな物狂いに免じて、どうぞお許し下されませ……」
女は土に額をすりつけて震えていた。
「物狂いとな、はて、物狂いと自ら言うのに物狂いはおらぬという、わしは物狂いと思って話しかけたが、どうやら見込み違いをしたらしい、やれやれ……」
僧はとぼけた顔でそっぽを向くと、人垣の中へ分け入って行った。後ろ姿を見送る女の目には、涙があふれていた。おそるおそる振り返ると、人ごみから一歩出て、たくましく育った少年が立っていた。震える声で、確かめるように、女は呼んだ。
「良ちゃん……」
良一はひどく迷っていた。なんと呼んだらいいのだろう?おかあちゃん、と呼びたかったが、彼はもう十六だったし、それに、回りには人がたくさんいた。なんと呼べばいいのだろう。彼はひどく迷っていた……。
その時、彼の口が勝手に動いて、なつかしい人の名を呼んでくれた。
「……母上」
(了)