男の名は白竜。貧しい漁師の子に生まれ、やがて貧しい漁師になった。かなりの歳になるが、子はない、十何年か前に妻も死んでいた。すぐに背後を山に迫られ、細々とねじくれた松のまばらに生えた、狭い砂浜がある海辺に、彼は長いこと一人で住んでいた。彼は一度もそこから外へ出たことがない。時おり山を超えてやって来て、穀類や布などを、干物と交換していく男がある。その男がやって来る山の向こうの村や、彼の行ったことのある市の立つ町、さらにはもっと遠くの都の話など、同じような話を何遍も聞かされたが、自分がそんなところへ行って見ようなどとは、白竜は考えてみもしなかった。
海は広かった。遠いかすかなうねりが、いつか足元の汀に時には巨大な波頭となって打ちつけること、海鳥が白い点になって、ゆっくりと沖の空を動いて行くこと、頭の上から海との境までおおう灰色のむら雲を、びゅうびゅうなる風が突き動かして止まらぬ様を、彼は見て、彼には手の届かぬ大きなもののあることを知っていた。
その広い海原へ出て行くことも、彼はしなかった。狭い入り江の、何か所かの釣場と、貝と海草の採れるあたりを知っていれば、そんなに飢えることはなかったし、それに彼には舟がなかったからである。いや、彼は舟というものを知らなかったのではない。ただその舟は、砂浜の隅に朽ちて打ち捨てられたままになっていた。彼は、その舟に乗っていた老人から、舟のことについていろいろ聞かされたことがある。その老人は、ある海のあれた晩に帰らなくなって、壊れた舟だけが後日浜に流れついた。
毎朝日の昇る前に、彼は小屋を出る。腰蓑に魚籠を下げ、釣竿を持って、別に急ぎもせず、磯まで歩いて行く、その途中に舟の残骸があって、ぼんやりとそれに目を向けるのが、彼の習慣になっていた。しかし足を止めることもなく、通りすぎるのであった。
ある朝、彼の足を止めさせたのは、彼がそれまでに見たこともないようなものだった。
「こら、なんだべ」
はじめ彼はそれを離れたところからながめるだけだったが、やがて近寄り、とうとう恐る恐る手にとって見た。それはどうやら衣のようである。だが、それが衣だということが、彼にはなかなか認められなかった。それは彼の持つ衣のイメージからあまりにかけ離れていたからである。それが、彼の着ているぼろと同じ名で呼ばれるとは、どうしても思い難かった。……ここに腕をこう通して、ここを合わせれば、……形は衣でいいのだが、しかし、何という手触りだろう。彼は突然自分の着ているものが、ごわごわざらざらして、気味悪く重たいのを感じ始めたようだった。それどころかそれに触れている彼の手まで不器用で薄汚く思えてくるのだった。それにその色は、……色、というより光が、それからぼうっ、と立ちのぼって、……金襴、という言葉が頭に浮かんだ。山向こうから来る男が言っていた、都には思い描くことさえできないようなまばゆいばかり美しい織物があるそうだと。これはその錦というものかもしれない。彼は一応わかったような気分になった。
「でも、なら、なんで……」
その錦がこんな所にあるのか、彼はそれの掛かっていた松の枝を仰いだ。しばらくそうして思いあぐねていたが、なにも思いつかない代わりに浮かんだのは、また例の男の言葉だった。
−もし俺がその錦を持ってたら神棚の奥にしまって家の宝にするんだがなー。
突然彼は晴れやかなような気持ちになった。宝にする。このきれいなものが自分のものになる、そうだそうしよう。今すぐ家に持ってかえって大切に大切にしまっておこう。彼は踵を返して歩き出そうとした、そのとき。
「もし……」
一瞬彼は、なぜ自分が足を止めたのかわからなかった、後ろから声をかけられるなど、ほとんど有り得ないことだったからである、しかし振りかえると、そんなことを考えるまでもなく、相手がちゃんとそこにいた。……彼はまた迷ってしまった。女だ、ということは真っ先にわかったが、しかし彼の知っている女といえば、母と妻の二人きりだけだった。そしてそれは、もっと汗臭くもっとなんでもないものだった。彼の前に立っているのは、どこか、違っているものなのだ。どこが違うのか彼はわからなくなってその……女をじっと見つめた。女は彼の目を一心に見守っているようだった。彼はしだいに何かまぶしくなって、そっと目をそらしてしまった。彼は自分の心持ちがいつもと違っているのを感じた。何かしゃべって見たいような気持ちなのだが、その何かがまるでわからないのだ。ふと彼は、手に持った衣と、女とを交互に見やった。ああ、と彼は思った。
「こら、おめえさんのかね」
女はわずかにうなずいた。頬笑んでいるようだった。彼の胸に明るいものが込み上げてきて、彼は自分が笑うのを感じた。笑う、ということも彼にはまれな、というよりよくわからないことだったけれども、彼はその快さを拒もうとはしなかった。ずっとこのままでいればいいと感じていた。しかし、そうはできないことに、彼は気づいた。これからどうするかを考えなくてはならない。この衣を持ってかえって宝にするというさっきの考えがだめになったことを彼は思った。この衣がこの女のものなら、その通り渡さねばならない。
「これ、かえしてほしいか」
女はまたうなづいた。わずかに不安げな表情であった。彼の心にも不安の輪が広がった。返したらどうなるのか。ここにこのままずっといるわけはない。きっと元来たところへ返るのだろう。そうしたら…。
「おめえさん、どっから来たんだ」
女はためらいがちに、上のほうを指差した。雲一つない空がひろがっている。彼は女を見直して、眉をひそめた。妙な胸苦しさがこみ上げてきていた。では、二度と手の届かぬ所へ行ってしまうのだ。このひとは、そしてこの衣も。彼はまたわけのわからない、しかし今度は苦しさを感じた。彼は自分が何を言っているのかわからないまま、しゃべり出した。
「こら、こらおらが見つけたんだ、おら、おら宝もんにしようと思ってよ、おめえさんにやったら、できねくなっちまう……」
女の顔が悲しげに曇った。彼は頭の中が真っ暗になって、ちがうんだ、とさけぼうとしたのだが、それができなかった。
「私は……」
女が話し出した。何とも言えぬその響に彼の心はさらに女に引かれ、それといっしょに苦しさも増した。
「その羽衣がないと天へ帰れないのです、どうか……」
彼の心を、二つの苦痛が責め苛んでいた。
「でも、天へ帰ったらもう、また来ちゃくれねえんだろ」
「人間に会うために下界へ降りることはできないのです……」
白竜と女は押し黙って立っていた。ふと白竜の口から、問いかけともつぶやきともつかぬようなものがもれた。
「なんでこんな浜辺なんかへ降りてきたんだ……」
「ここが、とても美しかったから……」
呆けたような顔を彼は上げた。
「美しいって……」
女はうなずいた。
「だって、美しいっていうなら都なんてとこのほうがもっと……」
女は首を振った。突然彼の顔が輝いた。
「んだ、なあ、おめえさんおらの嫁さまになってくんねえかい」
女はびっくりして、興奮している男の顔を見つめた。
「そうすりゃこの衣はおめえさんのものにもなるし……」
「でも」
女はさえぎった。
「私は人間ではありません、人間の妻になることはできません……」
「ただ、ただいっしょにいてくれるだけでいいだ、決してひもじいおもいなんかさせねえから、ずっとおらの家にいてくれれば……、おら、おらな、こんな気持ちになったの初めてなんだ、おら、いっしょうけんめい魚とる、家ももっと住みいいのを作る、おら、もうただ魚食って暮らして、そんだけのこと繰り返すのはやだ、おめえがいなくなったら、おらどうしたらいいかわかんねえ……」
女は悲しみか、憐れみか、それとも憧れの混じったような目で彼を見ていたが、首を振って言った。
「私は、天へ帰らなければ……」
彼は宙を見つめたまま言葉をとぎらせたが、ため息をつくと、うつむいた。
「やっぱ、だめか……」
また彼と女と黙り込んだ。あたりはずいぶん明るさを増してきていた。ぽつんと彼は言った。
「天へ昇ったら、おめえさま、おらのことなんか、忘れちまうんだろうなあ」
女は黙っていた。彼は鋭い痛みが胸を突き抜けるのを感じた。仕方のないことだ、とは思ったが、くやしかった。彼は手にまだ衣のあるのを思い出し、それがもはや何の用もないものであるのを知った。ひきとめることができないのなら、もうその顔が悲しみに曇っているのは見ていたくない。
「これ……」
彼は押しつけるように羽衣を差し出した。
「困らせて、悪かった」
彼はうつむいて後じさった。女の喜んでいる顔が見たかったが、顔が上げられなかった。
「ありがとうございます」
女の頭の下がる気配がして、彼は頭に血が上った。
「何か、お礼がしたいのだけれど……」
人間といっしょにはいられないのだろうと言いたい衝動が突き上げたが、押さえた。そんな彼の心を見透かしたように女は言った。
「せめて舞を舞うことを、お許しください」
彼が顔を上げると、羽衣をつけて女が光に包まれていると見るに、その手が漂うように伸びてきて彼のからだに触れた、途端に彼の体は中に浮かび上がった。折りから曙の光が満ち渡ったと見たのは、天女の放つ光に包まれたのか、それとも世界の砕け散るような恍惚だったろうか、重さの無くなったまま、空間だけが無限に変化していった。彼を彼女が突き抜け、ときに引き合いながら回りあい、それから混じり合い、分かれた。そして最後に彼はどこかで記憶のある不思議な感覚を味わった。何ものかに包まれたまま、時が流れないのである。そしてそれは過去にあっただけでなく未来にもやってくるものだった……。
気がつくと、太陽はずいぶん高くなっていた。彼は立ち上がってあたりを見回した。彼は羽衣を見つけ、天女に会った、が、それを確かめる名残はどこにもなかった、彼は青い空を仰いでしばらく立ち尽くしていた。雲一つなかった。彼の目は何かを求めて当て所なくさまよっていた。
釣竿を拾い、彼は家へ向かって歩き出した。朽ちた舟の所まで着たとき、彼の足が止まった。割れて、傾いだ舳先と、遠い、うねり寄せる海とを見比べ、そしてまた空を仰いだ。舟に目を戻して、彼は、一つため息をついた。彼は再び家へ向かって歩き出した。
(了)