すでに左肩はしびれて感覚がなかった。右の腿は無理やり引っこ抜いた矢のあとから血が流れだし、くるぶしのほうまでぐっしょりと濡れていた。全身に受けた無数の刀傷が所々思い出したようにぎりぎり燃えあがる。左目には流れ込んだ血が固まってねっとりふたをしていた。残った右の目も時折真っ暗になったり、光が乱舞したり、世界全体がぐるぐる回り出したりする。あてどもなく歩き続けているのが我ながら不思議だった……。
「待てい、平家の武将とみた、予は熊谷次郎直実……」
ありがたい、これで終わりだ。そう思って後は意識がなかった。おのれの首が胴からはなれたことはもちろん知らなかったろう。平敦盛、十六才。
(誰だ、私の手を引くのは)
気がつくと彼は長い下り坂を降りていくようだった。回りはただぼんやりと、暗い。彼の前を歩いているのはどうやら男のようである。それも恐ろしくでかい。
(お主、何者だ。平氏か、源氏か。私を敦盛と知ってのことか)
返事はない。不審に思って気がつくと、左の目が見えるようになっている。
(血でふさがっていたはずなのに)
彼はあわてた。考えていただけと思ったのに口に出てしまった。しかし前の男はなにも聞かなかったように黙々と彼の手を引いていく。目だけではない。肩も腿も、いや全身にあったはずの傷がまるであるように感じない。そればかりか彼の着ているものは鎧まで含めて、家を出立して来た時のように新しくきれいだった。
(おかしい)
また口に出てしまった。と、不意に前の男が振り返った。ぎょっとして彼は身を引いた。
(熊谷次郎直実)
一瞬にして記憶がよみがえった。
(いけない、殺される)
刀を抜いて彼は突いていった。ふう、と熊谷の影が消え、彼は足場を失い、虚空を落ちて行った。
彼は起きあがった。ずるり、と足がすべった。何か手がべとついている。目の前に持ってくると真っ赤だった。それに生臭いにおい。
(血だ)
自分はけがをしていない、では……。回りの光景に目をやって、彼は全身を凍りつかせた。屍の山なのである。血まみれの死体、腐りかけた肉塊、しゃれこうべ、白い肋骨にこびりついた腐肉、そしてうじの群れ……。寒い、濁ったものが足から背へ這い上がって来た。それがのど元へ突き上げた時、彼は吐いた。血潮と白骨の中に手をついて、繰り返し何度も吐いた。吐くものがなくなってしまっても、空えずきが止まらなかった。
(なんだ、これは、ここは、どこだ)
何かが起ころうとしていた。空は見渡す限りどろどろした血の色にうずまいている。どこからか、遠いほら貝の音が鳴り響いているようだった。いやほら貝ではない。それは地のそこから湧き上がるような、どす黒い恨みのうめきだった。
「ちくしょう!」
敦盛は胃袋の裏返るような不快感をそのままに、声のしたほうへ目を馳せた。それは奥深い虚空の彼方であった。
「俺の恋人を奪いやがって、ちくしょう!」
それはぞっとするように彼の耳をかき回した。
「俺よりあいつを好きになりやがって!」
虚空にぼっと赤い火が灯り、それはたちまち灼熱する光球となった。
「死んじまえ!」
光球があっというまにふくれあがり、空が赤い光で満たされたと思った。次の瞬間、全身が燃え上がったが、錯覚であった。光は去り右の目だけが燃え続けている。左の目に何か棒のようなものが映っている。彼はその棒をつかみ、絶叫しながらそれを引き抜いた。鉄の矢であった。
「あのやろう!」
彼ははっと振り返った。
「生意気いいやがって、おれを言いまかしやがって!」
虚空にもやもやと黒い渦が巻出した。
「おれのほうが偉いんだ、おれが!」
渦が轟ごうとうなり始めた。
「思い知れ!」
渦が彼に襲いかかった。全身が一度に噴火したように思った。それは巨大な蜂の群れだった。彼は泣き叫び、転げ回った。
(なぜだ、なぜこんなに苦しまねばならん)
蜂はいつの間にか消えていた。全身はまだ火の玉のようだった。彼は立ちあがり、虚空に燃えるような目を向けた。
(おのれ、平敦盛むざむざやられてはおらぬ)
そう叫ぶと腰の太刀を抜き放った。どこかで誰かが笑ったような気がした。
(誰だ)
今度ははっきりと聞こえた。気がつくと頭の上におおいかぶさるように黒い影がある。
(敦盛、哀れな小僧よ)
(何者だ)
(閻魔王、ここは修羅道ぞ)
(修羅道だと、では私は……死んだのか)
(そうだ)
(あの矢や蜂はなんだ)
(現し世の者共が修羅の心を抱いたとき、現われる)
(修羅の心だと)
(そうだ。他人より勝りたいと思う心、相手を打ち負かしたいと思う心、奪い合い、戦い合う心だ)
(それは私にはなんの関係もないではないか)
(おまえはこうして修羅道に落ちたではないか。誰の怨念であろうと、おまえのものと同じことだ)
(私は武人だ。人と戦うのはあたりまえだ、しかたのないことではないか)
(おまえの手にかかったものの肉親はどうだ。その恨みをどこへやる。また浮かばれないその者の魂は。見よ)
指すほうを見れば、それは源氏の軍勢である。彼の手にかけられた者たちの……。
(おまえは二度も刀を抜いたのだ、敦盛。おまえは修羅だ)
彼は迫る軍勢に向かい、身構えた、その時である。
「父上」
虚空に朗々と幼い声が響わたった。
(あれは)
(おまえの息子だな、敦盛)
(私の……)
(暇をとらすぞ、行けい)
とたんに彼のからだは軽くなり、宙を飛び始めた。彼は自分の行くべき所がわかった。彼は一瞬にして虚空を超え……。
生田の森に敦盛はその姿を現わした。はや十才になる彼の忘れ形身が彼を待っていた。
(はや十年にもなるのか)
奇妙なことだが彼にはそれが何となくわかった。
(時間がない)
語りたいことは山ほどあった。平氏の子として生き方をこの子に教えねばならぬ。しかし何と言えばよいのだ、この幼子に。それに、ああ、私はいかに生きてきたというのか。短い、十六年はあまりに……短い。
結局彼の話し始めたのは平氏の栄華であった。そして世の移ろいと、源氏との戦い。
(戦い、修羅か、くそっ。結局私に残ったものは源氏との戦い、それしかないのか)
閻王の笑い声が聞こえてきそうだった。一陣、異様な風が吹き過ぎた。闇の底から何か途方もないものが湧き上がってくる空はたちまち黒雲におおわれ、どよめくような閧の声があがった。子どもが、火のついたように泣き出した。かっ、と熱い血が彼の頭にのぼった。
(遅いぞ、敦盛!)
高笑いが虚空に鳴り渡った。
(おのれ閻王!)
彼の髪が炎のように逆立った。そして刀を抜き放ち、彼は烈風のように軍勢のなかに斬り込んでいった。刃と刃がかみ合い、火花が散る。それは地獄の炎となって我と我が身に降りかかるのだ……。どれほど戦ったろう、気がつくと空の雲がだいぶうすらいでいる。軍勢もいつのまにかうそのように消えてしまった。やがて、月が皓々と照りわたって、しんとした生田の森を映し出した。
(哀れなものだ、人間とは)
子供は泣き疲れて眠ってしまっている。
(もう二度と会うまい)
彼は背を向け、虚空に歩み去ろうとした。
(もしなろうことなら、武人になどなるな。本当に、祈る心を持ってくれ……)
東の空がぼんやりと明けて来た。そして立ち去る姿はかげろうの、小野の浅芽の露霜と、形は消えて……。
(了)