静かだった水面に緩やかな波の輪が広がった。
「ほ……」
池のほとりに腰をおろしていた老人の真白な鬚の間から声がもれた。波紋は有るか無きかになって老人の足元まで寄せてきたが、やがて元通り静かな池水の面に吸い込まれていった。浅く水底に砂利の透けて見える池の中ほど近く、一羽の鶴が降り立っていた。
鶴は一本の足で立ち、ゆっくりと頭を上げ下げしていた。別に魚を狙っているのでもなく、春ののどかな陽射しと水のぬるみを楽しんでいるかのようであった。老人はしばらく黙ってその姿に見とれていたが、やがて我知らずため息をついた。
「鶴は千年を生きるという」
老人は己に向かってその意味を確かめるように、ゆっくりと呟いた。
「わしは百年を生きた。が、あの鳥はさらにその十倍の時を生きるのだ。……はかないものだな。長いと思った時もあるが、たいてい何かに追われるようにして生きてきた。しかし今になってみて、いったい何を以て自分の人生の長さを計ったらよいのか、分からないような気がする」
老人は思いを馳せるように、遠くの方をぼんやりと眺めた。その間に、どこから現れたのか、老人が気づくと汀に近い水面にゆらゆらと丸い影が浮かび上がってきていた。それは程なく水の上へ頭を突き出して、もう一度かすかな波紋を池の面に描き出した。
「亀だ……」
老人はひどく心を動かされたように、先ほどの鶴とその亀とを見比べた。
「そうだ、これはまるで、昔のようだ……」
老人は引かれるように立ち上がったが、鶴と亀はそれに驚きもせず、平然としていた。
「お前たち、覚えてはおらぬか……いや、お前たちは知るまい。わしは、かつて皇帝であったのだ。宮殿には池があった。そこにお前たちと同じような鶴と亀がおったのだ。正月の節会にはその池の前でわしが楽を奏した。鶴よ、お前はその楽の音に合わせて羽を拡げたり、首を振ったりしたものだ。亀よ、お前はじっと甲羅を水に浸して足下の砂をまさぐっておった。おお、まるで時が再び戻って来たかのようだ……」
老人の目は輝いて宙をさまよっていたが、ふとある一点で曇りを帯びた。老人はわずかに肩を落とし、水面に見入った。
「わしは一国の政務を執り、最高の栄華に包まれて生きてきた。それが自分の人生だと信じて疑わなかった、というより、それ以外に自分の人生などないと信じてきた。人間として最高の生き方を与えられたのだものな。もちろん自分が他の人間と違う特別の人でないことぐらいは知っていた。もっともまだ幼かった頃はそんな思いを頼りに生きてきたものだが……。そう思い続けるにはあまりに大きな仕事だったのだよ、一国を統べるということは。いや、人間にとって適当に小さい仕事などは無いのに違いないが……。それにしてもわしには勝ち過ぎた荷だったように思う。しかし、わしはわしなりに力を尽くしてきた。数十年もの間、本当に気の休まる時はなかった。幾度何もかも投げ出したいと思ったことか。それが、今こうしてのんびりしているこの虚しさはどうだろう……」
口をつぐみ、老人はいいやとかぶりを振った。
「いや、そうではない。迷うこともあったが、わしは幸せだった。すべてが生き生きとしていたのだ。数えきれぬ事件も、失敗も、遊楽も、今にして思えば何もかもがわしを未来へと引っ張ってくれた。どうすれば国がよくなるか、国は何のためにあるか、人は何のために生きるのか、尽きることのない問題があったからだ。おお、わしは何か為し得たろうか。あまたの民がわしを敬ってくれた。わしはそれに応えられたろうか。もっとせねばならぬことがあった。まだまだやり残したことがある。いや、まだ何かをしたい。だが、もうわしの時は終わってしまったのだ……」
老人は支えきれぬ悩みの詰まった頭を抱え込むように、その場にしゃがみ込んだ。うららかな陽光も、髪を真白に染めた老いさえも、その乱れた思いをなかなか静めてくれぬようであった。老人がふと気づくと、足元の汀に間近く、鶴と亀が寄ってきていた。呆然と目を見張る老人に向かって、鶴が韻のこもった深い声で語りかけた。
「世の形というものは、一つの個体によってよく変化し得るものではありません」
老人は半ば口を開きかけたが、声が出なかった。
「それこそ数あまたの民人の、幾世代にも渡る営みの積み重ねによって流れて行くものなのです。先程あなたは私の千の齢をうらやまれましたが、それさえ変わりのあるものではありません。たとえば私は丸々百年の間病に臥せっていたこともあるのです」
「わしは、百年かかって一匹の魚を追いかけ回したこともあるよ」
亀がしゃがれた声でぼそりといった。
「つまり……」
老人はやっと言葉を押し出した。
「時間の尺度が違うというわけか」
「はっきり言えばそれさえも問題ではありません。人間の中にも、あなたのように百年生きる者もあれば、十年で生涯を終えるものあります。あなたは数十年のことを思い起こして嘆くけれど、思い返すことさえせず死んでいく者はどうでしょう」
「不幸な……いや、かえって幸福か……」
「いいえ、それも一つの人生を生き抜いたのです。変わりはありません。あなたにとって人生は一つしかないはずです。この私もあなたにとっては、ただあなたの現在の中に生きているだけです。あなたにとって時とは、あなた自身の時があるばかりなのですよ」
「人間というやつは、死というものを安直に考え過ぎる。だからこの今を皮にはさまれたあんこぐらいにしか考えられんのじゃ」
「でも、誰でもいつか死ぬというのは……」
「死を自分で体験したやつなどおらんのじゃよ」
亀はめんどくさそうに首を引っ込めかけ、のろのろと方向転換して水の中に入っていった。
「私たちはずっとあなたの宮殿の池にいました。あなたという人間を見守りたかったのと、あなたの楽の音に聞きほれていたからです。これからもずっとそばにいますよ」
鶴は舞い上がり、やがて白い雲の切れ間に紛れて見えなくなった。水の面も再び何もなく静かになって空の色を映している。
ふと老人は我に返った。うたた寝をしたようである。
「……夢を見たのかな」
老人はごろりと仰向けになった。軽く目を閉じると、自分の老いが快く感じられるような気がした。初めてのことである。老人は節を付け、軽く口ずさんだ。
「庭の砂子は金銀の、玉を連ねて敷妙の、か。……どうしようかな、詩でも作ろうか、旅でもするか。うん、まず友達を作ろう。それからだ……」
高い空から雲雀の声が落ちてきた。
(了)