一、蝉丸
風がまたざわめきだした。蝉丸は見えぬ目をやはり不安げにもたげて、そのざわめきの中に何かを聞き取ろうとするかのようであった。先に立って歩いていた従者は気配でそれを感じたらしく、ちらとどんより濁った目を振り向けたが、むっつり閉じた口を開こうとはしない。何もなかったような平静さでまた前を向き、歩いていく。
蝉丸は自分の運命を知っていた。第四皇子。本来ならば目もくらむような華やかな世界が彼に与えられるはずであった。世の中にありとあらゆる美しさが、彼の目の前に繰り広げられるはずであった。そして、それは実際にあったのだ。ただ、彼の目がそれを見ることができなかっただけで……。
彼は思いだす。肉感的な官能にあふれた絶え間のないさざめきを。ぼんやり立ち尽くす彼の周りをたゆたい、流れて行くそれらの響きを、彼は聞き分けることができた。男、食欲、潤い、ぬくもり、破壊、支配、きぬずれ、女、賭け……。それらはすべて彼にもわかるものだったし、彼も求めているものだった。いや、人一倍飢えていたのだ。だが、それらにはいずれも彼の理解し得ぬものがつきまとっていた。それゆえ彼にはそれらの一つとして手に入れることはできなかった。すべては彼を置き去りにしたのだ。
それが、光というものだと、彼に生まれつき欠けているものだということを知ったのは、いつ頃のことだったろう。彼はすべてを理解した。自分がだまされていたのだということも。人々が彼を呪い始めるよりずっと前に、彼は自分を呪うことを知っていたのである。その時から、ただ一面の琵琶のみが彼の伴侶になった。
もしかしたら琵琶の音が自分を救ってくれるかも知れぬ、と彼はひそかな期待を抱いていた。そしてそれはうまく行きかけたかのようであった。人々は子供離れした彼の琵琶の音を一時褒めそやした。しかし、そこまでだった。何かが足りないのだった。結局彼は光のささぬ淵であった。すべては彼を取り残して、軽やかに流れていったのだ。
世の中が暗くなった。何一つ身に覚えのない貴族たちは、その暗さを怪しんだ。何かの因縁があるはずだ。欠けることのない満月に照らされれば世の中は明るいはずだ。光のささぬ者が宮中にいるから世の中に影がさした。そう考えて、誰もが納得した。
蝉丸は何も言わなかった。彼には光とか影ではない、何か毒のようなものが世の中に流れて行くのがわかっていたが、何も言わなかった。言ってもしようのないことであったし、それに彼には、こういう成り行きが当然のことのように思えたのである。もともと自分は捨てられる運命にあったのだ。今までは、そうされることさえ忘れ去られていたに過ぎぬ……。
彼は何も知らせられずに連れ出された。無口な従者の率いる一行は、こっそりと街中を抜け、山道へと辿って行くようであった。
梢がざわめいて、蝉丸の頬にひとひらの木の葉が降りかかった。蝉丸はびくっと首を震わした。また一つ不安が胸の内に忍び込んでくる。それはただ孤独への怖れだけでなく、何かこの山里に吹きすさぶ風の音が、あまりに彼の耳に親しくしみてくるからのように、蝉丸には思えた。
やがて、一行は歩みを止めた。琵琶をかき抱いたまま、蝉丸は降ろされ、柔らかい乾し草のようなものの上に座らせられる。そのすぐ前に平伏して、くぐもった声で従者は言った。
「これで私の役目は終りでございます」
蝉丸は黙っていたが、従者の立ち去る気配はなかった。
「ここは……何処か」
「逢坂山の林中にございます。雨露ほどはしのげましょう。山家のものが立ち寄れば、食い物なども分けてもらえるやもしれません」
「乞食か」
蝉丸は皮肉に口を歪めた。
「人が通らねば、ご自身で食物を手に入れねばなりません。さもなくば、飢え死に」
「別に、生きながらえようとも思わぬな」
またしばらく、二人は黙っていた。
「何が聞きたいのだ」
「あなた様の、静か過ぎるのが解せませぬ。お恨みにはなりませぬのか」
「誰を」
「大皇……お父上様を」
「そうだね、むしろ感謝したいほどだ」
「解りませぬ」
「私のこの目はどうやら悪業の因果らしい。その償いに苦行をさせてくれようというのだ。たいしたお慈悲ではないか」
また、沈黙が訪れた。
「……あなた様はまだ、飢えを知らぬ。肌身に食い込む苦痛をお知りにならない」
「それを知れば恨むようになるというのか」
「……きっと」
「だが、今の私には関係のないことだ」
「おのれの死は誰しも恐ろしいもの。それを知らず、のほほんとしているあなた様は……抜け殻のようなものです」
「……抜け殻か」
「おのれを守るために戦う、それが生でございます」
「例えば、おまえの足に取りすがって助けを求めるとか……」
びく、と従者の肩が震えた。
「……あなた様の誇りが、許しますまい」
「で、やり場のない怒りを捨てたものへ向けるというわけか」
従者はまなじりをつり上げて蝉丸の穏やかな顔をにらみつけた。
「恨みのないはずがございません。満ち足りた生活を奪われて、なおそれを慈悲などと言うのはきれいごとに過ぎない、……」
「聞け」
蝉丸は鋭くさえぎった。従者はその思わぬ威圧感にたじろいだ。
「俺はな、すべてから忘れ去られていたのだ。お前の言うような、奪われるものなどなにもなかった。残酷な偽り以外は……。だが、こんなことを言ってもお前にはわかるまい」
従者は口をゆがめ、肩で息をしていた。
「恨みが何になる。お前の言う怒りとは何だ。求めるものを得られぬ不満を甘えの中にかばってやるだけのものだ。お前には絶望というものがどんなものかわかるまい。お前には……俺を傷つけることなんかできやしない」
従者は跳ね上がるように立って蝉丸につかみかかるかと見えたが、肩を怒らして踏みとどまった。
「……そんなことを言っていられるのも、今のうちだ」
「……かもしれぬ。だが、今のこの私をどうにもできまい」
従者の全身は一瞬、燃え上がる炎に包まれた。しかし、それは両眼の中に押し込められてどろどろの溶岩と化し、それもやがて濁った暗い淵の中へ沈んでいった。従者は蝉丸に背を向け、歩き出した。
「琵琶を、聴いてゆかぬか……私がお前のいうような抜殻かどうか」
従者は止まらなかった。蝉丸は琵琶をとって弾き始めた。その音色は、始めてそれにふさわしい場を得たかのように、木々の間を渡っていった。やがて従者の足音は消えた。蝉丸は琵琶と風の音に包まれて、一人きりになった。
二、逆髪
逆髪は知っていた。自分が醜い女だということを。第三皇女という身分がその醜さにとって何の助けにもならぬということも。自分ではもう忘れてしまっていたが、彼女がそういったことを感じ取り始めたのは驚くほど早いうちからのことであった。
幼い頃から、彼女は鬼っ子と言われてきた。周囲から厳しく戒められてはいたが、遊び盛りの子供たちの口を封じることなど不可能だったし、大人たちもいくぶんかは聞き流していたのだ。それにしても逆髪は、いくら鬼っ子と言われようが、おとなしく内にこもってしまうような子供ではなかった。鼻水の垂れた悪たれのほっぺたを張り飛ばしたり、きれいにおぐしを揃えた年かさの女の子を池に突き落としたり、反対に叱られるようなことばかりしていた。
しかしそれより早く、物心つく頃からすでに、彼女は自分がなぜ鬼っ子と言われるのか知っていた。もう慣れっこになってしまった思い出である。まだものもよく言わぬ幼児の髪を、何とかなでつけようとして苛立つ乳母の膝の上を、逆髪は何度も何度も逃れた。もがいても放してくれぬ時は、かみついて逃げた。そのうちに、つかまる前に逃げることを覚え、いつか風呂も食事も、じっとしていることはとにかく嫌いになった。しまいには乳母もあきらめ、遠くからじっと逆髪を目で追うばかりになった。逆髪がわずかでも人を好きになったのは、その乳母が最初であった。
さまざまな企てが少女に対して試みられた。お菓子で誘ってつかまえ、風呂に入れてきれいな着物を着せる。髪は油で固めようとしたり、頭巾をかぶせたり。しかし、結局はすべて無駄骨に終わってしまったので、最後には誰も逆髪のことをどうにかしようとなどとは思わなくなった。逆髪は自由を勝ち取り、気ままに宮中を歩き回ることができた。
そんな逆髪も、一度だけ迷ったことがある。築山の薮の中のねぐらを見つけられ、こっそりと連れて来られて、身繕いをされたらしい。気がついて目を開くと、見たこともないような少女が自分を見返していた。それが鏡に映った自分の姿だと知ったときの彼女の驚きはどんなものだったろう。
肩まで垂れた真直ぐな黒髪。ちょっぴりきつい顔だちをしているが、よく整って愛らしい。奇蹟が起こったのか、と少女は思った。あこがれなかったわけではない。夢にも見た。これでみんなの仲間入りができるのだろうか。そう思うと胸の底の一番奥がうずいた。それならば皆のするようにおとなしく行儀作法もしようか。おませの薄ばかみたいな顔をして、お愛想の一つも作って見せたっていい。たまらなく不安で、背筋のぞっとするような想像ではあったが、その時逆髪はそれを抑えつけたのだ。
ぎくしゃくと身をこわばらせ、少女は縁廊を歩いていった。父、大皇にまみえるためである。長かった。脂汗がにじみ、頭の方に妙な違和感を覚えたが、それさえ気に留めぬほど、少女は必死であった。ひそひそとささやきが聞こえ、忍び笑いが追いかけてきたが、怒りさえ湧いてはこなかった。そうして、本殿の渡廊にさしかかった時であった。つまずいたか、滑ったのか、逆髪は横様に倒れた。
しまった。そう思った瞬間、野兎のように逆髪は跳ね起きていた。きょろきょろと回りを見回す逆髪を、奇妙な沈黙が押し包んでいた。何か変だった。それが何か、見つけようとする逆髪に、一気に高笑いの波がぶつかってきた。もう考えている暇はなかった。逆髪は衣の裾を引きずり、逃げ出した。身を翻すときに、何か黒いものが廊下に落ちているのが目のはしに残ったが、その意味を考え始めたのは、重たい上着を放り出して欄干を越えた時である。築山へ向かって走りながら、逆髪は明らかな異変を感じ取っていた。頭が涼しい。胸騒ぎが募っても、頭に手をやる勇気がなかった。
池のほとりに手をついて、逆髪は涙をぼとぼと落としながら、目をいっぱいに見開いていた。小さな波紋に乱れ、にじんでぼやけた視界の中に、無残に頭を刈られた少女の顔が揺れていた。廊下に落ちていたのは、かつらであった。倒れたとき、侍女の一人が踏みつけてしまったのだろう。慌てて起き上がったために、はずれてしまったのだった。
喉を詰まらせるような憤りの固まりが突き上げてきていた。笑った人々が憎かった。みっともなく逃げ出した自分が憎かった。いや、それよりも、普通の姿になれたと思い込んでおとなしく奴らに従った自分が情けなかった。奴らは自分にこんなことをしたのだ。心の中では最初から自分を笑っていたのだ。髪は女の命だと聞いていた。奴らは自分を殺そうとしたのだ。いや、奴らにとっては命より形のほうが大事なのだ。自分の命などどうでもよかったのだ。私は醜い。けれど、醜くたって命は命だ。私のものだ。
逆髪は、自分が実は皆に媚びようとしていたに過ぎないことに気付いた。そしてその時から、美しいとか、醜いとかいう言葉は、彼女にとってひどく虚しいものになったのである。自分が醜いということは、皆が美しいと言うものと、自分が違っているだけのことなのだ。醜いといわれようが、鬼と言われようが、それはすべて皆にとってのことでしかない。私というものは私にとっての私であって、私は私ただ一人きりなのだ。
それが逆髪の寄る辺となった。自分は他の人々と別な存在であることを意識して、なるだけ接触を持たないようにしようとした。獣のように逆髪は成長した。色々なことを一人で学ばねばならなかった。生きることの困難さは、しかし、精神的な孤独をいくぶんかやわらげてくれたかもしれなかった。
外面的に見れば、逆髪はずっとおとなしくなっていった。相変わらず、鬼女、化け物という陰口は後をたたなかったが、普通には狂女として扱われるようになった。
しかし、心の内ではますます強く他人を拒絶する逆髪であった。それは人の心の歪みゆえであったろうか。あるいは自分を疎外する世間という常識への憎しみからか。それとも、自らの内に湧き起こる何かをかたくなに否定していたのか。恋も、逆髪は知らなかった。いや、そんなものが芽生えようとする前に、彼女の敏感な指先は、ことごとくそれらをひねりつぶしてしまった。彼女は自分が一人きりであることを認め、それに慣れようとしたのである。
そんな逆髪にも、密かにではあるが、同情のような共感を呼び起こす者が一人だけあった。盲目の弟、蝉丸である。直接に話をすることなどなかったが、逆髪には蝉丸の孤独が手に取るようにわかる気がした。蝉丸の方はどうだろう。ただ狂女の姉とだけ聞いているのだろうか。
逆髪は、弟と自分の境遇を比べて見るのだった。姿形の異常さからのけ者にされ、皆からはみ出してしまった自分。機能の一つを奪われ、皆の中に入っていけない弟。光と美という世界をそれぞれに失った二人。皆の中にいてなお孤独を強いられる彼と、気ままだが完全な孤独の中にある自分と、どちらがより不幸か。いや、そんなことは比べられるべきものではない。どちらも充分に不幸なのだから……。
そんなある日、蝉丸が逢坂山に捨てられたという話を逆髪は耳にした。前世の悪業を償うためとかいう。そんなばかな話があろうか。逆髪は憤りを抑えきれなかった。蝉丸に会いに行こう。そう思うと矢も楯もたまらず、逆髪は生まれて始めて宮中から出るという冒険に挑んだのである。
三、道行
鴨川を後にしたとき、逆髪は思わずため息をついてしまった。自分がこれほどに心弱くなるとは思ってもみなかったのである。戻ろうか、そんな思いが泣き言めいて幾度も胸を刺した。いったい今まで自分が孤独だと思ってきた、その孤独とは何だったのだろう。
宮中は静かであった。命にかかわるような恐ろしい敵も考えられなかったし、食べ物もいくらでもあった。着物もねぐらも適当に按配できたし、自ら関わりを持つまいと決めた人々さえ、見慣れた生活の一部だったのだ。そういった諸々のものがいかに何気なく自分を支えていたか、逆髪は苦々しく、いや、何か懐かしささえ込めてかみしめていた。
かといって、今更帰るわけにはいかない。そうと知ってしまった以上、同じ所へ戻るのは敗北を認めることになるからだ。甘えを許さないことで、彼女は今日まで生きてきたのだから。もう自分には帰るところがなくなってしまった。その悲しみと不安が、今は彼女の足を運ばせる唯一の拠り所であった。
白川を過ぎる。もはや地理さえ逆髪にはまるで未知の領域であった。うろ覚えの地名と勘を頼りにひたすら歩いて行く。人影もだいぶまばらになってきた。
おかしなもので、御所を出てからずっと、彼女はずっと人の目を気にし続けてきた。自分の格好がおかしいのが気掛かりなのではない。自分がちゃんと狂人に見えるかどうかが心配だったのである。宮中では、髪の形が異様なだけで人間ではないように見なされた。狂女でなければ化け物扱いされたのである。しかし外の世界では、少しぐらい髪が茫々でもおかしくはないようだった。ただの人間の素朴な目から見れば、この自分もごく普通の人間に見えてしまうのではないか。そう思うと逆髪は羞恥とも恐怖ともつかぬものを覚えた。彼女は狂女であることによって自分の醜さを周囲にも認めさせたのである。もし、その狂気が認められなければ、彼女はただの醜い、獣じみた女に過ぎなくなってしまうのではあるまいか。逆髪は狂女にして宮中の人であった。それが外へ出ても、他にどんな形で自分が存在できるのか、彼女には考えつかなかったのである。
粟田口。いよいよ都を離れる。しかしまだ関のこちら側である。逆髪は何とか理由をこじつけて、まだ都を完全に出たわけではないのだと思おうとした。今都に別れを告げたら二度と戻れはしないだろうという、確信のようなものがあったからである。
松坂というところを過ぎたところで、逆髪は道に迷った。いや、元々たどるべき道を知らないのだから、正確には山の中に迷い込んだと言うべきだろう。ぐるぐると歩き巡り、方角を失って、空腹と不安に苛まれた揚句、ようやく道らしい道に出くわしたのは、はや日も暮れかかるという頃であった。
道端に立った小さな標石が、逆髪の目を釘づけにした。関へいくら。しかしそれは夕映えの残照の示す都の方角と、同じ方を指していた。知らぬ間に関を越してしまっていたのだ。ではここは音羽山の麓か。何かが胸の内からもぎ取られたような思いがして、思わず逆髪は目頭を押さえていた……。
ここは山科という所らしい。今夜はここで夜を明かそう。野宿をしようか。夜半は冷え込むだろう。できればどこかに泊めてもらいたい。逆髪はまばらに民家の見えるあたりをあてもなくうろついていた。もうだいぶ暗い。道端で小さな子供たちが遊んでいた。逆髪は何かほっとしたような心持ちを覚えた。この子たちは私と変わらない。泥だらけになって互いの顔もよく見えなくなるほど暗くなったのにも気づかず……。子供の一人が逆髪に気づき、叫び声をあげた。
「山ばんばや」
他の子供も振り向き、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「山ばんば」
「わあん」
初め逆髪には何が起こったのかわからなかった。ようやく自分の姿を思い出し、舌打ちしたい思いがした。この子供らにも自分は鬼と見えるのだ。
一人、逃げ遅れた子がいた。転んで、足をくじいたらしい。皆の駆け去った方へ向かって精一杯泣き喚いていた。逆髪は近寄って、そっと抱き起こしてやった。その女の子は、怖さのためにのどを詰まらせ、泣くのをやめた。膝をすりむいている。逆髪はその傷口をなめ、細い足をなでさすってやった。しばらく女の子は身をこわばらせ、しゃくり上げていたが、やがていつの間にか逆髪の胸に身をもたせかけるようにしてきた。逆髪は何も言わなかった。何か言えば逃げられてしまいそうで、怖かった。放したくなかった。いったいどれほどぶりのことだろう。人の肌のぬくみを感じるなどというのは……。
しかしいつまでもそうしてはいられなかった。立てる、と聞くと子供は素直にうなずき、逆髪に添われて家路をたどった。逆髪がふと気づくと、そこここの林の陰から、さっき逃げ散った子供たちが様子をうかがっていた。逆髪は思わぬ幸福感で胸がいっぱいになり、そっと吐息をついた。
納屋でもいいから泊めてはもらえまいかという逆髪の頼みを、子供の母親はにべもなく断った。無理もない、と逆髪は思った。蓬髪で乞食同然の薄汚い女が、着物だけはぼろだが上等の絹をつけているのだ。気味が悪くなるのは当たり前である。途方に暮れてとぼとぼと歩いていく彼女に、闇の中から幼い声が呼びかけた。
「おばちゃん」
さっき一番最初に声を上げて逃げ出した男の子である。
「お寺のお堂に泊まるといいよ。誰もおらんし、みんなでわらを運んどいたから」
別な子がおずおずと近寄ってきた。
「これ、うちの芋かっぱらってきた。生だけど……」
その夜、逆髪は星明かりの漏れ入る薄闇の中で涙を流した。他人とは全然別のものだと思っていた。その自分にこんなに親しくしてくれる者があった。こうまで成り果てて、なお通うことのできる心というものの不思議さに、打たれたのだった。
逢坂への山道を、逆髪はたどっていく。自分が狂女であるというてらいも、もはやない。ただ曲がりくねる道の勾配が、軽い汗と、動悸と息づきとなって、全身をほてらせる。逆髪は自分が今までずっとそうやって生きてきたような気がした。そして今、やっとそれを知ったのだ。これからもそうやって生きていくのだろう。何も変わりはしない。
さらさらと流れる清水の上にかがみ込み、逆髪はのどを潤した。揺れ、乱れて、おどろの髪を戴く影が見えていた。あわれ、と逆髪には思えた。心の歪んだ者たちと争い、形のないものを敵とし、自らの心から逃げ回ってきた自分の過去を、彼女はもはや哀れとより見ることはできなかったのである。
「化け物」
逆髪はぎくりと後ろを振り返った。木立の陰から、陰険な目つきをした男がでてきた。男はものも言わず逆髪につかみかかってきた。逆髪は逃げ出した。足には自信がある。が、男の足取りはさらに驚くべきものだった。明らかにこの山辺りを歩き慣れた、山家の者のように思えた。それなのに侍の出で立ちをし、小太刀を差している。何者だろう。逆髪は破裂しそうな心臓で、考えた。冷たい、山おろしの風が立ち始めていた。
四、逢坂
じりじりと、男は逆髪の背後へ迫っていた。風はいよいよ吹きすさび、木立の葉末を鳴らして谷の方へと渡っていく。びし、と生木の折れるいやな音がした。逆髪の姿が一瞬下生えの中に埋もれ、一度立ち上がりかけたが、また倒れた。男は走るのをやめ、一つ二つ荒い息をつくと、どろどろに濁った目をたぎらせ、ゆっくりと近づいてきた。
逆髪は右のふくらはぎを押さえ、全身を引きつらせていた。男は二、三歩手前で立ち止まり、値踏みするように逆髪を眺めた。その時である。微かに、風の中に琵琶の音が聞こえた。男は全身を緊張させて眉をひそめ、確かめるように首を巡らす。確かに聞こえてくる。危ぶむように、逆髪に目を戻した男はさらにたじろいだ。鋭い、冷ややかな目が男をにらみつけていた。男は息をのみ、気を取り直したようにうなずいた。
「そうか、お前らは……姉弟なのだな」
男は一歩、踏み出した。
「なら、なおさらだ。俺は、お前を……。俺が、どんな思いをして都へ入り込んだか、その都でどんな仕打ちを受けたか、……きさまらだってどこも変わらない、ただの人間なんだってことを、思い知らせてやる」
男は逆髪を、足下に見下ろした。おのれの勝ちを確信したように、傲然と胸を反らした。その瞬間を、逆髪は待っていた。地についていた左手がさっと動き、男の目をねらって石つぶてをとばした。男はかわそうとしたが、石はわずかにそれ、眉間を傷つけた。それだけで充分だった。逆髪は両手で重たい倒木の枝を振り回し、男の向こうずねをいやというほどぶちつけた。男は裂けるかと思うくらい口を広げたが、息が詰まって声が出ない。手前へ倒れ込む男の首筋に、逆髪はさらに一撃を加えた。男はひくひくと震え、それで悶絶した。
逆髪は足を引きずり、逃げ出した。逃げながら、なぜか悲しかった。あの男は自分を化け物と言った。けれど一人の人間として見、向かってきた。それは宮中の人々のよそよそしさよりまだましなような気がした。なのに、あの醜さは何だろう。あの醜さはどこから出てくるのだろう。……不意に、逆髪は、これまで自分が人々の醜さを一身に映してきたのだということを、直感で理解した。
気がつくと、彼女の足は自然に琵琶の音に誘われていた。ああ、そうだ、あの琵琶の音は……。
粗末な小屋の戸口の前に座し、蝉丸は一心に琵琶を弾いていた。誰かが近づきつつある足音を、すでに彼の鋭敏な耳は捉えていたが、知らぬ態で、弾く手を止めようとはしなかった。しかしその内に様子のおかしいことに気づいたらしく、琵琶を膝へ置くと、見えぬ目を足音の主の方へと指し向けた。
その足音は片足を引きずっているようで、ゆっくりと近寄ってきて、二、三間ばかり先で立ち止まった。
「蝉丸ね」
「……誰です」
「逆髪……」
「ああ、姉さん」
逆髪はそこへ崩れるように座り込んだ。
「どうしたのです」
「けがをしたの、ちょっと」
「それでもここまで……、大変だったでしょうに」
「あなたこそ、蝉丸、こんな山の中で……」
蝉丸は、自分のやつれ具合が相手には目で見てわかるのだなと思いながら言った。
「この小屋で暮らすようになって、十日たちます。初めの一日はただ心細さに震えるだけでした。次の一日は物思いにふけって……。その間、口に入るものとて一つもありませんでしたが、特にひもじさは感じませんでした。小屋をほとんど離れることもなく、草葉の雫をなめて喉を潤していました。夜の更けていくらしい気配に耳を澄まし、鳥の音に目を覚ましては夜の明けるのを知りました。
ところが三日目に目を覚ましてみると、ひどく腹が空いているのです。とにかく何か食いたくて仕方がない。それで後先をも見ず、小屋を出ました。が、そうそう食い物に行き当たるわけもありません。我慢できなくて、草の葉を取ってかみくだそうとしました。何度か試してやっと飲み込みましたが、口が苦くて渋くてざらざらして、仕方ありませんでした。それでも気の昂ぶりが治まると、ようやく小屋へ戻ろうという気になりましたが、もう方角さえも定かならず、ただうろうろとさまよい歩くばかりでした。手足の先から自分の体が朽ち始めたような感じで、昔聞かされた、おのれの死に場所を探して歩く獣の話を思い出していました。そうしてふらふらとしているところを、一人の男に見つけられたのです。
それはこの辺りの木こりで、私を小屋へ連れ帰り、食い物を分けてくれました。それからずっと、彼が私の面倒を見てくれているのです。この七日というもの、彼とともにする中食が、私の一番の楽しみでした。彼はもちろん学問も修めてはおりません。数少ない、粗雑な言葉で、それでも自分の生き様を語ってくれました。その、どの言葉かもはっきりとはわからないのですが、何か、ひどく胸にしみるのです。言っていることはばかばかしいほど単純なのに、それをそれだけとして片づけようとする私の言葉を押し留めるものがあるのです。彼は私を慰めてくれようとしているようでした。それなのに、私がいろいろな話をしてやると、まるで無邪気に喜んで感心しているのです。この小屋に手を入れて、私のために庵をこさえてやると言ってます。私は……彼が好きです」
蝉丸には見えなかったが、逆髪の頬には涙が伝っていた。逆髪は声が震えぬように、息を押さえて言った。
「では、ずっとここに住まうつもりなのですか」
「ええ、他に行くあてもなし……」
「私と一緒に参りませんか」
「どうなるのです」
「剃髪して、尼になります。これまでの私の世界は、この髪ゆえに狂ったものでした。世界の狂いをこの身に映していたと言っていいでしょう。でも、心まで狂うことはできなかった。と言うより、もはやあの世界で生きようとは思わないのです。形にとらわれて、心まで歪めてしまった世界には。外の、この世界は、私の心を直接に受け入れてくれました。もう私は狂女となって逃げ回ることはないのです。いえ、狂女であり続けることさえできない。だから私はもう一度世界の中に入っていくのです。その世界とは、私をはじき出した世界も含めて、私は能う限りの総ての世界に触れたい。立ち向かいたいのです」
「あなたは」
かすれた声で、ぼそりと蝉丸は言った。
「そうして帰っていける、だが私の目は」
「帰るのではなく、新しいところへ、行きませんか蝉丸、一緒に」
眉根をじっと寄せ、蝉丸はうつむいた。
「……私は、自分に与えられたものをそのままに認めることで、ずっと生きてきたような気がします。あなたと一緒に行っても、私にとってはそれは、元へ戻ることなのだと思うのです。いや、私はここが、山風のみのふきすさび、木こりが訪れるだけの、ここが好きなのです……」
そういって、蝉丸は口をつぐんだ。その言葉通りの風が、代わりに語り続けるようであった。
名残を惜しむように、逆髪は、蝉丸とともに、その風の中にいつまでともなく耳を浸していた。
(了)