氷室

 ヒムロは暗い穴蔵の中で考えていた。いったいこの自分とは何者なんだろう。いったいこの自分がここにこうしているというのはどういうことなのだろう。彼はそれまでそんなことを考えてみたことはなかった。もし彼にそんな問いを発するようなばか者がいたとしたら、彼はこう答えただろう。
「おれはこの冷たい穴蔵の中で氷を守っているのさ、なんの不思議がある」
 しかし彼にはもうわからなかった。なぜ自分はそうしなければならないのだろう。少なくともそれは自分が望んでしていることではないように思えた。では、自分はいったい何を望んでいるのか。ヒムロには何もわからなかった。教えてくれる人もいなかった。沈黙を保つ底深い闇はそれこそ理不尽な力で彼を飲み込もうとしているかに見えた。彼は無性にどこか別の所に行きたくなった。そこには何か別のものがあるだろう。いや、とにかく今自分は飛び出したがっているのだ。引き留める者はなかった。ヒムロは逃げ出した。穴蔵を捨て、光と影のある世界へ。

 ヒムロがたどり着いたのは掃き溜めのような街の片隅だった。彼はそこでむさ苦しい顔色の悪い男たちと一緒にかり出され、一日中泥まみれになって働いて、くたくたになって帰ってくるのだった。彼がねぐらにしている汚い安宿には、死魚のような目をした男たちに混じって、小さな子供を連れた一人の中年女がいた。女は毎晩水商売に通っているので、そのいない間は彼が子供の守をしてやっていた。女の帰りの遅いときは一緒に寝てやることもあった。子供はむずかることもあったが、たいていは彼になついていて、彼の腕枕でおとなしく眠りにつくのだった。
 ヒムロは自分が何であったのかだんだん忘れかけていた。しかし自分が何であるのかは相変わらずわからなかったし、自分が何を望んでいるのかもさっぱり思いつかなかった。ただ彼の他にも訳のわからないまま生きている者ばかりが大勢いるのに驚きあきれ、いぶかる種が一つ増えたばかりだった。
 子供の名はリョウと言った。やせっぽちの、頼りない生き物だった。女はこの子供だけのために生きているように見えた。ヒムロにはそれが不思議でならなかった。この子も運良く死なずに育ったとして、どうせ他の男たちと同じようになるのだろう。訳もわからずにただ生きるだけの、意味のない毎日を送るようになるのだろう。だとすれば苦労してそれを育てる女の毎日も、結局はそれと変わらぬ意味のないものなのではないか。ヒムロはそれが他人事だけに一層深い絶望感を味わった。
 妙なことに、リョウだけが彼にそんな絶望感を抱かせなかった。それこそもっとも力弱い、不安な存在のはずなのに、リョウを見ているときだけ彼の心は安らぎを覚えた。彼の疑いがリョウにだけ当てはまらないなどということはないはずなのに、まるでそれとは無縁だとでもいうようにリョウは生きていた。

 そのリョウが病気になった。やせっぽちの腕はよけいに細く見え、薄暗いじめじめした宿の床に横たえられたその顔はまるで生気がなく、青白かった。女は見るのも気の毒なほどにやつれ、ただおろおろと涙を流すばかりだった。男たちは疲れ切った諦めの表情でか細い命の行方を眺めるだけだった。生き続けなくて済むならその方が幸せかもしれない。そんなことを思っているかのようでさえあった。薬はおろか、栄養になるものでさえここでは与えることができないのだ。早いうちに諦めをつけるのが、確かに賢いやり方かもしれなかった。
 往来を駆け回るすばしっこい姿はもう見られなかった。ヒムロは灯の消えてしまったような自分の心を持て余していた。自分が絶望したとおりの無意味さが、当然のように小さな命を押し潰そうとしているのだ。それなのに彼にはその当然なことが何にもまして理不尽に思えた。なぜリョウは死ななければならないのだ。あの疑うことさえ知らない自由な命を奪うことなど、誰にもできないはずではなかったのか。かつてヒムロにとって、苦しみさえが無意味であった。今、その無意味さが彼の苦しみとなっていた。
「リョウ、リョウ」
 首を締めつけるような女の声が闇を震わせた。かすかに、絶え入りそうな呻き声がその底から浮かび上がってくる。ヒムロは起き上がり、暗がりを透かし見ようとした。男たちは息を殺して目の明かぬ振りをしていた。女はただ子の名を呼び続けるだけだった。
「リョウ、リョウ」
 ヒムロは静かに側へ寄り、子供の額に手を当てた。発熱していた。脈も息も細かった。このままでは夜明けまで持つまい。ヒムロは目を閉じた。おれは自分が何なのかわからなかった。しかしこのリョウはそんなことも知らずに生きていた。確かに生きていた。それが今訳もなしに吹き消されようとしている。おれには相変わらず何もわからない。しかしどうせ同じことならこの無意味な力をぶち壊してやる。ヒムロは立ち上がった。
「待ってろ、きっと帰ってくる」
 女には彼の言葉が耳に入らなかった。一心不乱に子供の名を呼び続けていた。氷室はもう振り返りもせずに駆け出していた。
 空には満天の星が輝いていた。ヒムロはその下を風を巻いて駆け抜けていった。すでに街は遠く後になり、しじまを切り裂く彼の一足の響きが野に棲む精霊たちの耳を脅かした。風は夜露を呼んで雲となり、厚く湧き起こってついにヒムロの体を中空へと押し上げた。雲はさらに風を呼び、一時の嵐と雷鳴が山河を轟かして過ぎていった。やがて大気は星と一緒になって流れ、乾坤は光も闇も分かたぬ渦の中へ溶け込んでいった。ヒムロはすでにその本体に返っていた。赤銅のまなこ、朱黒の蓬髪、金毛の剛腕、柱のごとき一足に、清風を込むる巌のような身体を鎧う鋼鉄は千古の霜を帯び、怒ればその位八千丈、殊にその夜の勢いは天空の魔物さえ恐れて行く手を退くほどの凄まじさであった。

 薄氷を双手に抱え、ヒムロは再び下界へと駈け降りていった。目指すは都の帝ならぬ、吹き溜まりの片隅の少年のもとである。星々はすでに薄明の中にある。急げ、急げ。ヒムロは耳を切る風のうなりを生き物のように捉えていた。足は宙を掻いて駆けていく。視野が光の矢となって流れていく。ヒムロは生きている、と感じていた。リョウのためか。いや、わからぬ。とにかくおれは今、生きている。砕くな、砕くな。溶かすな、溶かすな。待っていろ、リョウ。

 額に乗せられた氷片はたちまちに淡雪のごとく溶けた。しかしもとより霊山の清水を凝らせた奇特の氷である。病の気をも悉く宙に放散させたかのように、熱は少年の額から引いていった。そればかりかその頬には健康な血色さえ甦ってきた。
「リョウ!」
 女は震える手で我が子の頭をかき抱き、涙に冷え切った頬をすり寄せた。太陽は今ようやく昇り、街の外気を震わせて朝の香りを発散させ始めていた。ヒムロはしばし呆然として奇跡に打ち震える母の姿を見守っていたが、やがて、もうここには用がないのだと気づいた。いくらかの名残惜しさを留めて、彼は地上を離れた。光に身を透かし、一滴の露となって昇っていく。まだおれにはよくわからない。生きている、と思ったあの瞬間は、おそらくわからなくていいものなのだろう。しかしそれでもまだおれは考えずにはいられまい。それもいいさ。穴蔵暮らしにまた飽きが来るまで、しばらくおとなしくしていよう。そうだな、二、三百年くらいのもんかな。
 地上はようやく活気を取り戻し始めていた。小さな露の玉は雲雀さえ鳴かぬ高い空の上で、ぱちんと虹色の光を散らして虚空に消え失せた。

(了)


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