清経が入水して果てた。淡津三郎からその報せを受けたとき、奥方の顔は真っ青になった。多少目の辺りが引きつっているのも深い悲しみゆえのことと三郎は取ったが、ともかくも口もきけないでいる奥方に、彼はもっこりふくらんだ守り袋を差し出した。
「御館様のご遺髪でございます」
奥方はそれを受け取って少しの間ぼんやりと眺めていたが、突然わなわなっと震えたと思うと、ぽい、と放り出した。
「や、何とされます」
さすがに三郎もきっとなりかけたが、奥方は相手にせず、いらぬ、捨て置けと言ったきりまた放心してしまった。三郎は遺髪を持ち帰るわけにもゆかず、やむなくそこに放り出されたままにして早々に退散した。
−ヒステリーだな。
そう読んだのである。大体において彼の観察は当を得ていたが、ただその原因についてだけはとんでもない思い違いをしていた。
その夜、奥方−妻の枕元へ清経の亡霊が現れた。
そもそもこの清経、文弱を絵に描いたような男である。顔立ちはりりしいから、武将姿もさすがに映える。が、そこまでで、中身はからっきしだめ、武芸というものが何より嫌いであった。その代わりに笛の名手で、歌もよく詠んだ。平氏の栄華があと二十年も続いたなら、きっとその道で一名を馳せたことだろう。しかし世が世である。愛用の笛と一緒に太刀も腰に差して駆けずり回らねばならぬ羽目になった。その太刀も伝来のものでは重すぎるというので、新しく細身のを作らせたのである。
かように軟弱な彼がついに西国に下るに及んで、妻をも同道したいと言い出した。これは結局実家の父母の反対で容れられなかったが、さて清経の嘆くまいことか。夜毎笛を取り出しては吹き鳴らし、妻を慕って涙に暮れた。もっとも彼の言うには、嘆きの種は妻ばかりではない。平氏の栄華ここに尽き、花鳥風月の楽しみも今は昔、都を捨てて西国へ下る。二度と生きて帰れぬと思えば、盛者必衰の因果を受けたこの身が哀れでならない。いや、この身ばかりか平家一族悉く死滅しよう、と彼は言うのであった。彼はペシミストであった。
この期に及んで、とはつまり、彼のごとき芸術家が戦場に駆り出されるに及んでと言う意味だが、まだ栄華復興を夢見るなどというのは、彼に言わせれば、檻に入れられた猿が歯をむき出して怒るのと同じくらい滑稽なことだった。こんな時芸術家はいかにして美しく滅びるかを夢見るものだと、彼は信じて疑わなかった。彼が明石の浦で雨にたたられて楽しみにしていた月を見られなかったとき、−ああ、明石の雨にうたれて、このまま死んでしまいたい、と歌ったかどうかは定かでない。
とにかく彼は本当に自分で死んでしまった。名もない雑兵に討たれるのはいやだと言ったらしいが、彼なりに演出した結果であったのか、船に酔ったあげくのことか、それはわからない。ただ清経は死んでしまった。そして生前あれほどに恋い慕い続けていたのだから、彼の亡霊が妻の枕元に現れたのも至極当然のことなのであった。
しかし、妻の方には当然のこととは受け取られなかったようだ。彼と認めるなり妻は大声で叫んだ。
「あなたっ! 何をしに帰ってきたんですっ」
これには清経も驚いた。もとより幽霊で影の薄い身がいっぺんに消し飛びそうになった。
「何しにってお前、お前に会うために……」
かろうじておろおろ声で答える。妻は容赦なくおっかぶせる。
「なんてまあ図々しいことをよくも……」
「そんな大声を出すな、おれのは霊音で他人には聞こえぬが、お前のは外聞が悪い」
「土左衛門が偉そうなことを、外聞が悪いのはどっちです。大体死人は死人らしくおとなしくしてりゃいいんです。それも勇敢に戦って死んだのならまだしも、何です、入水とは、太宰治じゃあるまいし、ああ恥ずかしいったら、悔しいったら、いーえ末代の恥ですっっ」
これはひどい、とさすがに清経は思った。しかし念のため聞いてみる。
「おい、おれの形見の遺髪はどうした」
「あんなもんねずみにくれてやりました」
これでとどめを刺された。
「ああ、こんな軟弱な人とわかってたら結婚するんじゃなかった。土壇場になったらさすがに覚悟を決めて、立派に死んでくれるかと思ったのが甘かった。ええ、こんなことならあのとき無理にでもついていって、けつの穴ひっぱたいてでも戦わせるんだったのに……」
清経はそうでなくて本当によかったと思った。もっとも彼の場合その情景の美感のなさにぞっとしたのであるが。−その時である。背筋に異様な戦慄を覚えて彼は目を上げた。妻の目がぎらついている。あっ、と声を上げて彼はすくんでしまった。逃れるすべもなく、妻から放射された強烈な念波が彼を襲った。
たちまち世界が変貌を遂げた。空間を透過し、天地がパノラマとなって迫ってくる。立木は敵の兵となり、降りかかる雨は矢先、中空にかかる三日月は冷たい光を発する剣となり、闇に沈む山々は鉄の城、その上に湧き起こる雲は旗手となって今にもそれを突いて軍勢が押し寄せてくるかと見えた。
恐ろしい、と清経は思った。こんなのと長年連れ添ってよく無事でいられたものだ。早いとこ成仏するに限る。そういってあたふたと姿を消した。しかし優柔不断な彼のことだから、ちゃんと成仏できたかどうかはわからない。作者にもその辺は釈然としないのである。
(了)