松風

「では、どうしても」
 行平は冷たく押し黙っていた。松風は静かに首を垂れた。村雨はもとより男の目を見ない。ただ胸中に湧き起こる憤りを持て余していた。これが私たちの愛した男か。捨てていくのがやむを得ぬならばそれも仕方はない。ただ、それならそうとなぜ言ってはくれぬのだ。これではまるで騙されると同然ではないか。自分に都合の悪い女の愛は無視する。男とはそういうものなのか。村雨は男の言うことをおとなしく聞いている姉が悔しかった。しかし何も口に出しては言わなかった。行平は発った。須磨の浦にはただ渺々たる風の中に松が取り残されているばかりであった。

 松風の様子がおかしいと目につきだしたのはそれからしばらくしてのことであった。もともと無口な方ではあった。が、それが度を過ごしている。何でもない受け答えに応ぜず、ぼんやりあらぬ方を見ている。大声を出して心づかせても、妹の不安な表情には気づかぬ風にただ美しい顔を微笑ませている。終いには白昼にさえ呆然として、どうかすると食事の手さえ満足には動かぬ有様であった。村雨にはそんな姉の姿が哀れでならなかった。早くに両親を亡くし、寄る辺もない二人にとってただ互いだけが頼りであった。そしてそれ以上にこの二人は心の深いところで結ばれ合っていた。その姉がこんなになってしまって、どうやったら自分は生きていけるだろうと村雨は思った。
 松風の魂の美しさを、村雨は心の底から愛していた。姿の美しさこそいずれが花と誰からも褒めそやされるほどの姉妹であったが、そんな外見など、松風の内面の深さを知らない者には何の値打ちもないだろうと思っていた。この人ならきっと幸せになれるだろうと信じていたし、またこの人をおいて他の誰が幸せになれようとも思っていなかった。相応の年になってもまだ独り身でいるのも、釣り合うだけの男がいなくては当然と思い、それならそれで自分は一生この姉の元を離れまいとまで決心していた。死ぬまで二人きりで暮らせるならそれもまたこの上ない幸せだと、村雨には思えたのである。
 それが、あの男を見てから変わってしまった。なまじの男には心を寄せたことのない松風が、まるで別人のように夢中になった。おそらくそれは初めての恋、いや一生に一度の恋であったろう。村雨にとって思いもかけなかったのは、自分もまたその男に恋してしまったことである。姉の幸せを奪う、そんなことは村雨には思いも寄らぬはずなのに、現実は自分の想いが遂げられればそういうことになってしまうのだ。そうと知りながら、村雨には自分をどうすることもできなかった。この思いを姉に告げれば、姉もまた悩むことだろう。そうして苦しみを一つ増やしたところで、やはりどうにもならない。できることなら総てを忘れ、どこか知らないところへ行ってしまいたかった。いや、どこまで行っても逃れられぬ思いなら、いっそ死んでしまいたかった。しかしそうすれば姉は悲しむであろう。姉を悲しませることはできない。そしてそれ以上に村雨は男から離れることができなかった。村雨にできることは、ただ自分の心をひた隠しに隠すことだけだった。姉の幸せを心から祈ることができない。それは姉を憎むに等しかった。憎めるわけがない。このままではいつか自分は狂ってしまうのではないかと村雨は思った。
 しかし結果は、姉の方が狂ってしまった。それも男に捨てられて。村雨はかつて愛していたのと同じくらいの強さで男を憎んだ。あんな男を愛したのが間違いだったのよ。あんな男のことは忘れてしまって。姉に向かってそう言ってやりたかった。しかしどうしてもその言葉が口に出せなかった。そして言ってみたところで、それが姉に通じようとは思えなかった。

「あの人が帰ってきた」
 松風が突然そう叫んだとき、戸外ではごうごうと音を鳴らして灰色の風が吹いていた。村雨は一瞬ぎくりとしたが、姉の心を思いやると泣きたいほど哀れになった。松風の目は常に変わって執するような光に燃えているが、その焦点はやはりどこか狂っている。
「あの人の声よ、ほら、私を呼んでいるわ」
 松風はそう言って憑かれたように立ち上がると、呆然と目を見開いている村雨を残し、ふらふらと表へさまよい出ていった。村雨はすぐ気を取り直して後を追う。松風は真っ直ぐに海の方へ歩いていく。信じられないような速さで、すべるように歩いていく。村雨は思わず目に涙を溜めながら、駆けだした。駆けながら姉の名を呼んだ。
「姉さん、あの人はいないのよ、あれは風の音なのよ、姉さん」
 悪い夢のように、どうしても姉に追いつけなかった。涙で目は曇り、風景はうすれ、遙かな雲と波の間に溶けていった。
「お懐かしや、行平殿、お待ち申しておりました」
 松風は黒髪を乱して吹く風の中に、一本の磯馴れ松に取りすがって男の名を呼んだ。村雨はその後ろに立ち尽くしてただ滂沱の涙を流した。そうしてようやくしゃくり上げながら、どこか意地悪い口調で語りかけた。
「聞いて、姉さん、あの男はもう帰ってきやしないわ、いくら待っても無駄よ、だからもうあんな男のことは忘れて、もとの姉さんに戻って」
 松風はその声が聞こえたのかどうか、松を離れさらに海の方へ歩きだした。村雨も後についていく。砂に足を取られ、幾度もよろけた。
「待ってよ、姉さん、どこへ行くの、聞いてるの、あの男はいないのよ、私たちは捨てられてしまったのよ」
 その時、松風は音もなく立ち止まり、ゆっくりと振り返った。村雨に向けられたその目は、真っ直ぐに妹の目へ向けて焦点が合っていた。村雨は冷水を浴びせられたように全身を硬直させた。
「村雨」
 深い、暖かみのこもった声が松風の口からこぼれた。
「あなたもまだあの人を愛しているのよ。それが届かないから、せめて憎むことで自分の気持ちを落ち着けようとするのね」
 松風は哀れむような一瞥を残して海の彼方へ目を戻した。村雨は動けなかった。
「あなたもあの人を愛していたことは、知っていたわ。そして私と同じように、私のために苦しんでいたのでしょう」
 松風は言葉を切った。山おろしに吹く風の音が二人の間をさえぎり、そして満たした。
「……あなたの言うように、もうあの人は帰ってはこないでしょう。でも私はあの人を愛したの。この世にただ一人のかけがえのない人として、あの人の魂を愛したの。それは、あの人が黙って私を捨ててしまったとか、どんな訳があってとか、そんなこととは関係のないことなのよ……」
 波頭を散らして吹き狂う風が、またしばしの沈黙を強いた。
「……あなたのように憎めたら、その方が楽かもしれない。でも、憎めない。そしてあの人は帰ってこない。だから……私は狂うしかないの。あなたには、今の私の言葉が正気のように聞こえるかもしれない。でもわからないの。私には、何が正気なのか、狂うという言葉が本当なのか、いつ私が狂っているのか、わからない。もう、元には戻れない。あなたの苦しみは知っているけれど……」
 ゆるしてね。ぽつりと、松風は言った。そしてもう一度慈しみのこもった目を村雨に向けた。しかしそれがまるで幻であったかのように、美しい瞳は焦点を奪われ、宙をさまよいだした。
 霧のような雨が二人の肩へ落ちてきた。松風はまたふらふらと松原の方へ戻り始めた。すでに涙を流すことさえも忘れた頬をなお冷たい霧雨に濡らしながら、村雨は消え入りそうな声でその背中に呼びかけた。
「戻って、姉さん、私を置いていかないで。一緒に、連れて行って。お願い、姉さん……」
 ふらふらと、村雨も松風の後を追って歩きだした。雨はだんだんと繁くなり、そしてやがて、夕暮れの薄闇の中に二人の姿を溶かし込んでしまった。

(了)


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