道成寺の鐘が落ちた。後にはただ女の髪のほつれ毛が恨みがましく糸を垂れているばかりであった。
鐘は溶かされ、数枚の鋼板に変形されて、ある新型の戦闘機の胴体になった。これを手に入れたのは安岡少尉といって、弱冠二十五歳の精鋭である。少尉はこれに清竜号と名付け、尾翼に青い竜の頭のマークを入れた。また、敵機撃墜の度に座席左舷の胴体に金色の三角鱗を書き入れ、その数は二年目にしてすでに三十を超えていた。これが後まで語り種になった清姫の逆鱗である。
その年の秋、少尉の元へ訃報が舞い込んだ。以前よりさして壮健ではなかった兄の病死である。少尉の家というのが格式のある名家で、すでに他家へ嫁している妹の他にはもう兄弟もなかったから、少尉は有無を言わさず家督を継がねばならぬことになった。もとより一士官として戦場に赴くなどというのが次男坊のわがままに過ぎなかったのである。当然彼は内地勤務を命ぜられ、帰還と同時に中尉への昇進も決まっているということであった。
おそらく明日は最後の出撃になろうというその夜、少尉は清竜号の主翼に上り、胴体にもたれて腰をおろした。紙巻き煙草に火をつけ、煙を吐いて青い星空を見上げる。
「案外に短い付き合いだったが、よく働いてくれた。お前のことは忘れないよ。行く末を見届けずにここを去るのは無念だが、どうかいいやつに貰われてやってくれよ、お竜」
少尉にとって清竜号は恋人のようなものであった。整備をするにも他人に任せきりにしたことはない。その機体の隅々まで知り尽くしていたし、細々した癖も自分の身体のことのようによくわかる。そしてそれらの全てに限りない愛着を覚えていたのである。何も言ってくれなくても清竜号のことなら何でもわかるような気がした。まるで人間のような気分や、細かな情感のようなものまで備わっている、そうとでも考えなければ説明がつかぬほどの微妙な感情を少尉はこの愛機に注いでいたのである。
「どうしたんだ、いやに静かじゃないか。明日はきっと最後の出撃だ。悔いのない戦いをしようぜ」
少尉はそう言って清竜号の胴体を撫でた。夜露に濡れた機体はひんやりとして彼の指に触れたが、その底にはなぜかたぎるような熱さが隠されているように彼には思えた。気のせいかな、と少尉はつぶやいた。こんな清竜号の様子は見たこともなかった。
「おっ」
西の空に、まるで宙に懸かっていた星が落ちたような明らかさで一条の光が流れた。
「流れ星だ……」
少尉は悠久の彼方に目を放つような静かさで、じっと何事か黙念していた。南方の夜は風もなく密やかに更けていった。
翌日は快晴。清竜号の調子は最高だった。風に乗り、まるで少尉の手足のごとくに自在に大空を駆けめぐった。彼はすでに二機の敵戦闘機を撃墜していた。爆撃機も駆逐艦を撃沈、空母にも相当の損傷を与えていた。案の定やがて隊長機から帰還の命令があった。敵艦隊が逃走中の海域に新たな戦力が接近しつつあったのだ。
思い残すことはない。少尉はそう思って清竜号の機首を帰路へ向けようとした。−ところが。操縦桿が言うことを聞かないのだった。敵艦隊を追うようにして、しかもぐんぐん高度を上げている。少尉は愕然としてこの訳のわからない異変に目を見張った。どこにも故障らしきものは発見できない。それなのに操縦桿だけが言うことを聞かないのだ。彼は慌てて隊長機に連絡を取ろうとした。−しかし無駄だった。通信機もいかれている。
「どうしたんだ、お竜」
清竜号は何も答えなかった。高度はすでに限界に達している。前後左右、上下を見渡しても一片の機影も見えない。少尉は腕を組み、ふてくされたように黙り込んだ。清竜号も黙っている。轟々と言う機肺の唸りだけが蒼穹のただ中に彼を抱いている。やがて彼は腕組みを解き、語りかけるように言った。
「わかったよ、お竜。どこでもお前の好きなところへ行こう」
清竜号は一瞬、まるで歓喜に震えるかのように機体を振動させた。そっと触れてみると、操縦桿が彼の手に帰っている。少尉はぐいと力を込め、機首を下げた。清竜号はたちまち降下していく。どこへ向かっているのか、彼にはわからなかった。清竜号はまっしぐらに駆け降りていく。やがて彼の目にもその目標が見え始めた。海面に初めぼんやりした斑点のように見えたそれは、次第に猛々しい大艦隊の威容を露わにしていった。
「そうか、あいつか」
少尉は奇妙な昂ぶりに掌を熱く湿らせ、操縦桿を堅く握りしめた。
「お前と心中なら、悪くはない」
清竜号は狂ったように、艦隊の中枢にいる空母めがけて突進していった。空母からは早くもそれを察知した戦闘機が次々に飛び立ってくる。しかし常軌を逸した急角度と速度の急降下である。行く手を阻む隙さえなく艦上へ突入、と思われた刹那、清竜号は辛くも身を翻して一連の機銃掃射をくれていった。
「早死にはもったいないぞ、お竜。その前に存分楽しんでやる」
機体を反転させ、少尉は戦闘機の群れに立ち向かった。下からは空中砲火の波が押し寄せてくる。新手の戦闘機はなおも空母から飛び立っている。ただ一機の清竜号に十数機の敵機が群がった。それは少尉にとって紛れもない「死」を意味していた。それなのに彼は全くと言っていいほど恐怖を感じなかった。そしてそれにもまして清竜号はこの世のものとも思えぬ身軽さで硝煙の修羅場の中を駆け抜けた。ほんの数分間のことか、それとも数十分の戦闘であったか、少尉はおのれにも数え切れぬほどの銃弾を敵機に、甲板に叩き込んだ。清竜号は巴に飛び、縦横無尽に飛び交って鬼神の如くに火炎の中を席巻したが、ついに弾の尽きるときが来た。艦上と空中からの砲火が彼らを捉え、清竜号は紅蓮の炎に身を包んだ。
「熱い」
蒸し焼きになりそうな熱気の中で、少尉はかっと目を見開いていた。視界は幻のように真っ赤に染まっていた。清竜号はまだ生きていた。いや、この炎熱こそ彼女の命であると言わんばかりに、身悶え、彼を抱きしめていた。
「そうか、お前はこれを望んでいたんだな、お竜」
薄れていく意識の中で彼は最後の力を操縦桿に込めた。清竜号は一度ぐらりと傾き、身をひねって宙へ舞い上がったかと思うと、飛鳥のように落下し、轟音とともに甲板へ吸い込まれていった……。
後日、安岡少尉戦闘中に失踪し行方不明との報が安岡邸に届いた。清竜号の最後の戦闘はついに誰も知ることがなかった。
(了)