ぬえは初め人の子であった。ただ尻に細長いしっぽが生えていたので、誰にも知らせられることなく、ある寺の裏にうち捨てられた。しかしぬえは餓死することもなく、藪に飛んでくる虫や、お堂の縁下に棲む鼠などを食って生き延びた。泥まみれになってさすがに人の子とはわからなかったものの、何とも気味の悪い生き物なので誰も相手にしてくれる者はなかった。どこへ行ってもそんな風なので、このまま人里にいても仕方がないと思い、ぬえは山へと向かった。
ぬえが最初に山で出会ったのは、蛇であった。蛇はぬえを脅かすかのように、鎌首をもたげて赤い舌を突き出してきた。ぬえは恐ろしいとは思わなかった。それよりも、誰も相手にしてくれなかった自分にこうやって正面から向かってきてくれる者のあったことに、涙の出るような嬉しさを感じていた。どうにかしてこの蛇に自分が敵でないことをわかってもらいたいと思ったが、どうにも姿が違いすぎる。そうするうちに、ふとぬえは自分のしっぽに目をとめた。これなら似ている。ぬえは何事か一心に念じた。すると、そのしっぽが蛇そっくりに変わってしまったのである。ぬえは喜んで尻を蛇の方へ向けた。そうするとしっぽはまるで本物の蛇のように鎌首をもたげ、相手とそっくりの仕草をして見せた。
蛇は驚いて逃げ出した。ぬえは慌ててその後を追った。驚かすつもりじゃなかったのに、このままじゃまたひとりぽっちになってしまう。と、突然目の前の茂みの中から毛むくじゃらの太い足がにゅっと伸びて、蛇を踏みつけてしまった。茂みの中から現れたのは、一匹の巨大な虎であった。獲物と思って近づいたのであろうが、ぬえの奇妙な姿を間近に見ると気味が悪くなって逃げ出してしまった。蛇はしばらくの間ひくひくとのたうち回っていたが、ぬえはもうその方には目もくれなかった。じっと虎の走り去った方角へ向かい、きらきらと目を輝かせていた。あんな風になりたい。あんな風に強くなりたい。
そしてそう一心に念じたあげく、とうとう虎のような毛を生やすことに成功した。ただ一度変形してしまったしっぽはやはり蛇のままで、それと頭もいくら念じてもだめだった。かえって力を込めすぎたせいで、猿のようにしわくちゃになってしまった。それでもぬえにとっては充分だった。ぬえは力一杯山中を駆け巡り、誰か自分の相手になってくれる者を捜し求めた。だがあの虎は二度と見ることができず、他の動物たちも虎の毛皮を恐れて決して寄りつこうとはしなかった。ぬえはだんだんと走り回るのが空しくなってしまった。
結局どこにも自分を相手にしてくれる者はいないのだ。自分は死ぬまでひとりぽっちなのだ。ぬえは走ることもやめ、孤独な月に向かって吼えるようになった。
そんなある日、ぬえは空に鳥の影を見た。ああ、いいなあ、あんな風に自由に飛べたらいいなあ、そしたらこんな地上の苦しみなんか忘れてしまえるかもしれない。そうして一心に念じた末に、一対の翼を背中に生やすことができた。鷲のように大きな翼だった。それは軽々とぬえの体を運び上げ、ぬえが夢見たとおりに自在に大空を飛び巡らせてくれた。しかしそうやって味わった気持ちは、ぬえの夢見たのとはまるで違っていた。大空は絶対の孤独だった。彼を縛る何物もない代わりに、彼の苦しみを癒してくれる何物もなかった。自分のやってきたことは何だったのだろうと、ぬえは思った。さみしさを紛らそうとして、行き着いたところはもっとひどいさみしさだった。ぬえはもうどこにも自分の行く所がないことを知った。そしてぬえの心に限りない懐かしさがこみ上げてきた。ぬえは見えない力に引きずられるように、里の方へと大空を翔ていった。
近衛天皇悩ませ給う。その原因は夜な夜な殿上に飛び来たる物の怪にありとて、源三位頼政に退治の命が下った。名にし負う、剛胆のもののふである。早速その晩から殿中の庭に詰めることとなった。
その夜半、頼政は殿上の宙空に飛び巡る、黒い雲のようなかたまりを見た。それはやがて御殿の屋根に取りつくと、怪しい声で鳴き始めた。なるほどこれが今上のお耳に入り、御心を悩ますのだと頼政は合点した。しかし、何とも奇妙な声であった。けもののようでもない。鳥に似るが、鳥でもない。何か、じっとその声に聞き入っていると、悲しみに胸をかきむしられるような苦しさを頼政は覚えるのであった。しかし、疑っている暇はない。頼政はためらわず弓に矢をつがえ、ちょう、と射た。狙いは過たず、物の怪はたちまち鳴くのをやめ、屋根を伝って庭へと転げ落ちた。頼政が駆け寄ってその正体を見ると、それは頭が猿、胴が虎、尾は蛇で、しかも鷲のごとき翼を生やした、何とも奇妙な化け物であった。しかしその面にはなぜかしら悲しいような、それでいて不思議に安らいだような表情が浮かんでいると、頼政には見えてならなかった。頼政は思わずそのむくろに向かい手向けの手を合わせていた。
ぬえはうつお舟に乗せられて、海へと流された。潮路の彼方には常世の国があるという。ぬえが果たしてそこへ流れ着いたものか、そして今度こそ彼を彼のままに受け入れてくれる者たちに出会ったかどうか、知る由もない。
(了)