石橋

 とある春の夕暮れ、霊峰清涼山の麓に、一人の和僧がたどり着いた。姿はぼろぼろで、餓鬼のように痩せこけていたけれども、その瞳だけはまるで赤子のように澄んでいた。
 ここまで、とうとうここまで来たのだ。僧は雲に紛れんばかりの峰を前にして、言葉も失いただ呆然としていた。彼の経てきたこれまでの苦難に満ちた道のりは、もはや、叫びとなるにも、涙となるにも、あまりに大きすぎた。今彼はそれ以外には何も知らぬ者のように、一歩、一歩と、険しい山路へ向けて足を運び始めた。
 僧は、真の仏法を知りたいために海を渡ってきたのであった。彼の生はあまりにも苦に満ちたものだった。彼が仏門を志したのも、ただひたすらに己の苦しみから救われたいがためであった。彼は教典に触れ、その苦しみが己一人によるものでなく、宇宙全体に起因するものであることを知ったが、それでもなお彼の欲するものは変わらなかった。彼は自分の意識にどうしても超えられない限界のあることを感じ、真の仏法とは身をもって得るのでなければ知ることはかなわぬ、という結論に達したのである。そして、彼はそれを海の彼方に求めた。
 あるいは徒労なのかも知れぬ。霊地などというものはこの世のどこにもないのかも知れぬ。もとより己ごときが真の悟りに至れるわけはないとも思っている。しかし彼にはその情熱を賭ける何かがなくてはならなかったのだ。その情熱というものも、彼の若さ故のものに過ぎないのかも知れぬ。もしかしたら、行くあてなど最初から無い、正体の無い衝動だけなのかも知れぬ。しかし彼は旅立った。そしてその道程の困難さこそが、彼の情熱の証であった。
 山中で一夜を明かした。目を覚ましたのはまだ薄明に星の残る頃である。清らかに涼しい朝の空気を呼吸しながら、僧は己に問うてみた。この心の静かさはどうだ。これこそ霊地のものではないのか。いや、しかしこれは身体の快に過ぎないのかも知れぬ。あるいは自分が離れてきた俗世の生との隔たりによるものだろうか。あるいはまたこれまでに経てきた道のりの苦からの解放によるのか……。
 彼はここに及んでなお疑いの心がつきまとうことに言い知れぬ不安を感じた。そしておそらくはその問いこそが彼の滅し切れぬ苦の源泉の一つなのだった。しかし、気がつくと彼はいつの間にか足を運んでいた。そうだ、と彼は思い惑うのをやめた。今はとにかく、前へ進むのだ。
 それからどれくらい険しい岩場を登っただろうか、僧は気の遠くなるような疲労の末に、信じがたいものを目にして呆然と立ち尽くしてしまった。彼の目の前に一人の少年が立っていたのである。こういう所に普通の人間がいるものなのかどうか、彼にはわからなかったが、その少年はあまりにも平凡な様子をしていた。意表をつかれたこともあり、彼はそれまで抱き続けてきた霊地に対する信仰とも言うべき期待が粉々に崩れていくのをとどめることができなかった。彼はとてつもない疲労感に捕らわれ、目眩を感じた。
 その時少年が、僧の様子にはまるで気を留める風もなく、にっこり笑うとこう言った。
「ここは石橋、ここから先は浄土だよ」
 僧はその瞬間、新鮮な衝撃に包まれ、たった今の目眩が跡形もなく吹き飛ぶのを感じた。それは只の言葉ではなかった。少年が口にしたのは何か耳慣れぬ音声であったのに、その意味だけがまるで頭の中で鐘でも鳴ったかのように鮮やかに、彼の心の中に伝わってきたのだった。以心伝心だ、と彼は悟った。そして思わず少年に手をのべて何か語りかけようとしたのだが、少年はくるりと背を向けると、軽やかな足取りで去っていってしまった。そこにあったのは少年が言ったとおりの石の橋で、青々と苔生して、細長く、真っ直ぐに先へと延びていた。橋の向こう側には、大輪の紅白の牡丹が咲き乱れ、少年の姿はその花むぐらの中へ紛れて見えなくなってしまった。
 あれこそ神仙というものかも知れぬと、彼はその方へ向かってひざまずき、三拝した。この先が浄土だと、少年は言った。とうとう願いが叶うのだ。彼は逸る心を抑えつつ立ち上がり、石橋へと歩み寄った。が、三歩と行かず、彼の足はすくんでしまった。
 橋の架かっていたのは、目もくらむような千尋の谷の上だったのである。いったいその底はどこまであるのか。のぞき込むことさえかなわず、彼はその場にしゃがみ込んでしまった。目をつむり、止めどもなくぶるぶると震えながら、彼は打ちひしがれていた。だめだ。霊地を求めようなどとしたのがやはり無理だったのだ。つまらない人間の分際で真の仏法を求めるなどというのがそもそも大それた間違いだったのだ。
 彼はどうしても目を開けることができなかった。情けない。いったい何のためにここまで来たのだ。自分の卑小さを思い知るためにか。逃れようのない苦だと諦め、しっぽを巻いて逃げ帰るためなのか。
 闇が、次第に彼を落ち着かせた。恐怖に立ち向かおうとする情熱が、彼の中に甦ってきていた。彼は無意識のうちに禅定の形を取った。何を恐れるのだ。命を落としてもいいと決めて出た旅ではなかったのか。負け犬になって引き下がるよりは、いっそ死んでしまった方がましではないのか。いや、心頭滅却すれば恐れもないはずだ。肉体に欺かれてはいけない。色即是空。色即是空。色即是空。色即是空。
 彼は静かに目を開けた。視野いっぱいに広がった牡丹の色彩が鮮やかであった。そうだ、浄土だけを見つめて歩けばよい。仏道とはそういうものだ。彼は気を込めて立ち上がろうとした。その時である。何ものかが牡丹の花房を押し分けて橋の上に現れた。
 彼は冷水を浴びたように硬直してしまった。それは金色に輝く双つの眼で彼の方をにらみつけていた。巨大な体躯は剛毛に覆われ、たくましい四肢の先には鋭い爪、そして頭は威容を誇るたてがみに包まれている。獅子であった。彼は逃げ出すことさえできず、魅入られたように獅子と正対しているのであった。しかもその目をそらすことも、閉じることさえもできないのである。
 獅子は彼の存在など気にも留めぬという風に、石橋の上で遊び始めた。苔に覆われて今にも滑り落ちそうな橋の上を軽々と行き来し、飛び跳ねる。時折たてがみを振り乱し、あくびでもするように巨大な口を開けて牙をむき出したりする。そして牡丹の花に寄り添っては匂いをかぐように鼻面を寄せ、足を舐めてみたかと思えばまた軽やかに駆け回る。その有様を彼は恐れも忘れ、あきれ果てたように見守っていた。
 もういい、帰ろう。宇宙には何か、どうやっても手の届かぬものがあるのだ。彼はもはや恐れも、悔しささえも感じずに、そんなことを考えていた。浄土とは、まさに彼岸、真の仏法とは人間の知る能わざるものなのだ。彼は諦め、目を閉じようとした。
 待て、しかし、それでは同じことではないのか。苦しみは何一つ解決されていない。仏法を求める人間の営みは無に等しいかも知れない。それでも自分はここまで来たのではないか。それは生の無意味さを確かめるためではなかったはずだ。
 彼は獅子をもう一度見た。獅子も彼を見ている。谷に落ちて死ぬも、獅子に食われて死ぬも、同じことだ。まして獅子は文殊の使いではないか。食われて死ぬなら本望だ。
 僧は立ち上がり、もう一度足元を踏みしめ、ゆっくりと歩きだした。獅子はじっと彼を見つめている。金色の瞳に、彼は吸い込まれそうになるのを感じた。足の下に、しっとりと柔らかい苔の感触が伝わってくる。すべって踏み外したら、という恐怖はほとんど感じなかった。ただ真っ直ぐに、一歩ずつを踏みしめながら、前へ前へと進む。紅白の牡丹と金色の獅子だけが彼の視野を満たし、まばゆいほどに輝いている。どれほどの長さを進んだのか、橋を渡りきったのかどうか、それすらも定かではなかったが、彼はいつの間にか獅子と触れ合わんばかりの近くまで来ていた。何か恐ろしく巨大な金色のものが向こうから近づいてきて、彼を押し包むように寄り添うのを、彼は感じた。
 これは何だろう。彼は自分が限りなく小さな存在であることを感じた。しかしそれは苦しみも、つらさも、悔しさも、さみしさも、虚しさも、これまで彼を苦しめてきた総てのものと無縁であった。その代わりに、そこには真実と、歓びと、安らぎとがあった。彼は自分の名を忘れた。生まれも、生い立ちも、悩みも、旅の道のりすらも、幾千億の物語の一つとして、彼方へ遠ざかっていった。
 これはなんだろう。ほとんど無と同化しながら、最後にかすかに残る核のなごりのような処で、彼は考えていた。答えはなかった。いや、真実はそこにあったし、彼はそれを確かに感じていた。答えのいらない問い、それはもはや考えとは呼べない、彼の本質のゆらめきのようなものであった。

 彼は静かに気を取り戻した。橋のこちら側であった。長い禅定の後、彼は迷いのない足取りで山を下り始めた。その後ろ姿を、牡丹の蔭から獅子にまたがった少年がずっと見送っていた。

(了)


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