昭君

 前漢元帝の宮女、昭君は世に稀なる美貌に恵まれていたが、その運命はおよそ貧乏くじの極致だった。当時の漢は匈奴の圧迫を受け、その親和政策に四苦八苦していた。すなわち宮女の中から一人を選び出して、それを匈奴の王韓邪将の妻として送ることになったのである。その宮女というのが全部で三千人もいたというのだが、元帝にしてもそれを一人一人覚えているわけがない。仕方がないので、一人一枚ずつの似顔絵を描かせ、その中でこの程度の女ならやってしまっても惜しくないのを一枚選ぼうということになった。まあ映画のオーディションのちょうど逆のことをやろうというのである。
 ところが集まった絵を見ていくうち、元帝はますます頭を抱えてしまった。どれもこれも柳髪桃顔、文句のつけようのない美人画ばかりなのである。そんな絵ばかり三千枚も見ていたら頭も変になろうというものだが、そこはさすがに皇帝ともなると凡人とは違って投げ出したりはしない。やっと一枚の絵を選び出した。特に醜くはないが、さりとて美しいとも思えず、だいいち品というものがない。
 ちょっと待てよ、と世情にたけた人だったら、ここで疑いを持ったはずである。 世に美人というのは少なくないかも知れないが、何でもないという方がよっぽど多い。美人の中でも特級、超特級となるともっと少ないはずである。さすがに宮女として選ばれた女たちであるから、その構成は並以上を底辺とし、超ド級の美人を頂点とするピラミッドを形成するはずである。甲乙のつけがたい美人画が三千枚もあってその内一枚だけが見劣りするというのは、これは何か特殊な状況を示すのであり、それが最下級底辺の一点であることを意味しないはずなのである。しかしさすがに皇帝ともなるとそんな所まで気を回したりはしない。美しい人はより美しく、……人はそれなりに、の格言通り、その絵の主を犠牲者として選び出した。
 つまりそれが昭君であったわけなのだが、彼女が実際に他の女たちより劣っていたのではない。実はこのオーディションの情報が前々から宮女たちの間に流れていて、それと知った女たちは競って画家たちに金品を送り、実物以上の美しい絵を描かせたのであった。ところが昭君だけが不幸にもこのことを知らず、何ともない下手な絵をつかまされる羽目になったのだ。このように彼女だけがつんぼさじきに置かれていたということこそ、彼女が他の女たちから嫉妬を買うほどの美貌の持ち主であった何よりの証拠なのだが、どうせ皇帝などというのはそんなもので、第一級の美人をわざわざ選りすぐって匈奴へ送ることになってしまったのである。

 匈奴の王、韓邪将はブ男であった。いや、ブ男というだけでは適当でない。醜怪、異様、化け物、怪物、とにかく正常な感覚では正視するも能わぬほどのブ男だった。あまりにひどいブ男なのだから、その顔面たるや、正常な感覚では描写できない。それほどものすごい顔なのである。このくらいブ男も度が過ぎると、その装いもすさまじいものとなる。曰く、荊棘を戴く髪筋は主を離れて空にあり、とはつまり髪の毛がごしゃもしゃに絡みくねってごわもわと逆立って天を突いているというのだが、その髪のおどろおどろしさはもちろん、その髪までがあまりのブ男さ加減に驚いて逃げ出したがっているようにすら見える。もちろん並の元結など役に立つはずがないので、さねかずらでひっくくって何とか押さえており、どういうつもりか耳には鎖をぶら下げているというのだから、こういうブ男にもファッション感覚などという言葉が使えるものかどうか、とにかく正常な感覚を絶する言語道断五言絶句のブ男野郎なのであった。
 その韓邪将が、漢の宮中から妃を迎えるとあってどれくらい胸をときめかせたか、想像がつくだろうか。気持ちが悪い、確かにそうかもしれない。しかしどんなブ男の胸でもときめくことはあるのであり、そのときめき方が普通の人より小さいなどということは決してないのである。いや、自分がブ男であると自覚していればこそ余計に胸を躍らせたであろうと思うのである。
 その心中は実際なかなか複雑なものであった。女にもてるはずのないことは確信しているから、その妃にも嫌われるのではないかという恐れ、いやそれよりもその妃とはどんな女性であるのか、漢の宮中の人ともなればさぞや美しい人が、いやいや儂の所へそんな美しい人が来るものだろうか、あまり期待しない方がいいのではないか……。
 ところが昭君を見て彼の心はとろけ、蒸発し、圧縮し、点火され、爆発してしまった。彼の4000cc6気筒の肺は一分間に8千回も回転し、ついにオーバーヒートしてエンストした。彼は昭君の前に出るとまるで少女のような恥じらいを見せ、口もきけなくなり、ついに指一本も触れることができないままになってしまうのであった。昭君はといえば韓邪将の姿を一目見て肝をつぶし、身動きのとれないままぶるぶる震えているばかりであった。さしずめ小心のガラガラ蛇と絶世の美女蛙がお見合いでもしているような有様である。そしてそんなことを繰り返しているうち、異国の風土が体に合わなかったためか、昭君はあっけなく死んでしまった。

 昭君の故郷には年老いた父母が淋しく残されていたが、ある日その庭にある柳の木が急に枯れてしまった。それは昭君が生まれた時に植えた形見の柳であったので、さてこそと嘆き悲しんでいると果たしてその夜、昭君の幽霊が二人の前に現れた。望郷の念著しく、亡魂となってようやく帰ってきたのだ。幽霊と成り果てても昭君の姿はあくまで美しく、老父母は今更ながら我が子の身の不運に涙を流した。
 ところがその内に怪しい気配が辺りに立ちこめたかと思うと、忽然と恐ろしい姿の鬼が出現した。いや鬼ではない。韓邪将の亡霊である。
「昭君よ、なぜ儂を置いて逝ってしまったのだ。あれから儂は飯もろくに喉を通らず、不覚の討ち死にをしてしまった。さ、お前は儂の妻だ。儂と一緒に匈奴の地へ帰ろう」
 幽霊となった韓邪将は雄弁であった。しかし昭君も霊となった今は怯えているばかりではない。
「私はあなたの妻でしたでしょうか。それならばそれなりに生前私を愛せたはずでしょうに。今ならあなたの心中はわかります。あなたは心の美しい人です。でもあのころ私の心は故郷の父母のことでいっぱいでした。あなたはそれを癒しては下さらなかった。もはや私はこうして故郷への執心の霊となってしまった。私は老い先短い父母の葉守の神となります。ですから……」
「わかった、みなまで言うな。儂のお前への執心も絶ちがたい。しかしこの有様では父母殿の守り神ともなれまい。儂は天上に昇りお前たちを見守る力神となろう」
 昭君の顔にはやっと晴れやかな笑みが浮かんだ。
「思えばこの鏡が」
 韓邪将は燃えるような目で一面の鏡をにらみつけた。
「儂の人生を狂わせた」
 鏡はびしびしと割れ、韓邪将の醜い姿を粉々にして崩れ落ちた。とたんに一時の雷鳴が天空へと駆け昇り、老父母が我に返るとそこにはすでに韓邪将の姿はなく、風に揺れる柳のようにあえかに消えつつある昭君のたおやかな姿があるばかりであった。

(了)


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