天鼓

 日の暮れる頃、薄汚い小さな鼓を抱えてとぼとぼ帰ってきた息子を、王伯はずいぶんひどく叱ったものだった。てっきりどこからか盗んできたものだと思ったのである。五つにもならぬこんな小さなうちから盗み癖がついては大変だと思い、お前それをどこから持ってきたのだ、ときつい口調で問い詰めた。すると息子はちょっと小首を傾げ、上の方を指さしてみせた。とぼけているのではない。よくよく聞いてみると空から落ちてきたと言うのである。王伯は、こいつ盗んだだけでなく嘘までつくのかと思い、悲しくなり、悔しくなって思わず我が子の顔を叩いた。ところが息子は泣きもせず、しっかりと鼓を抱きしめたままうつむいている。王伯はその強情さにあきれ、そんなら飯も食わせない、家にも入れないから少し頭を冷やせ、と怒鳴りつけて家の中へ入ってしまった。
 ところがいつまでたっても息子は中へ入ってこようとしない。心配して戸を細く開けて見ると、外はもう暗いのに庭の隅で鼓をいじくっているらしい。勝手にしろと思って放っておいたが、さすがに夜半にもなるとじっとしておれなくなり、足を忍ばせて庭へ出てみた。すると案の定、木の根方を枕にして眠り込んでいる。ふところにしっかりと鼓を抱いたまま。王伯はあきれ果て、なんだかそれを取り上げるのがかわいそうになってきた。そんなにこの鼓が気に入ったのなら何とか持ち主を捜し出して購ってやろうか。盗むということがどんなことかまだよくわからないのだろう。それならそれで後からよく教えて聞かせてやろう。そんなことを考えて、鼓を抱いたままの息子を抱え上げ、家の中へ入っていった。

 それから王伯は付近の人に会うたび、鼓を失くしたという家はないかそれとなく尋ねてみたのだが、ついぞそれらしい話を聞くことができなかった。それどころか遊び仲間の子供らの中にも息子が鼓を手に入れたいきさつを知っている者があるらしく、天鼓、天鼓というあだ名で息子を呼んでいるのだった。何でも皆が野原で遊んでいるとき、例の鼓がふわふわ空から落ちてきて息子の手の中に止まったというのである。そんなことがあるものだろうかと王伯は半信半疑であったが、他に持ち主が現れぬ以上、鼓は息子のものであると認めないわけにはいかなかった。
 しばらくするうち、鼓は何ともいえないよい音色で鳴りだした。不思議なことには他の者がどんなに苦労して鳴らそうとしてもすんとも鳴らないのに、息子がいとも無造作にばちを振るだけでこんなみすぼらしい鼓のどこから出るのかと思うような音がとうとうと流れ出すのだった。彼が野原で鼓を打ち鳴らしていると、子供ばかりか通りすがりの大人までが足を止めて聞き惚れた。鼓の音は毎日毎日、朝から晩までどんな所にいようが風に乗って王伯の耳にかすかに流れてきた。それは息子が元気にしている何よりの証拠だから、王伯にはこの上もなく嬉しいことだった。
 鼓の評判は次第に広まり、大人たちまでが天鼓というあだ名で彼のことを話すようになった。王伯もいつのまにか元の名前など使わず、天鼓、天鼓と息子を呼ぶようになった。天鼓の打つ鼓の音は美しく、時に激しく、あるいはもの悲しく聞く者の胸に響き、また心楽しく、優しく鳴り渡り、人々の心を慰めた。その噂は遠国までも伝わり、天鼓の鼓を聞くためにわざわざ遠方から来る人さえいるのであった。王伯はいつまでたっても鼓ばかり打っている天鼓をしようのないやつだと思いながらも、いっこうにそれを咎めようとはしなかった。

 時の皇帝がこのことをお耳に入れ、ぜひその鼓を聞きたいものだと言った。さっそく勅使が王伯の家を訪れ、天鼓を召す旨を伝えたが、当の天鼓はあまり乗り気ではないようだった。もったいないからよくおっしゃることを聞き、お役目を果たしてくるようにと王伯が言って聞かせるとおとなしくうなずいたが、その時の天鼓の十にもならぬ子供とは思えないような深いもの悲しさをたたえた顔つきを、王伯は忘れることができない。
 鼓は見事に鳴った。いや、見事に鳴りすぎた。皇帝は鼓を召し上げたいと言いだし、それをどうしても聞こうとしない天鼓から力づくで奪い取ろうとした。天鼓は逃げ出した。逃げきれるはずもない。呂水のほとりで天鼓は捕らえられ、とうとう鼓を取り上げられてしまった。天鼓は捕吏の手を振りきって駆けだし、呂水にそのまま身を投げた。あっという間のできごとであった。そしてそれきり、天鼓は二度と戻ってはこなかった。

 天鼓が呂水に沈んだことを伝え聞き、王伯はそれがまことだと信じることができなかった。それはあまりにむごいではないか。こんなことになるのなら天鼓を行かせるのではなかった。あのときわしが行けなどと言いさえしなければ、いや無理にでも止めてやっておれば天鼓は死なずにすんだものを、と、しかしいくらそんなことを考えてみてもすべては後の祭りであった。王伯は一度に十も年を取ったように感じ、いまさらながらに天鼓がどれほど自分の生きる支えとなっていたかに気づくのであった。
 鼓の音はもう聞こえなかった。近在は灯の消えたように淋しくなり、今年の秋はやけに風が冷たいと誰もが口にした。
 主を失った鼓はもはや鳴ろうとはしなかった。宮中の秀でた楽人でさえその鼓に一音も発させることができなかった。思いあぐねた皇帝はとうとう天下に並びのないと言われる鼓の名人を遠国から呼び寄せ、くだんの鼓を見せて鳴るか、と問うた。名人は鼓を一目見て、鳴りませぬ、と答えた。なぜ鳴らぬ、と言うと名人は、この鼓には霊がついております、と語った。
 この鼓はまさしく天の鼓であって、自分にはおろか人間には鳴らすことのおよそかなわぬ不可思議の鼓である。もしこれを鳴らすことのできるものがあるとしたら、それはまさしく天上の楽人の生まれ変わりであろう、と名人は言うのであった。
 皇帝がことの次第を話すと、名人は涙をこぼし、その天鼓こそ天人の仮の姿であった。自分も一生のうちに一度その鼓の音を聞きたかったが、今となっては是非もない。この上はせめて盛大な管弦の講を催し、天鼓の霊を弔うがよろしかろう、と諭した。皇帝ももはや自分の行いを悔い、必ずそのようにしようと名人に約束した。

 天鼓の霊を弔うため、皇帝が管弦講を催されるからともに臨むがよかろうとの勅使の言葉を聞き、王伯は嬉しいとも思えず、腹立ちを通りこしてむしろばかばかしくなった。そんなことをして天鼓が帰ってくるとでも言うのか。苦い思いを、しかし口には出さず、それならそれでよい、皇帝とやらがいったいどれほどのものか、我が子の運命を最後まで見届けてやるのだ、と心中に決心してその勅を承った。
 管弦講はなるほど華やかなものだった。仰々しく飾り立てられた天鼓の鼓を囲んで百官が居並び、たきこめられた香の煙は秋天の中空に霞とまごうばかりにたなびき、ひっきりなしに楽が奏でられ、舞が舞われた。その楽人たちの管弦の音も、舞人たちの舞姿も、目のくらむようなきらびやかなものであったが、王伯の胸にはなぜかそれらがすべて空々しいものに感じられてしまうのだった。
 これが音楽というものなのか。天鼓の打つ鼓の音はこんなものではなかった。心の奥底を揺り動かし、魂に語りかけ、何か生きるということの歓びを教えてくれるものだった。あの子にとって鼓は自分の命のようなものだった。それをお前らは無理強いに奪い取ってしまったのだ。そしてこのわしの大事な天鼓を、わしの生きる望みを、奪い去ってしまった……。
 その時ふと管弦の響きが遠ざかり、一人の貧弱な老人が満座をわけ、天鼓の鼓の前に進み出た。老人はそこにみずからの鼓を据えると、ふところからばちを取り出し、無造作に打ち始めた。鼓はとうとうと鳴り渡り、それは初めて王伯の胸に静かにしみいり、もの柔らかに広がっていった。それはおおらかな、深い悲しみをたたえた鼓の音であった。王伯は天鼓が最後に自分に見せた、あの悲しみに濡れた瞳の色を思い出し、あふれる涙を抑えることができなかった。
 わしにも鼓が打てたら、と王伯は思った。そうしたら天鼓の心のほんのひとかけらでもわかるかもしれないのに。皇帝をはじめ、居並ぶ人もみな一人残らず、やはり目頭をおさえ、首を垂れて鼓の音に聞き入っていた。もはや王伯にはこれらの人々を憎むことができなかった。

 管弦講は終わり、人々は去った。三日月が西の空に傾き、星々が秋の風にかすかに瞬いていた。遠く呂水の波の音に耳を傾け、王伯は一人ぽつねんと座っていた。なぜか天鼓の鼓は台の上に掛けられたまま、元の所に置き忘れられていた。王伯はやっとそれに気づいたようにその前に歩み寄り、呆然と鼓に見入った。
(おとうちゃん)
 王伯はびっくりして辺りを見回した。さやかな風が一面の秋草を吹き渡っていく、その向こうは見渡す限りの水面である。空耳か、と王伯は苦笑した。
(おとうちゃん)
 いや、空耳ではない。たしかに風の中に天鼓の声がする。天鼓、どこにいるんだ、と王伯は呼んだ。
(おとうちゃん、鼓は鳴るよ)
 え、と鼓を見るとばちが掛かっている。ためらいながら手に取ってみると、なんだか鼓が打てそうな気がした。思いきって一つ打ってみると、鼓は鳴った。それは天地の間にこだまし、王伯の胸をいっぱいに満たした。王伯はたとえようもない歓喜にあふれ、天までも届けと、思いのままにばちを振るいだした。
 体を震わせ、空へ向かって立ち上る鼓の響きに包まれながら、天地が急に輝きを増したかのように王伯には思えた。星々は揺れ、風は踊り、呂水の水は波立ち、それらの波動は王伯の身に寄せては返し、ばちを振るう手の興をいっそう引き立て、どこまでも遙かに響く鼓の音に重なっていくのを、いつ果てるともしれぬ夢のように感じていた。そしていつしか夜は更け、星は巡り、やがて東の空が白々と明けそめる頃、鼓の音も次第に遠のいていった。

 明くる朝、呂水のほとりには鼓打ちの老人がひとり静かにたたずんでいた。そこには王伯の姿も、天鼓の鼓も、消えてなくなっていた。

(了)


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