「邯鄲の枕などというものが本当にあるのですか」
宿の亭主が四方山話の合間にふとのぼせた言葉を聞いて、私はなかなか自分の耳が信じられなかった。念願の末に果たすことのできた初めての、しかもごく短い中国旅行の途中で、こんな珍奇で著名な故事来歴に巡りあわせようとは思ってもみなかったからである。邯鄲の枕とは、たしか一夜のうちに己の生涯を夢見るという伝説の枕だったはずである。いつどこで聞き覚えたのだったか記憶もあやふやであったし、詳しい話の内容も、それがどの地方のものであったかも覚えておらず、亭主の口からその名が出るまでまるで念頭になかったものだから、なんだか狐につままれたような感じさえしたのである。しかも亭主の話はただの土地の伝承といったものではなく、やがて本当に一個の枕を持ち出してきた。
それはおそろしく古ぼけた代物ではあったが、どうも本物の絹張りらしく、すり切れて判別しがたいほどではあるが金糸でこまかな模様を施してあるようで、素人の私の目にはかなりの値打ちもののように見えた。これを買わされるのかなと思っていると、そうでもないらしく、亭主はまるで他人事のような口調でその枕のいわれを淡々と語るのであった。
亭主の話によると、彼もこの枕の正体を本当には知らないらしかった。もとはもう何代も前の彼の先祖が見知らぬ旅の老人から譲り受けたものだという。未来のことを夢に見るというような話はついぞ聞いたことがなく、そのかわりこの枕を使ったものは必ず気がふれるとか、死んでしまうとか、怪しげな言い伝えばかりあるので、亭主自身恐れて試してみたことが一度もないというのであった。
私はだんだん狐に化かされているような気分になってきた。だいいちなぜ私のような外国の旅客にわざわざそんなものを持ち出してきて見せようとするのか。よくわからないことばかりであったがしかし、私はあえてそのことを問いただそうとはしなかった。好奇心の方がはるかに強かったからである。もちろん狐狸のたぐいや呪いなどというものは信じていなかったから、ひとつこの枕を試してやれという気になったのである。
今晩その枕を使わせてはもらえまいかと頼むと、亭主は意外にもあっさり承知してくれた。
*
「よくおやすみになれましたか」
翌朝亭主と顔を合わせた私だが、未来のことはおろか何の夢も見ていなかった。もともと期待もしていなかったし、正直にそう言うと、驚いたことに彼はその枕を持っていけと言うのであった。自分のもとに置いても何の益もないものであるし、それにこの枕は使った者が次の持ち主になると伝えられていたというのである。私は固く辞退したが亭主は聞かず、それならと申し出たなにがしかの礼も受け取ろうとはしなかった。
私はとんでもない拾いものをしたと喜び、その枕を大事に抱えて帰国した。知人にもずいぶんと見せびらかし、自慢話の種にしたのだが、何か気にかかる所があって誰にも使わせることはしなかったし、自分自身でも二度と試してみようとはしなかった。
そのうち私は一人の女性に巡り会った。取り立てて美人というわけでもないし、熱烈な恋とは言えない、おだやかな愛情であったが、私には自分が生まれてきたということのひとつの意味を見つけた気がして、仕事をするにも張りができ、充実した日々が続いた。それから数年を経て私たちは結婚した。
その頃は中国へ旅行するなどという贅沢はとてもできなかったし、私自身不思議なほどそういうことに対する興味を失っていた。あの枕のことも次第に念頭から去り、持っているという意識さえほとんどなくなって、新しい家庭の押入の奥にしまわれたままになったのである。
やがて私たちの間には男の子が一人生まれた。それからさらに一年おいて女の子ができたがこのときは難産で、医者からもうこれ以上子供は作らない方がよいと言われた。いろいろと苦労することもあったが、私と妻と二人の子と、さしたる不幸もなく静かに月日を送っていった。
しかし、いつの頃からだったろうか。そういう平穏な毎日に物足りなさを感じるようになったのは。不満があるというのではない。忙しく何かに追い回されている間は忘れていられるのだ。ただ時折ふと暇を持て余すようなとき、静かな暮らしの幸せを感じる心の片隅で、これが自分の人生のすべてなのか、これ以外に自分の生き方というものはなかったのだろうかと、問いにもならないかすかなつぶやきのようなものが聞こえるような気がするのであった。
そんなある日のこと、押入の奥から薄汚れた風呂敷包みが現れた。その包みを解き、ていねいに和紙でくるまれていた鼓を取り出して眺めているうちに、むかし見た花火の記憶のような鮮やかさで、異国にあこがれ遠く旅した頃のことが脳裏に甦ってきた。わけも知らず、私の目に涙がにじんできた。
なぜそのことをそれほどまでにためらうのか、その時私には自分でも説明がつけられなかった。それからの数日というもの、私は毎晩枕を取り出しては眺め、物思いにふけった。かと思えば見慣れた妻の姿をなんとなく後ろめたい視線で追いかけ、またある晩などは子供たちの寝顔に見入っているうちに不意に涙を抑えきれなくなったりした。しかし一度心の奥底に湧き上がった衝動を抑え続けることはもはやできなかった。ある夜、私はついに邯鄲の枕を頭にして眠りについた。
*
「よくおやすみになれましたか」
枕元に座っていた妙な男が私に話しかけた。あたりは薄暗い。
「ここはどこだ」
私が目覚めたのは見知らぬ場所であった。いや、そうではない。かすかだが記憶がある。あれはいったい……。
「夢はごらんになりましたか。あなたは丸一日眠っておられた」
その時私は突然ここがどこであるか思い出した。もう二十年も前に中国へ旅したときの……。いや、二十年前ではない。あれは……。
「亭主、鏡をくれ、鏡を」
震える手で受け取った鏡の中から私を見つめ返しているのは、見慣れた自分の顔ではなく、昔の若い頃の私であった。いや、昔ではない。これは、これが、今の私なのだ。私の顔はぞっとするほど醜く歪み、恐ろしげに引きつっていた。呆然として何の意味もなく空回りする私の頭の中に、遠くから亭主の声が響いてきた。
「昔、廬生という青年がこの邯鄲の枕で夢を見ました。それはこの世で考えられる限りの栄華に包まれた夢だったそうですが、彼はその後気が狂い、阿呆のようになってしまったということです。その他にもこの枕に夢を結んだ者は皆自殺したり、あるいは夢から覚めぬまま廃人となったりしました……」
私の心には妻の顔が浮かんだ。妻と出会った頃のこと、妻とともに暮らした日々、そして私の子供たち、それらの鮮やかな映像が幻のように……。幻なのか。あれが本当に幻なのか。ここに今こうしていることこそ夢ではないのか。いや、たとえ妻との暮らしが夢だったとしても、あれが未来のことだとすればすべては元通りになるのだろうか……。
そこまで考えて私は慄然とした。あれと全く同じ日々を二十年間もそのまま繰り返すことに、耐えられるはずがなかった。私は声の限りに叫びながら、駆けだしていった。外は底知れぬ真っ黒の闇だった。
(了)