一、六条御息所
六条御息所は洛中に隠れもない美女であり、才女である。しかし彼女の胸のうちに秘められた感情や、深い内面性を知る者は少ない。側近くに仕える者たちでさえ、彼女を気位の高い冷たい女性という目でしか見ていないのである。たしかに六条御息所にはそういう一面があることも否定できない。しかし、その高慢とさえ思える気位の高さも、美しいがゆえにかえってなお冷ややかに感じられる冷静さも、決してただの思い上がりや、感受性の乏しさから来るものではなかった。
幼い頃の彼女は意地っ張りで強情なくせに、些細なことでもすぐ自分の殻に閉じこもってしまうような、もろく傷つきやすい少女であった。何の時であったか、彼女が気に入っていた玩具を、誰かよその子が欲しがったというので、なだめすかされて親に取り上げられたことがある。するといつのまにか姿が見えなくなっていて、夜遅くなってから加茂の河原に一人でいるところを見つかって連れ戻され、後でひどく叱られた。
またこんなこともある。かわいがっていた小鳥が死んでしまい、庭の隅に埋めたのだが、その後それっきりものを食べようとしなくなった。怪しんで問いただしてみると、自分も小鳥のようになるかどうか知りたいというのである。動かなくなって冷たくなってしまったら、自分も土の下に埋められるのか、そうしたらそれからどうなるか、知りたいというのであった。これは憑き物がしたかと慌て、加持祈祷をさせるなど大変な騒ぎであった。
そのうちにそんな騒ぎを起こすようなこともしなくなり、長ずるにしたがっておとなしい普通の女の子になっていったのだが、激しさのようなものが彼女の中から消え失せてしまったわけではなかった。彼女はそれを人目から覆い隠すすべを身につけたのである。
彼女に与えられた目標は、誰よりも美しく着飾り、人にすぐれた歌を詠み、優雅さそのものとなること、人々から羨望のまなざしを受ける対象となることであった。彼女はそれを拒もうとはしなかった。むしろ積極的にそれを目指すことで、彼女は自分が生きるために必要な緊張を得ようとしたのである。そしてそういうことなら彼女は誰にも負けなかった。彼女の端麗な微笑、優雅な物腰、機知に富んだ会話、そういったものを誰もが褒めそやした。親までがあられもなく娘を自慢の種にするのを、彼女は冷ややかな目で見ていた。年頃の女友達から嫉妬され、敬遠されても、一向に気にしようとはしなかった。
彼女が傲慢でなかったとは言えまい。彼女は自分以外の人間が皆ばかに思えて仕方がなかった。たしかに彼女の容姿も才能も人並みはずれた非凡なものであったが、しかし彼女は決してそれを過信していたわけではない。彼女には他人のものの考え方がどれもこれもおかしく思えて仕方なかったのである。明らかな矛盾を看過し、何の根拠もないものを信念として固執するくせに、そこから当然生じてくる破綻をそれとして認めようとはしない。そこには単なる無知や誤り以上の、錯誤への意志としか言いようのないものがあると、彼女には思えたのである。
彼女はまた自分がうそつきであることを知っていたが、それがいけないことだとは思わなかった。彼女にとって虚偽よりも無知の方が、それは無意識の嘘であるがゆえに、より罪と呼ぶにふさわしいもののように思えたのである。
彼女は生まれながらにして、真の貴婦人となる資格と、能力と、運命を備え持っていた。それは彼女にとって心の底から求めるものでもないかわりに、あえて拒むべきものですらなかった。そしてその貴婦人という虚像を他人に対して、また自分自身に対しても固定することで、彼女は何よりも自分の中のもっとも柔弱な部分に無神経に触れてこようとする、粗暴な手を退けたのであった。
彼女に向けられる嫉妬と憎悪の視線が、賛美と尊敬のそれに取って代わられる頃、彼女は御息所として押しも押されもせぬ一流の貴婦人となっていた。御息所としての彼女は、あくまでも美しく、常に理性的であり、決して品位を欠かぬ冷静さを持った女性であった。それは虚飾だったかもしれないが、彼女にとって人間の存在のすべてが虚飾に過ぎなかった。虚飾でない部分とはすなわち無と同義であるのだった。
彼女はもはやどんなものにも愛着を持とうとはしないかのようであった。小動物も二度と飼わなかった。彼女の心を慰めるものといえば、まだずっと無心でいることのできた幼い頃の記憶、あの日見た宇宙の広がり、そして歌、彼女の心に密やかに語りかけてくる、いにしえの遠い心たちばかりであった。
ある歌の会でのことである。一人のみすぼらしい老貴族が彼女の歌を評してこんなことを言った。言葉も美しいし出来も申し分ないが、何かあなたの心が感じられないように思われるのは私の気のせいであろうか、と。彼女は頬を紅潮させてその席を立った。そうしてすぐはその老人が憎くてたまらなかったのだが、しばらくするうちに逆に愛しく、親しく思えてきた。だがその老貴族はそれきり宮中への足も遠のき、ついに言葉を交わすこともなかった。
すべては些細なことであった。年月は静かに流れ、彼女の心はいつか氷の炎のように透明に青白くなっていくかと思われたが、ある時突然赤々と燃え出すことになる。彼女の心に火をつけたその男の名は、光源氏であった。
二、葵上
御息所はその生涯にたった一度の恋に敗れた。光源氏の北の方は結局葵上であった。源氏と御息所の関係は次第に遠いものになっていった。
源氏の正室でない、ということは彼女にとって必ずしも第一義的な問題ではなかった。あえて言うならば、源氏と出会ったその時のときめきこそが唯一の真実だったのだ。その時の彼女の驚きを何と表現すべきだろうか。自分というものに対してこれほどに強く訴えかけてくる存在があることの不思議さ。いや何よりも彼女は、自分がこの世に生まれてきたということの意味を初めて見つけ出したのだった。
自分はこの人と会うために生まれてきたのだ。彼女はそう信じて疑わなかった。それはある意味でやはり根拠のない確信に過ぎなかったかもしれない。しかし彼女にとってはそうではなかった。なぜなら彼女の全存在がその根拠だったから。彼が存在するということを彼女は歓びをもって受けとめ、その歓びにどこまでも忠実であろうとした。そしてその限りにおいて、たとえどんな結果が生じてこようと、それは彼女にとって決して誤りとはなり得ないものだった。
彼女が男の前でなお理性的であることも是であった。男を愛するための形を選ぶことは何の意味も持たなかった。なぜなら形は一回性のものであり、存在の持つ真実の前には幻のようなものだったから。彼女は自分の自然な形に忠実でありさえすればそれで充分だった。
しかし、苦しみもまたそれ自体で存在するものであった。源氏との間に広がっていく距離を、御息所は耐え難い苦痛をもって見守っていた。ただその苦痛は、彼女自身の真実から導き出されたものであったがゆえに、彼女はそれをあくまでも従順に受けとめるのみであった。
しかし、ひとたび埋められた存在感の跡に残った空洞は、別のところで彼女の内部に破綻を生じさせつつあった。
彼女もはや若くはなかった。彼女がその能力と素質を注ぎ込んで獲得してきた一流の女性としての評価は、実は若さのゆえに後から来る者にたやすくその地位を取って代わられるはかないものであった。自分はすでに頂点から遠ざかりつつある。しかもそれは時間という、誰にもどうすることのできぬもののためなのだ。彼女はもはや自分に目標というものが与えられていないことを悟った。そしていつか失われるべきものを目標として生きてきた過去の自分に対して、奇妙な焦りのようなものを覚えるのであった。
揺れ動く御息所の心に決定的な打撃を加えるような事件が起きた。
加茂の祭りの日、運命の手は人並みでごった返す大路の上で、御息所の車と葵上の車とを隣り合わせにしたのである。御者たちはどちらが道を譲る譲らぬで争い、ついに暴力に及ぶ騒ぎとなった。そして御息所の車はさんざん痛めつけられたあげく、その争いに敗れたのである。この事件はまもなく評判となり、御息所は葵上から辱めを受けたのだと声高に噂された。それはプライドの高い彼女にとって耐え難い状況であった。事件そのものは単なる偶然であり、御者たちの血気ゆえのあやまちに過ぎない。それなのにあえてそれが葵上との対立関係として受け取られていること、その中には名流の女性同士の勢力争いを暗示しようとする意図ばかりか、光源氏という一人の男を巡っての女の戦いに対する揶揄までが込められていることに、彼女は抑えきれぬ怒りを覚えるのだった。
それだけならばよかった。世間の無知と無神経さなど彼女にとってはいまさらのことではなかったのだから。しかしその愚劣な錯誤はやがて彼女自身の神経までをも蝕みはじめた。それは彼女の自尊心に絶え間なく加えられる圧迫が、彼女の名流としての地位の転落という現実に正確に重なり合っていたためであろう。彼女はともすれば葵上という相手を敵対するような意志で捉えようとしかねなくなっている自分に気づいていた。しかもそこには、源氏を自分から奪っていったという、何の根拠もない暗い嫉妬の念が重なっていこうとしていることにも。
自分の精神は歪んでいると、彼女は自覚していた。そして理性が支配している間は、それを完全に抑えることが彼女にはできたのだ。しかしその暗い情念の根源は彼女の理性の手の届かぬところにあった。
夢の中で彼女は葵上をつかまえ、なぜあの人を私から奪った、なぜ私を辱め苦しめるのだと、果てしもなく責め続けるのであった。夢の中では誰もそれを止める者がいなかった。そして目覚めてはそのことを思い返し、今度は悔悟の念に自分自身を責め立てるのであった。それは相手が御息所自身であるがゆえに、もっとも困難な苦しい戦いであった。
やがて彼女は葵上が身ごもったという話を聞いた。彼女の夢は変わった。もはやものを言うこともせず、葵上の首に手をかけ、ぐいぐい絞めつけるのであった。冷や汗にまみれて飛び起きると、まるで自分の方が首を絞められていたかのように息苦しかった。夜が来ても眠るのが怖く、かえって昼間にも満足に起きてはいられぬようになった。
彼女は人目を避け、しまいには寝所にこもりきりのようなありさまとなった。頬の肉は落ち、目ばかりがぎらぎらと光っていた。その頃、源氏の館では身重の葵上が病に伏せるという騒ぎが持ちあがっていたのだが、そのことさえ御息所は知らないままであった。
三、照日巫女
照日巫女は当代随一の梓の上手と評判が高かったが、それには彼女に医術の心得があり、よく物病みを治すのが大きく効を奏していた。巫女は葵上に憑いたというもののけを見きわめるよう依頼され、彼女の寝所へ通されたとき、一目で衰弱しているなと思った。巫女は婉曲にその旨を述べ、栄養の取り方などを変えなければならないと言ったが、取り合ってもらえなかった。そのようなことは充分に気をつかっている。あなたは物の怪の正体をつきとめてくださればよいのだ。そんな調子であった。
巫女は、もののけの憑くなどということはそうそうあるものでないことを知っていたが、さすがに自分からそうは言えない。とにかく何事にせよ、本人に充分な体力と気力が備わっていなければどうしようもないというのが彼女の主張であったが、体面ばかりを重んじ、腰高な貴族たちにそんなことを言ったところで、まず通じるわけがなかった。
巫女は、今度の一件はもののけなどではないとはじめから思っていた。ひそかに耳にした噂では六条御息所の呪いがかかっているのではないかということであったが、それさえ彼女には疑わしく思えた。御息所の人となりはわずかに伝え聞くのみであったが、それらから得た彼女の印象というのは、そんな噂にはそぐわないものであった。
しかし、葵上が身重の体であるだけに巫女も慎重を期していた。母胎は非常に敏感なものであり、強度の思念が働きかけた場合、胎内の子に悪い影響を及ぼさぬとも限らなかったからである。
巫女は葵上の枕頭に座し、じっと瞑目した。やがて巫女の精神は肉体の次元を脱し、遊離状態に入っていった。床に伏す葵上の姿は実体のない影のようなものとなり、ほの暗い闇の中に沈んでいった。巫女はその周囲に繊細な感覚の触糸を張り巡らし、息をひそめて待った。やがてその網の中に、明らかな波長を持つ異質な触手の先端が現れた。巫女は静かに網を解き、その触手を逆に追跡していった。
ほどなく巫女は触手の主をつきとめた。その触手は明らかに、夢を見ることによる一時的な遊離を行った精神の一部分であった。巫女はさらに意識を集中させ、その夢の内部へと入り込んでいった。
唐突に底深い闇が巫女を押し包んだ。巫女は一瞬異次元に迷い込んだような錯覚を起こしかけたが、よく落ち着いてみればそれはすでに幾度か経験のあるものであった。それは睡眠中に活動を停止いている、人の精神の表層部であった。巫女が驚いたのはその並はずれた深さと広さのゆえだった。このような精神を持っているのはいったいどのような人なのだろうと、巫女は激しい興味を感じずにはいられなかった。しかしそれを知るために探りの手を入れるようなことはしなかった。無防備な人間の精神に内部から不用意な衝撃を与えることは、下手をすればその正常な活動に破壊をもたらしかねない危険なことだったからだ。
巫女は待った。やがて奥深い洞窟のような闇の彼方から何者かが近づいてくるのを、巫女は知覚した。その姿が明らかになったとき、巫女が我知らず息をのんだほど、それは美しく気高い女性の姿だった。
その女性は静かに佇んでいた。それは限りなく美しいが、息の詰まるような沈黙であった。時折激しい錯乱した念波が放射され、それが自らを突き動かすのを必死にこらえている様子であった。その時突然、華やかで混乱した空間的印象が彼女の周囲に展開され、彼女は車の中にいた。と、見るまに車は真紅の炎に包み込まれ、激しい炎熱が彼女をなぶった。巫女は耐えきれず目をそむけた。彼女が誰であるか、もはや疑う余地はなかった。
巫女が気をとりなおして見ると、彼女はいつのまにか葵上の影の近くへ忍び寄っていた。彼女はどろどろした想念をその上に注ぎかけていたが、ついに手をかけようとするのを見て、巫女はたまらず声を上げた。
「いけない」
女は葵上にさしのべかけた手を止め、巫女の方を振り向いた。巫女はぞくりと身内に戦慄が走るのを覚えた。
「六条御息所ともあろうお方が、なぜそのようなことをなさるのです」
巫女はいつもの彼女に似ず、必死であった。このような強大な精神力を持った人間には出会ったことがない。その存在感の強さは、巫女の自我の方が浸食されかねないほど圧倒的なものであった。
「お前は誰」
女は冷たい美しさを持った響きのある声で巫女に話しかけてきた。
「私は巫女です。決してあなたに敵意などは持っていません。でもこんなことはあなた自身を苦しめるばかりではありませんか。どうか、もうおやめになってください」
女は、それには答えようとせず、ただじっと巫女の目を見つめた。巫女はその瞳の色の悲しさに、何も言うことができなくなってしまった。そんなことはわかっている。しかしこうせずにはいられないのだ、と女の目は語っていた。
女は虚空に舞いはじめた。まるでその舞の中にすべての情念を昇華させてしまおうとするかのように。しかしそれでもなお女は葵上に引き寄せられていき、彼女を打ち据えようとするのであった。
もうやめて。なすすべをなくした巫女は全身全霊を込めて祈るばかりであった。それが通じたのか、やがて女はその身を隠すようにして再び闇の底へと消えていくのであった。
四、横川小聖
葵上を脅かす夢魔の正体が六条御息所であることを、照日巫女はどうしても告げることができなかった。危険なのはむしろ御息所自身の精神状態の方であって、葵上に害の及ぶことはほとんどないだろうというのが巫女の観測であった。かえって下手に手をつければどのような悪い結果を引き起こさぬとも限らなかった。このままそっとしておけば、御息所はきっと自ら解決をつけてくれるだろうと、巫女は信じていた。
巫女はもはやどのような意味においても御息所を悪く思うことのできなくなっている自分に気づいていた。それはすでに理非を越えた確信であった。夢の中で見たあの御息所の姿は決して侵してはならぬものだった。それは、その美しさと気高さのゆえに。そして、ある高みへ自ら昇りつめ、なおかつ恋をした女の姿であったゆえに。それを否定することは、巫女自身の女性としての存在を否定することであった。
しかし源氏の家臣は、もう照日巫女は役に立たぬと見て、今度は横川小聖という修験者を呼んで加持させようということになった。巫女は反対した。法力のように暴力的な手段で対決しようとすれば、必ずどちらかが傷つくことになる。最悪の場合、御息所は精神を破壊され、廃人となってしまうであろう。その逆の場合は、今度こそ葵上の身に実質的な危害が及ぶことは避けられまい。そしていずれにせよ強大な精神力の激突は、その渦中に巻き込まれるかもしれない葵上とその胎内の子に悪質な影響を及ぼすだろうと思えたのである。
しかし巫女の意見が彼らに通じるわけもなかった。巫女自身がすべての状況を解き明かすことすらできなかったのだから。巫女にできることは、その祈祷の現場に自分も立ち会わせてもらうことだけだった。
横川小聖は脂ぎって、陰険そうな目つきをした小男だった。照日巫女は彼を一目見て、自分の不吉な予感がいっそう高まるのを感じた。彼を説得するのはおそらく不可能だろう。しかし、祈りの場に立ち会わせてもらいたいという巫女の申し出は意外にすんなりと受け入れられた。
おとなしくしていればかまわぬが、気をつけねば痛い目にあうぞ。小聖はそう言って、生理的嫌悪感を催すような目つきで巫女をじろじろと眺め回した。
だが葵上の寝所に結界を結び、祈りにかかる段になると、小聖の様子は一変した。その小柄な体は異常なまでの精気に満ち、目は冷たく鋭い光を帯びて、それまでの好色さなど跡形もなく消え去っていた。巫女は内心舌を巻いていた。たしかにこの小聖という男は、敵に回したら恐ろしい相手だ。巫女はいまさらのように御息所の身が気づかわれ、不安で居ても立ってもいられなくなってきた。
どうか、こないで。しかしその思いが御息所に届くはずもなかった。
小聖は祈りはじめた。次第に彼の思念は集中していき、凝り固まってついに葵上を包み込む強固な障壁と化した。それは巫女でさえ恐ろしくて触れることをためらうほどの、強力で危険な念力であった。
来てはいけない、御息所。しかし巫女の願いもむなしく、彼女はやってきた。御息所の思念の触手は、小聖の作った障壁に触れるとたちまち電撃のようなショックを受けて崩壊し、きな臭い雰囲気を残して消え失せた。しかし、それで終わるはずがなかった。小聖は身構え、祈りの声はいよいよ高まった。
戦いは唐突に始まった。空間を越えて強烈な怒りの念波が一気に小聖の結界を襲った。それは怒りとすら呼べぬほど、激しく猛り狂った衝撃の波であった。はじめは乱雑に渦巻く不定形のものに過ぎなかったが、徐々に凝り固まっていき、やがてひとつの恐ろしい形となって姿を現した。それは巫女が夢の中で見た、御息所の美しい姿とは似ても似つかぬものであった。
頭には角を生やし、全身を鱗に覆われたその姿は、凶悪な蛇のイメージであった。ただその目だけは泣き腫らしたように痛々しく、それがまぎれもなく御息所の化身であることを巫女に思い知らせた。その蛇を巫女は知っていた。それは他ならぬ巫女自身の精神の中にも潜むものであったからだ。目をそらしてはならぬ。この戦いを最後まで見届けるのだ。巫女は必死で自分にそう言い聞かせていた。
悪鬼はすさまじい勢いで小聖をめがけて攻撃してきた。小聖も必死であった。もはや障壁に思念を集中することもできず、自ら火の玉のような塊となって容赦のない攻撃を悪鬼に加えはじめた。両者の念力は衝突して爆発し、膨大な衝撃波となって空間をさえ歪ませた。一方が押されたかと思えば、死にものぐるいの反撃をし、その戦いは果てしなく続くのかとさえ思われた。しかし、いつしか形勢は傾き、戦いも終わりに近づいていった。
勝ったのは、小聖であった。彼のとどめの一撃の下に、悪鬼はもはや攻撃する意志も失い、祈りの声に耳をふさぐようにしてうずくまった。それはもはやすでに悪鬼などではなかった。すべてを失って泣き崩れる、子供だろうが、老人だろうが変わることのない、ただの一人の女の姿であった。息を荒げ、さらに責め立てようとする小聖の肩を、巫女はきっぱりと押さえた。
御息所は去った。その後、葵上は難産がもとでついに帰らなくなってしまったが、その真の原因が何であったか、照日巫女は誰にも語ろうとはしなかった。
(了)