杜若

 水辺の泥の中から、みずみずしい緑の茎と葉が何本となく伸び上がり、あざやかな濃紫の花を咲き誇らせていた。泥まみれの足がその一本を踏みしだく。花は倒れ、泥水の面に押しつけられる。足はそこを離れ、一歩先の泥の中に踏み込む。その足元がよろめき、泥の中に膝までのめり込んだ。荒い息を引き立てて、また立ち上がる。歩き出す。また一本、花の茎が折れる。
 少年は追われていた。ふと棒立ちになり、後ろを振り返る。その目は半ばうつろで、ともすれば放心してしまいそうだ。右肩から背中へ、大きな傷が着物の裂け目を真っ赤ににじませている。それが彼の意識を遠くへ連れ去ろうとしているのだった。
 少年は我に返り、また泥水の中を進みはじめた。岸辺の藪が騒がしかったのは、追っ手が迫ってきたからだろうか。少年はぼうっとした頭で必死に考えていた。死にたくない。死ぬのはいやだ。逃げなくちゃ。どこまでも逃げなくちゃ。
 彼の足は疲労とまとわりつく泥で重く、よろめきながら、何かに引きずられるようにして進んでいた。八つ橋まで行けば。彼の目は何かにすがるように前方へあげられた。八つ橋まで行けば、死んでもいい。
 彼はけんめいに川の地形を思い出そうとしていた。ここはどの辺だろう。八つ橋はたしかにこの方角だろうか。彼は不安に駆られて、精いっぱい伸び上がってみた。茂みの向こうに橋らしいものがちらっと見えたような気がした。よかった、八つ橋だ。あそこまで行けばもう大丈夫だ。
 彼はもっとはっきり見ようと、もう一度背伸びをして目を凝らした。しかし、今度目に入ってきたのは別のものだった。舟だ。しまった、見つけられた。いや、まだ気づいていないかも。とにかく身を隠すんだ。
 彼はもう迷わなかった。彼の体は緊張から解き放たれ、杜若の花の中へ、倒れ込んでいった。泥水がやさしく彼の体を受けとめてくれた。
 身を起こして、見張らなくちゃ。彼は遠くなりそうな意識を必死で引き留めようとした。頭の中で、自分がそうする幻想を何度も繰り返した。そのうちにやがて、ずいぶん遠いところからのように、櫓が水をこぐ音が聞こえてきた。彼は身を起こすのをあきらめ、もう耳を澄ますことだけに集中しようと決めた。
 櫓の音は次第に近づいてくるようだった。もう、逃げられないな。いずれ見つかってしまうだろう。せめて八つ橋までたどり着きたかったけど、でもそんなに遠くじゃないだろう。
 櫓の音はゆっくりと、規則正しく響いていた。ぎい……ぎい……。ずいぶん、ゆっくりだな……。のんびりした追っ手だな……。まるであの時みたいだ……。あの日も、こんな風に……。ぎい……ぎい……。

「ほら、どうだい、きれいだろう」
「わあー」
 綾は身を乗り出すようにして、近づいてくる杜若の花の群れに見入った。昌武は得意げに鼻をこすって、櫓を取る手を握り直した。
「ここ数日がいちばん見頃なんだ。あや殿はこんなものあまり見ないんだろ」
「八つ橋の上を通るときに見ることはあるわ。でもいつも車で素通りしてしまうの」
「よし、じゃあ今度は八つ橋の下まで行ってみよう。ちょっと揺れるよ」
 昌武は櫓を巧みに操って舟の向きを変えた。水面にきらめく陽の光が一瞬目の前をよぎり、綾はまぶしそうに目を細めた。後ろの方へ離れていく花の一団をしばらく名残惜しそうに見送っていたが、舟が入り組んだ水路を進み出すと、今度は器用に向きを変える舳先の動きに見とれ、感心したように昌武の方を振り返った。
「たか様は舟をこぐのが上手ね」
 綾は昌武の名を聞いたすぐ後から、まさたか、を勝手に縮めて、たか様と呼んでいる。昌武はそれがどうにもくすぐったいのだが、まるっきりいやというのでもない。まして自慢に思っていたことをほめられて、思わず胸を大きくふくらませた。
「小さい頃から教わってたからね。近頃は父上を乗せてずいぶん遠くまで行くこともあるよ」
「そう……偉いのね」
「あや殿は舟に乗ることはないの」
「ねえ、その、あや殿って言うの、よしてくれないかしら」
「え、でも……じゃあなんて言うんだい」
「ふだんみんなは私のこと、あやめって呼び捨てにするの。だから、たか様もそう呼んでくれた方がいいわ」
「あやめか、うん、わかった。だったらその、たか様って言うのもやめてくれなくちゃだめだよ」
「あら、どうして」
「だって、そんな風に呼ばれたことないからさ。なんか変な感じなんだもの」
「じゃあ、なんて呼べばいいの」
 昌武は答えに詰まってしまった。だいいち綾のような年頃の女の子から親しく呼びかけられたことがないのだ。それに正直なところ綾の口からそう呼ばれることが好きになりかけていた。
 綾はむずかしそうにしかめられた昌武の顔を心配そうに見守っていた。あやめ、とみんなに呼ばれているというのは、嘘だった。それは綾が空想の中で考え出したあだ名で、一度そんな風に誰かから呼んでもらいたいと思っていたのを、ここで実現しようとしたのである。
 やがて昌武は、わざとふくれっ面をして見せると、綾に向かって言った。
「じゃあいいや、お前はあやめ、俺のことは好きなように呼んでいいよ」
 綾は顔を輝かせて、こぼれるような笑みを浮かべた。
「ありがとう、たか様」
 昌武は顔を赤らめて下を向くと、もういっぺんふくれっ面をした。
 澄みきった初夏の風が川上から吹き抜けてくる。ところどころに群生する杜若の花が揺れ、遠くでびっくりしたように飛び立つ水鳥の姿が見えた。やがて舟の行く手に、丸太を組んだ橋桁が近づいてきた。昌武は櫓をこぐ手をゆるめ、慎重に橋の真下へと舟を導いていった。
「そら、橋だ。いちばん南側の橋だよ」
 綾は振り仰ぎ、驚きの声を上げた。
「ずいぶん頑丈に作ってあるのねえ。それに橋の下がこんなにきれいだなんて、知らなかったわ」
「ここもかきつばたの多いところさ、ほら」
 昌武の指すとおりに辺りを見渡して、綾はしきりにうなずいた。密生したところでは橋桁の根元を埋め尽くすほどの、おびただしい花の数である。
「橋の上から見るのなんて比べものにならないわね。見に来てよかった……」
 ため息をついて花に見とれる綾を、昌武は満足そうに眺めた。
「ねえ、たか様。この花はかきつばたって言うの」
「うん、そうだよ」
「あやめとも言うんでしょう」
「あやめは違うさ。あやめとかきつばたは別だよ」
「私あやめを見たことあるけど、これと同じだったわよ」
「そりゃあ、いずれがあやめかかきつばたっていうくらいだから、そっくりなのさ」
「じゃあ、どこがどう違うの」
「それは……そんなの見なきゃわかんないさ」
「じゃ、あやめの方も見に行きましょうよ」
「えっ」
「あやめのあるところに連れてって」
「だめだよ、この川に生えてるのは、みんなかきつばただもの」
 綾はがっかりした様子で、それでもあきらめきれないように言った。
「じゃあ、あやめが生えているところはどこか、教えて」
「えっ、それは……」
「私あやめが見てみたいの、ねえ、教えて」
 昌武はとうとう言葉に詰まってしまった。
「ねえ、たか様」
「うるさいな、そんなに見たきゃ自分で勝手に探したらいいだろ。わがまま言うと、舟から降ろして置いてっちゃうぞ」
 昌武はどなりつけるように一気に言ってから、しまった、と思った。綾の目が怯えて、こちらを見上げていた。さっきまでの伸びやかな動作が嘘のように、体を固くしている。昌武は、綾が自分に誘われて家を抜け出してからずっと、心の中で不安な気持ちを抱き続けていたのだということに気づいた。そしてそれを隠して、できるだけ楽しげに振る舞っていたのだということにも。
「……冗談だよ、そんなことしないよ」
 昌武は目をそらし、紫色の花を眺めた。
「それに、本当のこと言うと、俺も違いなんてよくわからないんだ。でも、たぶん……あやめの方がかきつばたよりもきれいなんだと思うよ」
 綾の方をちらっと見ると、同じように杜若の花に見入っていた。怯えた表情は消えていたが、ちょっとぼんやりしているようで、何を考えているのか、昌武にはよくわからなかった。
「さあ、行こう」
 昌武はゆっくりと櫓をこいで、橋の下を離れた。綾は、今度はもうはしゃがなかった。昌武は何かとても大事なものをなくしてしまったように、胸が痛むのを味わっていた。
 ぎい……ぎい……と、櫓がゆったりきしむのにつれ、軽やかな水音が立ち、舟の後ろへ澪を引いていく。次の橋が近づいてくると、ようやく綾は顔を上げて昌武の方を振り返った。昌武も少し気持ちが軽くなって、ぎこちない微笑みを返した。
「あや殿……いや、あやめは、兄弟はいないのかい」
「いるけど、でも、みんな都にいるの」
「都に……」
「ええ、私まだ会ったことがないの。みんな母さまが違うのよ」
「そうなんだ、それで、あやめの母さまは……」
「綾の母さまは、私を生んですぐに死んでしまったの」
 昌武は父母と祖母、それに三人の兄弟と一緒に暮らしている。その自分と比べてみて、綾の言葉に少なからず衝撃を受けた。もしかしたら綾は、自分が想像していたのよりずっとさみしい思いをしてきたのではないだろうか。
「……でも、お父上は優しいんだろ、あやめに」
「ええ、とても……でもね、私が父さまの言うことに背くと、とてもお怒りになるの」
「ひどく叱られるの」
「うん……いいえ、そうじゃなくて、ひどく無口になって、ご機嫌が悪くなるの」
 昌武は二、三度見かけたことのある綾の父親の顔を思い出し、それが重苦しくこわばっているところを想像してちょっと身震いした。
「今日、黙って外へ出てきてしまって、お父上はやっぱり怒るだろうか」
 綾の肩が目に見えてうなだれた。昌武はまた余計なことを言ってしまったことに胸の中で舌打ちした。それから、自分は綾にとってよくないことをしてしまったのかもしれないという後悔の念に取りつかれて、また黙り込んでしまった。
「たか様、また橋をくぐって見せて、ね」
 綾がことさら明るい声を上げて間近に迫った橋を指さした。昌武は気を取り直してうなずくと、この橋をくぐったらすぐに引き返そうと心に決めて、櫓を取る手を握り直した。初夏の陽はまだまだ高く、川面を渡る風は二人の頬にやさしかったけれど……。

「ちぇっ、なんだい」
 昌武は川岸の草の上に寝そべって、父の言った言葉を苦々しく、何度も繰り返し噛みしめていた。
 そもそも身分が違うのだ。相手は都の……何と言ったっけ、何位だとか言ってたけど、ちぇっ、そんなこと知るもんか。いくら都のおおきみ様が偉いお方だって、その家来だったらただの人間じゃないか。
 こちらはたかが田舎の豪族だ。とてもそんな無礼をしてすまされるものではない、だって。ふん、子供のけんかに親は出ないものだって言ってたのは父上じゃないか。もっとも、けんかなんかじゃないけど……。昌武はふと、けんかという言葉に引っかかった。……あのぐらいの言い合い、けんかの内に入らないよな……。
 昌武は起き上がり、またあの、綾と舟をとめていた橋のたもとを眺め、その時の光景を心に描いた。
 本当にあれは、悪いことだったんだろうか。もう二度とあんなことはできないんだろうか。あやめは、どうしたろう。父上の話しぶりじゃ、あやめの父さんはすごく怒ってるみたいだ。家を抜け出したことを、後悔してるんじゃないだろうか。俺は、あやめに悪いことをしたのかな……。
 綾殿はな、……綾殿じゃない、あやめだよ、……お前なんかと遊んでいられるお方ではないのだ。いずれは都へ上って位の高い人の妃になるお方なのだから、……だから何だってんだ、いつも窮屈そうにしてるから、ちょっと息抜きさせてやろうと思っただけじゃないか。もう誘い出したりしなきゃいいんだろ、それにどうせ……。
 いずれは都へ、という言葉が苦く喉元に引っかかった。さっきからずっと昌武を苦しめているのは、本当はその一言のようだった。
 ふいに、長兄のいたずらっぽい顔が浮かんで、綾殿にちょっかい出すなんて、昌武もやるじゃないか、と軽口を叩いた。
「うるさい、ばかやろう」
 昌武は怒鳴って、ばねのように跳ね起きると、橋とは反対の方へ向かって駆けだした。

 やがて杜若の季節は去り、暑い夏が来た。去年までは魚取り、水遊びを毎日欠かすことのなかった昌武が、今年はどこか元気がなかった。時々八つ橋のたもと辺りに来ては、ぼんやりと物思いにふけっていることもあった。
 もう、ひと月以上も綾の姿を見ていなかった。父や兄の言葉が刺のように引っかかって、綾の近くへ行こうとする足を重くしていたのだった。昌武は思い悩んだあげく、やっと綾の屋敷まで行ってみることにした。
 屋敷の生け垣のそばまで来ると、中庭から女たちの呼び交わす声が聞こえてきた。明るい陽光の中でそれは、軽やかに快く響いていた。昌武は胸をときめかせながら、生け垣に添って裏手の方へ回っていった。
 突然視界が開け、女たちの談笑する光景が昌武の目に飛び込んできた。昌武はぎゅっと胸が絞られるように苦しくなった。談笑する輪の真ん中に、綾がいた。
 ふと綾の目がこちらへ向き、昌武の視線と合った。綾の目がびっくりしたように丸くなった。昌武は自分でもなぜそうしたのかわからずに、くるりと背を向け、生け垣を離れた。昌武はそのまま早足で歩き続け、どんどん屋敷を離れていったが、そのうちに苦い怒りのような、自分でもよくわからない気持ちが胸にこみ上げてきた。
 笑っていた。楽しそうに話していた。あの屋敷の中で、あやめは幸せなんだ。俺とは別のところにいるお姫様なんだ。俺なんかが変なお節介することはなかったんだ……。
 昌武はそんなことばかりを一心に思い詰めたまま歩き続け、いつのまにか八つ橋のたもとまで来ていた。あの日の幻がまだ消えない橋の風景は、彼の心を締めつけた。
 昌武はそれ以来、綾の屋敷の辺りには近寄らないようになった。時たま、綾が乗っていそうに思われる車が通り過ぎるのに出くわすと、急いでそばを離れた。そして、遠くからならいつまでも未練げに見送っているのだった。
 夏が過ぎ、秋風が立ち、空の雲はいよいよ高くなった。そして気になる噂が昌武の耳に届いたのは、野分の吹き始める頃だった。綾が、病で伏せっているというのであった。
 やわらぎかけていた胸の痛みが、また彼をしっかりとつかまえてしまった。昌武は再び綾の屋敷の回りをうろつくようになり、八つ橋のたもとへ来てはもの思いに沈んだ。
 雨が降り込めたり、風の吹きすさんだりする晩など、床に一人伏している綾の姿を思い浮かべると、とてもいたたまれなくなって、思わず外に飛び出すこともあった。そして、ある嵐の夜、綾の屋敷まで行った昌武は、とうとうその生け垣を乗り越えた。

 昌武は寝所の近くかと思われる辺りまで来て、立ち尽くしてしまった。
 俺は、何をしようというんだろう。また余計なお節介をしているだけじゃないんだろうか。あやめが病気だからって、俺が会いに行って何になるっていうんだ……。
 吹き降りの雨の中で、のら犬のように濡れそぼったまま、昌武は唇を噛みしめて、重く閉ざされた雨戸をじっと見つめていた。雨は冷たく、体は冷え切っていたが、それでも胸の中の焼けつくような思いは少しも消える気配がなかった。
 あやめに、会いたい。昌武は、初めてはっきりと心の中でその言葉を形にした。そうだ、俺が会いたいだけなんだ。そして、あやめの笑う顔が見たい。
 昌武は留め金がはずれたように雨戸へ駆け寄り、手をかけた。しかし、雨戸はしっかりとはまっていて、動かない。体をあずけるようにして揺さぶり、大きな音を立てすぎたかと思って手を放し、そんなことを何度か繰り返したあげく、昌武はがっくりと雨戸にもたれかかった。
 雨が横から吹き付けて、ばらばらと戸板を叩く。昌武は途方に暮れてしばらくそのままじっとしていた。その時、がたりと雨戸が動いた。はっとして昌武は身を引いたが、すぐ目の前に一寸ほどの隙間が開いて、ぼんやりと白い影が中からのぞいていた。昌武は息を詰めてその影を見きわめようとした。その耳に、かすかに震える声が聞こえた。
「たか……様、なの」
「あやめ……か」
 昌武も、綾も、信じられないというように口をつぐんでお互いを見守っていたが、ようやく、綾が雨戸を押し開きながら言った。
「中へ入って」
「いや……」
「いいから」
 言われるままに、昌武は笠と蓑を脱いで中へあがった。床が濡れるのを気にする昌武を、綾は引っ張るようにして自分の寝所へと連れていった。
 几帳をかけまわし、雪洞に小さく灯りをともした床の傍らで、二人は向かい合って座ったまま、目を伏せがちに黙っていた。言いたいことがたくさんあったような気がするのに、なぜ何も言葉が出てこないのだろう。昌武は自分の不器用さがこれほど恨めしいと思ったことはなかった。
「あたし、あたしね……」
 もうこらえきれないというように、綾が口を切った。はっと昌武は目を上げた。綾の瞳が、潤んでいた。
「さみしかったの」
 突然、綾は昌武の方に身を投げ出してきた。昌武はうろたえて、綾を抱きとめ、自分の腕の中に顔をうずめるようにして泣きじゃくる少女に、ごめんよ、ごめんよ、と小さな声で繰り返した。繰り返しながら、昌武は自分が綾の気持ちを全然わかっていなかったことに気づいた。
「ううん、ちがうの」
 まだ半分泣き声ですすり上げながら、綾は身を起こしてかぶりを振った。
「ほんとは、うれしいの。たか様が来てくれて、うれしくて泣いちゃったの。ごめんなさいね」
 綾はにっこりと微笑んで、昌武を見上げた。昌武はどれほど自分が綾の笑顔を見たくて、綾に会いたくて、このときを待ちわびていたか、胸が痛くなるほどにわかった。昌武は初めて自分から綾を抱きしめ、その髪を愛しく撫でた。言い訳や、慰めの言葉や、数え切れないほどの言葉が胸にこみ上げ、彼の口をついて出ようとした。しかし、昌武はそれらをみんな噛みしめて飲み込んでしまい、そのかわりに、綾の額にそっと唇を押しあてた。
 いつまでもそうしていたかったが、何か急に気恥ずかしい気持ちが湧き上がって、昌武は綾の肩に手を添え、体を引き離した。その時になってやっと、彼は綾が病気なのを思い出した。
「寝てなくて大丈夫なのかい」
「ええ、平気よ」
 目元の涙をふき取りながら、綾は笑った。
「でも病気なんだろう」
「たいしたことはないの、それに、たか様が来てくれたから、もう元気になったわ」
「寝てなくちゃだめだよ、さあ」
 綾はそれ以上逆らわず、素直に昌武の言うことを聞いた。床に入り、心配そうに見下ろす昌武の顔を、嬉しそうにじっと見守っている。
「もうだいぶよくなってきたんだね。いつ頃起きられそうなの」
「明日にでも、大丈夫よ」
「無理しちゃだめだよ。治りかけが大事なんだから」
「わかりました、たか様」
 昌武は照れて笑いながら、もっと気の利いたことが言えればいいのに、とじれったく思った。
「今は、山の紅葉がきれいなんだ。見頃なうちに外に出られたらいいね」
「見たいな……。ね、たか様、そしたらまた一緒に連れていってくださる」
「うん、でも、それは……」
「だめなの」
「君のお父上が……」
「父さまのことなら、心配いらないわ。だからお願い、約束して」
 綾は昌武の方へ手を差し出し、小指を伸ばした。昌武はためらいながら、自分も小指を伸ばし、それにからませた。綾の顔がぱっと明るくなった。
「もう、そろそろ行くよ」
 昌武は立ち上がった。
「また来てくれる」
「うん、きっと」
 起きあがろうとする綾をとめて、昌武は足音をしのばせ、こっそりと屋敷を後にした。

 すぐにもよくなりそうな口振りにもかかわらず、綾はなかなか床を離れることができなかった。紅葉の季節が終わっても、まだ外出することができないでいた。
 昌武は機会を見ては綾の寝所を訪れ、そしてとりとめのないことを話しては帰っていった。
「ねえ、最初の晩にたか様がいらしたとき、ずぶぬれだったでしょう」
「うん」
「床が濡れてるのを見つけられちゃって、なんて言い訳したと思う」
「さあ……」
「のら猫がずぶぬれでかわいそうだったから、上げてやりましたって」
「のら猫かあ」
「それでまた父さまを怒らせちゃったわ」
「ははは」
「しいーっ」
「しいっ」
 綾の身の回りを世話する年老いた女房だけは、昌武の存在に薄々気づいている気配だったが、その老女は一度も騒ぎ立てるようなことがなかった。綾の力になると思って、わざと見逃してくれているのかもしれなかった。
 幸せな日々が過ぎていった。冬が来て、雪が降り、そして年が明けた。暖かくなれば、きっと元気になる、と二人で話しながら、春風の到来を待ち受けていた、そんな矢先のことだった。

 ある晩、いつものように生け垣を乗り越えようとした昌武は、暗がりからいきなり棒で殴られ、丸まって地べたに転がった。
「こら、頭の黒いのら犬め、ここをどこだと思ってるんだ」
 屋敷で使われている若党のようだった。昌武は身を低くしながら起き上がり、様子をうかがった。相手は一人で、しゃにむに打ちかかってくる気配はない。それでもこう騒ぎになってしまっては、屋敷に入れない。やむなく、昌武は若党に背を向けて逃げ出した。
「これに懲りたら、二度と来るな」
 若党の怒鳴り声を後ろに聞きながら、昌武は自分の行動が露見したことを悟った。
 昌武の勘は当たっていた。それから何度となく綾の屋敷へ忍び込もうとしてはみたのだが、見張りの目を出し抜くことはとうとうできなかった。
 そればかりか、昌武の父へもそのことが伝えられたらしく、何度も長々と説教をされた。兄も今度はからかおうとせず、あきらめるようにと真顔で忠告するのだった。
 待ちこがれていたはずの春風は、昌武の心にからみつき、かえって気持ちを重くさせるばかりだった。いつかは別れなければならない時が来る、それはわかっていたつもりだった。ただ、綾のことを考えると、もう一度だけでもいい、そばに行ってやりたいと思うのであった。
 綾の病は、回復するどころか、かえって重くなっているという話だった。昌武は思い詰めて、屋敷の門の前に立ち、綾に会わせてほしいと頼んだが、取り合ってもらえるはずもなく、さんざんに殴られて放り出されてしまった。
 桜の花が咲き、そして散り、風も空の色も明るさを増していった。青葉が若々しく繁り、流れる水の面に映えるようになった。また、あの季節が巡ってこようとしていた。
 ようやく咲き初めた杜若の花を眺め、もの思いにふけっていた昌武の心を、決定的な衝撃が襲った。綾の父が、都へ上るというのである。しかも、今度はもう当分こちらへは来ないので、綾も一緒に連れて行くだろうというのだ。
 昌武はそれを聞いた時、八つ橋のたもとまで来て、泣き出してしまった。泣くなどということを、彼は子供でなくなった時にやめてしまったはずだった。泣きながら、男らしくないぞ、と思った。それでも、涙は止まらなかった。

「綾が、死んだ……?」
 兄は昌武から顔をそむけたまま、うなずいた。
「どうして、……どうして」
 涙声で、息を詰まらせながら兄は言った。
「夜中に、屋敷を抜け出して、八つ橋まで行ったらしい。まだ体も丈夫になっていなかったのに……。橋の欄干が一か所、腐って折れていた。それで過って川へ落ちたのだそうだ……」
 昌武は焦点の合わない目を兄の顔に向けていた。
「川岸に流れ着いたのを、今朝見つけた時にはもうこときれていた。……杜若の花に寄り添うようにして、それはきれいだったということだが……」
 昌武には何もかも信じられなかった。今にもつぶれそうな苦しい胸から、まるで他人の声のように、言葉を絞り出していた。
「あやめ……が、流れ着いたのは、川のどこ」
「八つ橋の、いちばん南の橋のたもとだそうだ」
 昌武は何も言わず、いきなり走り出した。
「おい、どこへ行くんだ。待て、あの親父がお前のことをひどく怒っているというぞ。今見つかったら何をされるかわからんぞ、おい、たか……」
 引き止めようとする兄の声は、まったく昌武の耳に入らなかった。昌武の心は決まっていた。どうなってもいい、もう一度綾を見たかった……。
 屋敷の前まで来ると、人々が集まってがやがやと何か話していた。昌武はそれをかき分けて門の前に立った。怖い顔をした若党が棒を持って突っ立っていた。
「あの」
 ぎろり、と若党は昌武をにらみつけた。
「あやめに……綾殿に、ひと目、お別れがしたいんです」
 若党は口を開かずに、棒を振り上げて昌武を追っ払おうとしたが、そのとき門の内から一人の侍が現れ、若党を制した。若党は一瞬抵抗する素振りを見せたが、侍ににらまれると棒を納め、硬い表情になってそっぽを向いた。
「通れ」
 侍に促され、昌武は門の中へ足を踏み入れた。侍が指さした方へ歩いていきながら、彼の胸にふといやな感じが湧き起こった。
「悪く思うなよ、小僧」
 はっとして振り返ったときは、きらめく白刃が彼の上に振り下ろされようとしていた。辛くもそれをかわし、昌武はもう何も考えずに逃げ出した。
 侍は抜き身を引っさげたまま、追ってきた。奥庭の方へと逃げながら、二度斬りかかられたが、必死でそれもかわした。しかし、生け垣を乗り越え、外へ飛び出そうとした時、とうとう肩から背中へかけて、焼けつくような一撃が走った。もうだめだ、と昌武は転びながら思った。しかしそれでも立ち上がり、また走り出した。そして……。

 少年は傷ついていた。よろける足でようやく川岸までたどり着いた。そこには一面に杜若の花が咲き乱れていた。少年はその中に踏み込んでいった。泥に足を取られ、花の茎を踏み倒しても気がつかぬように。
 八つ橋へ。そのことだけを少年は思っていた。八つ橋まで行けばいとしい人に会える。それは一人の少女だ。遠い昔に橋のたもとで幻となって、今はそこだけに生きている……。
 少年は振り返る。追われていることを思い出し、また歩きだす。どうしてこんなことになったのか、もう彼は考えない。ただ背中に負った傷の痛みが、彼を追い立て、彼を眠りの中に誘い込もうとする。
 そして少年は、泥の中に倒れ、動かなくなった。
 ぎい……。ぎい……。
 一艘の舟が、ゆっくりと近づいてきていた。乗っているのは旅人らしい一行である。誰も皆、川辺の杜若に見とれていた。
 櫓の音がやみ、そしてやがて少年の耳に、どこか遠くからやさしい人の声が聞こえてきた。
「からころも……きつつなれにし、つましあれば……はるばるきぬる、たびをしぞおもう……」
 ほう、という賛嘆のため息を聞いたように、少年は思った。
 か……き……つ……ば……た……。
 突然少年の目から、涙があふれ出てきた。なぜ自分が泣くのか、誰のために泣くのか、もう少年には分からなかったけれど、涙は後から後からあふれて、いつまでも止まらなかった。

(了)


文庫蔵へ戻る