海人

 海の表面は異様に黒ずんでいた。重苦しく湿気を含んだ風が飽くことなく波を押し揉み、灰色に波頭を逆立てて狂おしく吹きすさむ。一葉の小舟がそのただ中で翻弄され、生きた心地もなく漂っていた。万に一つも助かる見込みはない。舟底にへばりついた舟子たちの顔色は紙のように血の気を失っている。
 ほんの半刻ばかり前にはごくおだやかな表情を見せていた海がいきなり訳のわからない荒れ方を見せ、その圧倒的な変貌ぶりは、この海に慣れ親しんでいたはずの舟子たちの魂をどこかへ飛ばしてしまっていた。そして彼らは今、それよりもなお信じがたい光景を目の前にして、丸く見開いた目を舟の舳先へ釘付けにしていた。
 波に突き上げられて山なりに上下する舳先には、一人の女が立っている。二尺に余る黒髪を吹き狂う風になぶらせ、今にも舟ごと飲み込もうというかのごとく、底知れぬ深みをたたえる暗い海面をのぞき込むように。女が身にまとっている白い着物は波のしぶきに濡れ、しなやかにのびた肢体にぴったりと張りついている。やがて女は懐中から一振りの短刀を取り出すと鞘を後ろへ投げ捨て、抜き身を口にくわえたと見る間もなく、宙に身を躍らせていた。遠い沖で海鳥が翼をひるがえすのを見るように、奇妙にゆっくりとした速度で女の白装束が舞い落ちていく。波の上に降り広がったときにはすでに、それはただの抜殻となっていた。
 波間に漂う白い衣に魅入られていた男たちが我に返ると、あれほど猛り狂っていた海はいつのまにか嘘のように静まりかえり、どんよりとした灰色の海面をゆったりとうねらせているばかりだった。

 すでに海女は肺呼吸を停止していた。海中に潜って数分、巧みに隠蔽されていたエラがその機能を回復していた。左右の腋下に二列に並んだ、一見それとはわからない水の取り入れ口、それがこの海女の秘密であった。それ自体不思議な生物のように開閉する水門は、まだゆっくりと動きながら排水口をも兼ねていた。海女は変化を待っていた。水中で敏速に活動しうるだけの酸素を供給するためには、その形態ではまだ不十分だったのだ。
 回遊魚の群が海女のすぐそばをかすめるように泳ぎ去っていく。鈍い銀色のきらめきは上を振り仰げば灰緑色の空の波の中で無数の黒い影であった。海上の嵐はやんだようだ、と海女は見て取った。するとやはりあれは−。疑念が胸をよぎったが、それを振り払おうとするように、海女はさらに潜行を続けた。
 海女の体内機構は確実に変化を遂げつつあった。肺胞はすでに五分の一ほどに収縮し、浮き袋としての役割をとどめているに過ぎない。それによって減少した分の体積をほぼ完全に回復したエラが占め、新鮮な海水を循環させはじめていた。腰椎に至る排水道が復元され、一方通行となった水流ははじめの非能率を解消し、それに加えて排水口からの噴出による推力をも獲得している。

 水深五十メートル。五倍に増した水圧が海女の体内に蔵された変成機構を発現させ、彼女の体型を徐々に変形させていった。皮膚は全体にずんぐりと平滑化したところで表面が半ば角質化し、半透明の鱗におおわれたようになる。大きくその形態に変化が見られたのは頸部を中心とした辺りで、もはや繊細な曲線の変化はなく、単純に柔軟性をもった構造が取って代わっている。
 しかし何よりも不可欠であったのは下肢の変化である。筋肉が異常に集中したかのようにそれはたくましくなり、さらに先端ではもはや地上歩行に要した形態を全くとどめず、幅の広い複雑な二枚のヒレと化していた。内部の骨格は完全に特殊で、それは哺乳類にも魚類にも似ず、まるで変成の中間形態で固定してしまったかのように、間接のはっきりしない鞭のようなしなやかさを有していた。
 比較的変化の少なかったのは上肢だが、それでも肩から腕へと連なる辺りはきれいな流線型を示し、下膊部にはやはり薄いヒレが生じていた。
 顔面は奇妙に平坦になり、形状の意味を失った鼻や耳の突出部はほとんど消失している。そのかわりに角膜を肥大させた眼球がほとんど半ば近くまで突出してきていた。
 髪の毛は、それ自体に変化はなかったが、濃い粘液が分泌されて全体をおおい、互いの粘着力で弾力のある構造となって巨大な背びれ状のものを形成していた。その残りは体表に張りついて細かなスリットとなり、表面に生じる水流による抵抗を減少させていた。

 水深百三十メートル。もはや辺りはほとんど夜の暗さであった。しかし、この海底の冥暗の中で海女の目は超低周波帯の電磁波に感応して視力を保持していた。それに加えて側頭部に復元された数条の側線が微妙な水流、水圧の他に超音波を捉えている。生身の人間には訪れることのできない、この豊かな音と色彩に満ちた世界を海女は知悉していた。こここそが彼女の故郷だったのだ。
 海底の地形は驚くほどに複雑である。海流の浸食と泥の沈殿によって奇怪に築かれた起伏の間を、海女はゆっくりと移動していった。頭の中には細密な地形と水流の図が描かれていく。前方に何者かの気配を察して、海女は動きを止めた。
 柔らかな泥を巻き上げて、それは静かに巨大な図体をもたげていた。動きを半ば停止したまま泥煙の中に潜んでいる。泥魚であった。凶暴ではないが相手にするとやっかいなことになる。迂回しようとして、海女は重大なことに気づいた。泥魚ががんばっているのはまさに彼女が目指している洞穴の入り口の前なのだ。避けて通ることはできなかった。
 海女の決断は素早かった。目にもとまらぬ速さで海女は真一文字に突き進んだ。うろたえた泥魚が身じろぎし、泥煙があっという間に辺りを包み込んだ。一呼吸置いて小さな影が煙の中を抜け出した。短刀が右の手にぎらりとひらめく。海女の体はほとんど垂直に上昇した。真下には泥魚の巻き起こす水流が激しくうねっている。尾ビレのひと叩きで海女の体はぐしゃぐしゃになるだろう。泥魚は海女を追って身をくねらせ上昇しようとした。しかし三度重ねられた素早いフェイントが一瞬、泥魚の巨体のバランスを崩した。そしてその時すでに海女は目指すところにおらず、死角に回り込んだ方から急所への一撃が繰り出されていた。露出した神経を切り裂かれた泥魚は音にならない悲鳴を上げ、激しく身震いするとめくら滅法に泳ぎ去った。しかし狂った泥魚の動きは海女にも予測しがたかったのだ。一枚のヒレがかすめただけで海女は左の腕をへし折られ、海底の岩塊の上に叩きつけられていた。

 気の遠くなるような痛みの中で海女は身を起こし、のろのろと泳ぎはじめた。玉を手に入れるのだ、なんとしても。もはや周囲の様子など海女の頭の中にはなかった。その一念が海女を奇怪な洞穴の中へと導いていった。ゆっくりと海女の全身にからみついてくるものがあったが、それさえ海女にはなんの思考も呼び起こさない。
 複雑に曲がりくねった洞穴の奥に、意外なほど大きなドーム状の空間があった。海女はようやく目指してきたところへたどり着いた。しかし、海女は呆然と目を見開き、絶望に全身を凍りつかせた。玉を納めた巨大な貝は、その口を固く閉じていた。
 次第に意識が遠のいていくようだった。無駄だった、何もかも。海女の胸に我が子の面影が浮かんだ。ごめんね、坊や。一人にしてしまって、ごめんね。ああ、ここでは死ねない。もう一度、あの子に会いたい。
 不意に、海女は自分の状態のおかしさに気づいた。痛みが感じられない。それは海女の全身を包み込むようにまとわりついている海草の仕業であった。微弱な電流で感覚を麻痺させ、眠らせてしまうのだ。海女は死にものぐるいでからみつく海草をちぎり取った。激痛がよみがえり、海女の心に気力を呼び覚ました。
 貝はぴったりと口を閉ざしている。海女は貝の後ろに回り込み、つがいの隙間に刃をねじ入れた。ぎりぎりときしむ音がし、貝は強い抵抗を示した。少しずつ合わせ目が開いていく。わずかな隙間からきらりと目を射る光が漏れた。手をのばせば、そこに玉がある。しかし、海女の左手はだらりと垂れたままだ。そのとき、ばさりと海女の髪の毛が逆立ったかと思うと、それは生き物のように貝の口へと滑り込み、一瞬のうちに光り輝く玉を盗み取っていた。ばたりと貝の口が閉じる。海女は後をも見ずに玉を抱いて洞穴の出口へと泳ぎ去った。
 異様な気配を感じ取り、海女は動きを止めた。巨大な影が出口の向こうに待ちかまえていた。傷を負い、凶暴に冷たく目を光らせた泥魚であった。
(あきらめろ、ミル)
 超音波の周波数帯で話しかけてくる声があった。
(リウ……)
(なぜこんなことになったんだ)
(私がばかだったわ。陸の人間にあこがれたりして。でもどうしようもなかった。子供ができたのよ。あの子は水の中では暮らせない。あの子のためにこの玉が必要なの)
(もう遅い。泥魚を怒らせてしまった。俺でも止められない)
(私は行くわ。泥魚は死んだものには近寄らない)
(ミル、まさか……)
(さよなら)
(やめろ、ミル)
 海女は短刀をおのれの乳の下へ突き立て、えぐるように我が胸を切り裂いた。その傷口へ玉を押し込め、ぐったりと力を失った海女の体がゆらゆらと穴の外へ漂い出ていく。泥魚は動かなかった。
 すうっと青黒い影が近づいてきた。慈しむように海女の体を捧げ持ち、しばらく何事か念じていたが、やがて一つになったまま、海面へと向かって静かに浮かび上がっていった。

(了)


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