「能研事始め」(昭和37年〜41年)

 昭和37年
 有馬、学習院大学に入学。筧先生の倫理学の講義で「宝生会」に誘われ、稽古に参加する。
 当時「宝生会」は先代の前田先生に師事してはいたものの、筧先生のほかには大学職員の原島氏らのみで、学生部員はおらず、愛好会としては有名無実の存在と見られていた。
 有馬は祖父が加賀宝生の職分だったことから、稽古場の外書講師控室につい顔を出してしまい、抜けるに抜けられなくなってしまった。

 昭和38年
 有馬、内田ら友人を誘って部員を増やす。

 昭和39年
 この頃、文化部の常任委員会では、実態のない愛好会を整理すべきという意見が出て、その整理の対象に真っ先に挙げられていたのが「宝生会」だった。
 当時別のクラブにも籍を置いていた内田は情報をキャッチ、有馬は「宝生会」存続をかけて動き出す。
 当時、女子部には金春流のサークルがあって、高等部時代に習っていながら、大学に入ると稽古をやめてしまう人が多かった。
 筧先生の勧めで、有馬は女子部から進学してきた一ノ瀬(現・柳田)らを誘い、二流派合同のクラブを作ることにする。
 また、同じ年に入学して、中国文化研究会のホープと目されていた橋本寿一をスカウト、新しいクラブの立ち上げに当たっての協力を要請。
 橋本は期待に応えて手腕を発揮、常任委員会に掛け合って愛好会としての存続を認めさせた。
 その頃「宝生会」には部室はおろか、ロッカーさえもなく、「スカイサウンズ」に頼み込んでロッカーを半分使わせてもらい、それでクラブの存在を証明しなければならないというような有様だった。
 ともあれここに、宝生と金春が一緒になって活動するという、学生ならではの新しい古典芸能サークル「学習院能楽研究会」が誕生した。

 昭和40年
 名称も新たに、部員も増えて、実質的な活動を開始した「能研」であるが、今度は愛好会から同好会に昇格しようという希望が芽生える。
 同好会になると3万から5万円の予算を貰うことができるが、そのためには同好会の幹事会で承認されなければならず、また、いくつもの条件をクリアする必要があった。
 同好会として認めてもらうには、しっかりと活動していて、会報なども発行している必要がある。
 橋本が中心になって、活動計画を立て、合宿の計画書も作って提出、また会報として「松風」を創刊した。
 こうして万全の態勢を整えて臨んだ幹事会への申請だったが、しかし同好会への昇格希望は他にもあり、能研は惜しくも選に漏れてしまう。
 内田によればこれは当時「華道部」にも在籍していて、幹事会のメンバーであった某氏の裏切りに会ったというのだが……。
 能楽研究会の看板は、特別に安倍能成先生にお願いした。板も墨も吟味したものをご自宅へ持参し、揮毫していただいた。
 これは先生の絶筆と言ってもよい貴重なものである。

 昭和41年
 「能楽研究会」はついに同好会として認められた。
 部室も始めは鉄研の脇の小部屋からスタートしたが、新しい建屋に移ることができた。
 最初はクラブの財産が全く無い状態で、常任委員会に掛け合って活動費を貰い、スチール机や能楽全書、謡曲大観を購入した。
 そしてこの年卒業していった有馬たちからも、仕舞用のうすべりが記念として贈られた。
 練習を中心に、ゼミ活動もあり、合宿などの行事を行ない、会報を発行する。
 現在の能研の活動の基本型は、この初期の段階ですべて形が整えられていたのである。

 (敬省略)
 →→(能研四十年史へ続く?)

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