金太郎先生の能(1) 「山姥」
金太郎先生の能で最も鮮烈な印象を残しているのが、この「山姥」である。その直前に同門会で自分が仕舞をやっているからということもあるが、とてもそれだけで説明できるような代物ではない。これから私の書くことを誇張と思う人も多いだろうが、少なくとも私の心の中に起きた出来事としては、掛け値なしの事実である。
さて、「山姥」は大曲である。善光寺に参ろうと山路を行くツレを中心に長い場面があり、そこへ前シテが現われる。このツレは「山姥の曲舞」を得意とする女芸人なのだが、前シテの里女はそれを知っていて、本当の山姥の姿を見せてやろうと言って姿を消してしまう。ここまでが前半。つまりその里女こそ実は山姥で、正体を現わすのが後半ということになる。
一生忘れられない瞬間は、その後半の冒頭に訪れた。後シテの登場の囃子が緊迫感を増し、幕が揚がる。シテが出るぞ、とこちらも目を凝らして幕際を見守る。深く揚げられた幕の奥の方は暗がりになっていて、シテはなかなか姿を見せない。その時だった。橋掛りに稲妻が走ったのだ。
山の上で悪天候に遭ったことはあるだろうか。あるいは飛行機に乗っていて雷雲に突っ込んだ事は。電光が直接見えるのではなく、雲の内側から明滅する光、ちょっとあんな感じである。それは鏡の間から舞台の方へ向かって、その中間の橋掛りを束の間震わせて横切って行った。
一瞬自分の目が信じられなかった。もちろん光そのものが見えたのではないことはわかっている。目には見えない何かが、しかしはっきりとリアルに感じ取れたのだ。呆然としてまだ暗がりの奥を覗かせている揚げ幕の辺りを見守っている私の視野に、一呼吸置いてようやく後シテが姿を現わした。大きな山姥だった。
これは演技論とか技術論とかの及ばない世界である。第一、シテはまだ姿を見せていなかったのだ。その時金太郎先生が何をしたのか、客席から見ることのできた人は誰もいないのである。囃子方の力は確かに重要だが、それだけで生まれたものでないことは実感としてわかっている。強いて言うならば「気」としか言いようがあるまい。確かに幕の奥から発せられた何かの「気」が、物理的な実在に匹敵する存在感で私の目に焼き付いたのだ。
さて、「山姥」の仕どころの一つがクセの中の「金輪際に及べり」というところである。これは私もあらかじめ知っていたので一番楽しみにしていたが、十分に見応えがあったという印象以上のものは残っていない。例の稲妻一発でお釣が来るというものだが、しかしこの時の「山姥」はそれだけでは終わらなかった。
私が「山姥」の仕舞を習ったとき、一番難しかったのが「塵積もって山姥となれる」というところである。これは辰之先生にも大事なところだからと言われた。脇正へサシたところからヒラいて拍子を一つ踏むだけなのだが、ここで山姥の本体に変わらなければいけないというのだ。ヒラいた手を収める時にぐっと身を起こすような気持ちにして、まあまあ合格になったが、金太郎先生はここをどう舞うのか。
脇正へサシたところまで、私も知っている型のとおりである。当り前だが、仕舞の型付けはそのまま能で舞えるようになっている。ところが次の瞬間私は訳がわからなくなった。シテの姿がぐずぐずと崩れたように見え、その跡に残った形をなさない堆積の中から、またむくむくと湧き上がるような感じで山姥が再び現われたのである。
この時ももちろん金太郎先生は座り込むとか、おかしな型をやった訳ではない。確かにヒラキをしたようなのだが、それがどうもよくわからないという感じで、今だに不思議なのである。これを超高度なパントマイムの技と見ることは可能かもしれないが、私はそれとは次元の違うものではないかと思っている。
さて、こんなものすごい舞台があったこと、あなたは信じてくれますか?