金太郎先生の能(2) 「黒塚」

 「黒塚」は私にとって縁の深い曲だ。舞台となる安達ヶ原は、私の出身地である福島県。謡も習ったし、仕舞も人のを見て覚えた。もちろん金太郎先生の能も見ている。それも一度だけではない。少なくとも2回、客席からと、楽屋からも見た記憶がある。楽屋から見た時というのは、たしかどこかの学校のための能楽鑑賞公演だった。
 「黒塚」は特に名作とされているわけでもないけれど、学生の鑑賞に向いた、バランスの取れた曲だと思う。じっくりした場面もあり、はでな見せ場もあり、比較的退屈しないで見ることのできる能ではないだろうか。特に間狂言はユニークで、従者の能力が女の閨をのぞくという物語の展開に欠かせない場面を一人芝居で演じる。こんな風に演劇として見ても首尾一貫した構成を持っている能は少ないのである。
 シテが鬼で、ワキと対決する能でも、例えば「土蜘蛛」や「紅葉狩」などと比べて「黒塚」が優れているのが、前場の糸繰り車を回すところである。「糸」づくしの謡の聞かせ所から女の孤独を浮き彫りにするところまで、いかにも能らしい表現である。どこが能らしいかというのは難しい問題なので、まあ、そのためにこういう実例を挙げて回りくどい話をしなければならないのだが。
 金太郎先生がこの場面を演じたとき、私はやや脇正面よりの席から舞台を見ていた。糸繰り車を前に座り、「月も差し入る閨の内に」とやや面を上げた時、そこには実に鮮やかに月の光が描き出された。田舎のあばら屋の、つっかい棒で支えるような窓や、秋の冴え冴えとした空気、板の間の煤けた色まで感じ取れるような気がしたものである。記憶を美化していると言われればそれまでだが、あの瞬間のはっとした感覚は、これでもなお伝わらないのではないかと思う。
 さて、これは客席から見たときのことだが、鑑賞教室のときは楽屋でお手伝いをしていたので、また違うところが印象に残っている。その時私は揚幕の竹竿を握って緊張していた。揚幕を揚げるときは、正座して竿を持ち、シテの「お幕」という声を合図に揚げる。この時、最初から手前へ引き揚げると被り物に引っかけたりするので、一度幕際でいっぱいに揚げてなるべく高い位置を手前へ引き揚げるようにする。そして何より重要なのは、幕揚げにも位や序破急があるということだ。
 後シテの鬼女がすぐ側に立ったとき、その迫力たるや物質的な圧迫感を感じるほどであった。幕の向こうでは囃子が緊迫した鋭い音を響かせている。こちらも自然に気合いがのって、竹竿を掲げて浮かし、シテの気配に意識を集中する。「おまーく!」という鋭い声が聞こえ、ごく自然に勢いをつけて幕を引き揚げている自分がいた。前シテの時とは明らかに違う「お幕」の声に込められた、金太郎先生の確かな位取りのおかげだった。
 迷惑をかけることもあったが、楽屋のお手伝いは本当にためになることが多かった。そういう機会を与えていただいたことに感謝しているし、もっと積極的に勉強すべきだったと後悔もしている。

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