金太郎先生の能(5) 「弱法師」
「弱法師」という能は私の中で、「奇跡の人」という映画と結びついている。ヘレン・ケラーの少女時代を描いたモノクロの映画を、テレビの名画劇場で見たのは中学生の頃だろうか。クリスマスツリーに飾られたガラス玉が落下し、音もなく割れる冒頭の映像が衝撃的で、鮮明に記憶している。
「弱法師」もまた、一つの奇跡を描いた能である。弱法師は盲目の身で親に捨てられ、四天王寺の境内で人の情けにすがって生きている。息子を捨てたことを後悔して探し歩いている父親との再会がこの能の筋立てになるのだが、クライマックスは別の所にある。
弱法師は仏の救いを求めて、日想観を日課にしている。西に沈む太陽を心の中にイメージする瞑想法だが、その頂点で弱法師は完全な世界を観る。その歓喜が爆発する瞬間こそこの能のクライマックスであり、これと、ヘレンが水の名前を理解し、世界を獲得する奇跡の瞬間が私の中で重なるのである。
しかし、奇跡の直後に弱法師は見えない群衆に突き当たり、惨めに転んでうずくまる。これが現実であり、あの奇跡の瞬間はうつろな幻想に過ぎなかったのだろうか。否、という強烈な声がこの能の中から聞こえてくる。
「弱法師」という能に、昔は弱法師の妻が登場したこともある。現在の演出は余分なものをそぎ落とした末の姿であり、能が最高潮に高まる歓喜の瞬間こそが真のテーマであることが、舞台の上に明確に表現されている。そして、そこにこそ能楽全体を特徴づける美学もある。
前置きがずいぶん長くなったが、金太郎先生の「弱法師」も、やはりすばらしい舞台であった。桜間会の囃子はほぼ決まっていて、このときも笛が藤田大五郎、小鼓が鵜沢寿、大鼓が安福春雄というレギュラーメンバーだったはずだ。
「一声」という囃子に導かれるように、シテの弱法師が橋掛かりを歩んでゆく。その囃子の音楽自体は他の能でも演奏されるありふれたものなのに、私はまぎれもなく、これが「弱法師」という能なのだ、と、感じていた。能の「位」というのは、このことなのだろう。
この時の囃子に込められていたものを分析することはできない。ただ言えることは、部分的な演奏のテクニックによるものではない、ということだ。「弱法師」という能の姿が全体としてあり、非常に明確な意志をもってその流れを表現できる芸を持った人がいる、ということである。
さて、現実の奇跡の人、ヘレン・ケラーも奇跡のあとにはやはり厳しい現実と戦わなければならなかったはずだ。かなり後になってから、テレビの特集でヘレン・ケラーのドキュメンタリーを見た。日本の障害者福祉のために尽力してくれた人であるということを、その時初めて知った。