能役者列伝(一)一忠

 能を大成したのは観阿弥と世阿弥の親子ですが、この二人だけでゼロから能を作り上げたわけではありません。やはり手本とする先輩や芸を競い合うライバルたちがいたからこそ、あれだけ高度な舞台芸術を完成させることができたのです。
 「風姿花伝」を初めとする世阿弥の伝書や、世阿弥の次男元能が父親の芸談を記録した「世子六十以後申楽談儀」には、そういう優れた能の役者(世阿弥は役者とは言わず為手と言っています)が何人か登場します。この能の創成期を彩るいずれも魅力的な役者たちについて、多少は想像も交えながら紹介していきたいと思います。

 さて、現在能楽を伝えている諸流派はいずれも、観阿弥世阿弥が属していた大和猿楽の系統を汲むものです。しかし、世阿弥が生きていた頃にはそれ以外にも近江猿楽、丹波猿楽、田楽などの座が数多く存在し、盛んに能を演じていました。それらはそれぞれに個性的な芸風を持っていたのですが、意欲的な役者は猿楽と田楽の違いや芸風の違いにはこだわらず、むしろよい所をどんどん取り入れて自分の芸に磨きをかけていったのです。
 一忠は田楽の本座で活躍し、当時「この道の聖」(能の神様、という感じ)とまで言われていた名人でした。観阿弥は彼を「我が風体の師」(自分の芸の手本)であると息子の世阿弥に語っています。中でも特に鬼神の物まねがすばらしかったというのですが、その一方で、鬼の物まねは大和猿楽の得意芸であるとも世阿弥は言っています。元々大和に伝統のある鬼の芸を田楽からわざわざ学ぼうというのは、つまりそれだけ一忠の芸が洗練された魅力的なものだった証拠でしょう。
 一忠の芸を学んだのは観阿弥だけではありません。道阿弥もまた一忠の弟子であったと世阿弥は語っています。道阿弥というのはいずれ改めて紹介しますが、またの名を犬王という、近江猿楽の天才的な能役者です。ここで不思議なのが、犬王の芸風というのは実に幽玄無上で、得意とするのは天女の舞、鬼の物まねなどは決してしそうにないということです。一方観阿弥が得意とするのは変幻自在の謡とこまやかな物まねでした。
 観阿弥と犬王という、対照的な個性を持つ二人の天才が揃って一忠を手本にしたということは、彼らが学んだものが単なる表面的な技術だけではなかったことを物語っているように思われます。強いて言うならばそれは、対象の本質をしっかりとつかんで演技することそのものだったのではないでしょうか。なお付け加えると、二人が一忠に学んだとはいっても、弟子入りして教えてもらったのではなく、彼の舞台を見て芸を盗んだということだと思います。
 さて、一忠は観阿弥よりも先輩に当たります。観阿弥が生まれたのがちょうど鎌倉幕府の滅亡した頃ですが、一忠が活躍したのは南北朝の前半だったらしく、世阿弥は彼の舞台を直接見ることはできませんでした。一忠の芸については、京極の道与(道誉)や海老名の南阿弥から話を聞いて想像したと語っています。京極道誉というのは有名なバサラ大名であり、南阿弥というのは今で言えば作曲家兼プロデューサーのようなことをしていた人です。ところで京極道誉は世阿弥が十二歳かそこらの時に亡くなっていますから、世阿弥が彼から一忠の話を聞いたのはまだほんの子供の時だった計算になります。

 「一忠の話が聞きとうございます」
 灯火の傍らに端座した少年の凛とした涼やかな声に、入道は目を細めた。その物言いも話題の取り方も、まるで年頃の子供には似合わぬものだった。普通の大人であれば、何とこまっしゃくれた童かと嫌悪を催すだろう。しかし入道にとってはそういう子供離れした、打てば響くような才気と勘のよさこそが魅力であった。京極道誉、バサラ大名と異名を取り、老齢となった今もその魁偉な容貌と底知れぬ目の光には人を圧する迫力がある。それをこの少年は全く臆することなく、真っすぐに見つめてくる。幼さゆえの無知からではなく、己の身一つで貴賎の群衆を相手に立たねばならぬ猿楽の者の意地を、その年で確かに身につけているのだ。道誉は含みのある笑みを浮かべ、遠くを見るような目付きで記憶の中にある一忠の舞台を物語り始めた。

 とまあ、こんな情景であったかどうかはわかりませんが、その話を聞いた世阿弥は一忠を「しやくめいたる為手」と伝えています。この言葉の解釈には定説がないのですが、個人的には「曲めいたる」という字を当てられないかと思っています。面の曲見の「曲」であり、くせがある、といったようなニュアンスです。

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