能役者列伝(二)喜阿弥

 前回紹介した一忠は田楽本座の役者でしたが、この喜阿弥は同じく田楽のもう一つの座である新座の役者です。一忠、喜阿と田楽が二人も続いて、肝心の猿楽はどうなってるんだと思われるかもしれませんが、観阿弥が京都進出を果たすまでは実際に田楽の天下だったのですから仕方ありません。
 さて、喜阿弥は音曲の上手として名を知られていました。要するに謡がとてもうまかったわけです。その謡は元々、近江猿楽にいた日吉の牛熊という人の謡振りを似せたものだと言われていました。猿楽や田楽の垣根を越えて、いいものはお互いにどんどん取り入れていたという当時の状況がこんな所にも現れています。

 世阿弥の記憶の中の喜阿弥は初めから老人の姿をしている。事実、物心ついた頃にはすでに老齢だったのだから当然なのだが、なぜかそのずっと以前から老人の風貌を持っていた者のように思えてならない。
 あれは十二の年であったろうか。南都の法雲院で装束賜りの能に喜阿弥が出ると聞いて父について見に行った。名人と呼ばれる喜阿弥の謡がどんなものなのか、どうしても自分の耳で聞いてみたかったのだ。
 橋掛りに姿を現した喜阿弥は面を着けていなかった。麻の付け髪をしただけでごく自然に尉の姿になっている。
−昔は京洛の、花やかなりし身なれども−
 と、謡い出した尉の声は拍子抜けするほどに淡々と能の庭に流れ出た。格別力強いわけでもない、節回しが微妙なわけでもない。芯は強いがややかすれかけてつやのない声で真っ直ぐに節を通してくる。それは想像していたの
とはまるで違う、飾り気のないあっさりとした謡であった。
 能が終わっても、さしたる感銘は残らなかった。名人とは言え、老いればあのようなものか、とさえ思われた。それが、ふっと引っ繰り返ったのは夜も更けて家に帰り着き、一人になってからであった。自分は何か聞き逃してはいなかっただろうかと気になり、今日の舞台を思い出していた時、喜阿弥のしゃがれた謡の声が驚くほどの鮮やかさで蘇って来たのである。
 誰にでも出来そうな、ごく普通の節回しの中に一本の線が貫き通っている。それは幾度も思い返す度に力強く立ち上がり、汲めども尽きせぬ謡の醍醐味を味わわせてくれるものであった。

 世阿弥は後年喜阿弥についておよそこんな感じで回想しています。十二歳の少年にしては厭味なほどにませた批評ですが、申楽談儀に書かれている実話です。
 とにかく南都の法雲院で初めて世阿弥は彼の舞台を見たわけですが、喜阿弥はどうもその頃から声を悪くし始めていたらしいと世阿弥は言っています。
 当時父の観阿弥はまだ全盛期にあったようですから、喜阿弥は観阿弥よりやや年配のように思われます。ところが申楽談儀の別の所には、祇園の会の打ち合わせに喜阿弥がやって来た時のことが見えるので、これが世阿弥との相談であったとすれば、喜阿弥は観阿弥よりも長生きしたように読み取れます。観阿弥は五十二歳で没していますから、おそらく喜阿弥の方はかなりの老齢になるまで生きていたのではないかと思われます。
 私はここでいきなり桜間道雄先生のことを思い出します。その舞台を見たのは本当に最晩年の数年間だけなのですが、非常にしっかりとした舞姿が今でも目に浮かびます。ただし、声の方はいわゆる悪声で、聞き取りづらいしゃがれ声は詞章の内容も解りませんし、音程の上下も定かではないといった具合でした。ところが、その謡がまた実にはっきりとした節を感じさせてくれたというのは、今考えても不思議なくらいです。謡の本質は音の上げ下げではなく、間合いにあるということなのでしょう。私にとって謡の名人と言えばもちろん桜間金太郎先生ですが、金太郎先生の地頭で道雄先生が舞った舞台は素晴らしいものでした。

 閑話休題。
 喜阿弥について、世阿弥はこうも言っています。
 「胡銅のものを見るようなりしなり」
 これは先程の話に続けて喜阿弥の舞台姿を回想した部分です。やはり尉の出立ちで、背中には薪を背負い、橋掛りに立ってしわぶきを一つし(!)、謡い出した所が強く印象に残りましたが、その姿を見ていた世阿弥はまるで異国の青銅の器を見るような気持ちがしたというのです。まさに渋さの極致と言うべきではないでしょうか。

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