能役者列伝(三)観阿弥
お待たせいたしました。いよいよ真打ちの登場です。観阿弥清次、初代観世大夫、現代につながる能楽の系譜はこの人をもって始まると言ってよいでしょう。至徳元年(一三八四年)数え五十二歳で没したことから逆算して、一三三三年の生まれとされています。前にも述べたとおり、この年は鎌倉幕府の滅んだ年でもあります。覚えやすいので実に重宝しております。
観阿弥の事跡については、実はほとんど総てが世阿弥の著書から知られているばかりです。実の息子が書いていることですから、本当はそれなりに割り引いて考えるべきなのでしょうが、そういう意地の悪い見方をする人はほとんどありません。田楽隆盛のさなかにあって、京都での晴れがましい舞台へと進出し、時の将軍足利義満の愛顧を受けた実績、そして何より世阿弥という大天才を育て上げたことを思えば、いくら割り引いてもその偉大さに変わりはないという気持ちが強いように思えます。それに何より世阿弥の描写があまりにも説得力豊かなので、兜を脱ぐというか、敬意を表するという気分もあるかもしれません。
さて、その世阿弥による観阿弥の出自の説明はおよそ次のとおりです。
伊賀の国に、平氏の一族で服部の杉の木という人があった。その子息を宇陀の中という者が養子にしていたのだが、これが京都で妾腹に子を生ませたのである。その子を養子に貰い受けたのが、山田猿楽の座にいた美濃大夫であった。この美濃大夫の養子となった人が後に三人の子を儲ける。即ち、長男が後の宝生大夫、次男は生一、そして末の弟が観世大夫である。
えっ、よくわからなかった。ではもう一度読んでみてください。要は武士の家柄の血を引く人がいたのですが、妾腹に生まれたために家に入れられず、猿楽の家に貰われていった。その人の息子が宝生大夫であり、わが父の観阿弥なのであるぞ、ということです。ここの所は専門家でも読み方に諸説があるくらい難解な一節なので、この解釈が絶対正解とは言えませんが、私としてはこういう風に理解しています。
観阿弥の出自を世阿弥がこのように述べていることを、どう位置付けるかがまた問題です。単に事実を述べたと見るか。あるいは見栄を張るために家系を捏造したのか。真偽はさておき、この時代の猿楽は社会的にどういう位置を占めていたのか。端的に言って非差別民であったのか。世阿弥にはそういう面での劣等感があったのであろうか、等々。現在の私の感想としては、このややこしい叙述そのものが、当時の武士と猿楽との社会的距離感を表しているように思うのですが、いかがでしょうか。
余談になりますが、観阿弥を伊賀の生まれであるとする説が現在でもかなり広く流布しています。加えて楠木正成の一党と血縁であるとか、更には南朝のスパイであったとか、それが原因で観阿弥は駿河の地で謀殺されたのだとか、果ては世阿弥が佐渡へ流されたのもそのことが影を落としているのだ、等々。この説によれば観世親子は忍者の先祖扱いです。もちろん忍術使いというわけではなく、隠密的な意味でですが。その論理を展開すると、後世の芭蕉もまた隠密であって、諸国を探索するために旅をしたのだという説へ直結していきます。冗談でなく、これを大真面目に説く人がいるのです。
私はこの説を取りません。可能性がないとは思いませんが、この説の強い根拠となっているのが後世の資料であって、それはおそらく前述の世阿弥の記述を都合のいいように歪めて解釈したものであり、重視してはならないと思うからです。都合のいいように、というのはもちろん自分の先祖を武士の出であるとしたいがための改竄であり、身分に関するコンプレックスが露わに見て取れる類いのものです。
「花の碑文」という、世阿弥を主人公とする小説を書いた杉本苑子氏もまた、この説の熱心な信者です。氏によれば、そう考える方がよりロマンの広がりを感じられるというのですが、私に言わせればそのような謀略的背景を持ち込むよりも、能という芸の道に余念なくしがみつき続けた生涯の方により深いロマンを感じるのですが、皆さんはいかがでしょうか。