自己紹介

立川らく朝でございます。
私ちょっと変わった落語家です。
というのも、社会人やりながら落語家やってます。
現在、表参道福澤クリニックの院長でもありますので、現役の内科医として診療をしています。
また、メディカルサポート研究所の代表として会社を経営し、他にも本を出したり健康コラムの連載も・・・
つまり、医者・兼・落語家、そしてビジネスマン。
そこら辺のところをこれからご紹介いたします。
以下のメニューでごゆっくり御覧ください。

本名、生年月日
職業、主な公職
経歴、現在の主な活動
落語との関り
入門までの経緯
著書、連載コラム、運営するホームページ


<らく朝の公演用プロフィールと写真>
公演用パンフレットやチラシなどにご利用ください。


本名

福 澤 恒 利  

生年月日・出身

昭和29年1月26日・長野県飯田市出身

職業

・落語家(芸名・立川らく朝)
・医師(医学博士、日本内科学会認定内科医、専門は動脈硬化症)
・表参道福澤クリニック院長
・メディカルサポ−ト研究所代表

主な公職(歴任)

・厚生省HIV疫学研究班員
・労働省・職場におけるエイズ教育手法検討委員会委員
・巡回健保コンサルタント(健康保険組合連合会)
・エイズ対策企業懇話会事務局長

経歴

<昭和29年>
1月26日、大雪の日に長野県飯田市で生まれる。
<昭和54年 >
杏林大学医学部卒業。同時に慶応義塾大学医学部内科学教室へ入局。
主として生活習慣病(成人病)、動脈硬化症および予防医学の臨床と研究に従事。
専門:高脂血症(とくにコレステロール代謝)、動脈硬化症
<平成2年 > 
慶応義塾大学医学部老年科学教室に移籍
<平成3年 > 
慶応健康相談センター(人間ドック)医長兼務
<平成4年>  
慶応義塾大学を辞任。メディカルサポート研究所を設立。現在同代表。
<平成6年>  
企業のエイズ対策についての企業間の勉強会、情報交換会であるエイズ対策企業懇話会を設立。以後事務局長を兼任。
<平成10年>
4月1日、44才で立川志らく門下に客分の弟子として入門。落語家としても活動を開始する。
<平成12年>
3月30日、立川志らく門下に本来の弟子として、46才にして改めて入門し直す。かくして本格的なプロの落語家として再出発をする。
<平成14年>
11月、東京は港区、表参道の交差点に、「表参道福澤クリニック」と開設。
院長としても日々の診療にあたる。
<平成16年>
1月2日の立川流新年会において、歌舞音曲、講談を披露し、家元立川談志にその芸を認められ、4月1日、二つ目に昇進する。

現在の主な活動

<医師としての活動>
企業の産業医として非常勤で勤務する傍ら、自らのクリニック(表参道福澤クリニック)で内科医として診療を行っている。
<メディカルサポート研究所代表としての活動>
企業のエイズ対策の専門家として、企業でのエイズ対策指導、職員へのエイズ教育や研修、講演、執筆などの活動をしている。
また、エイズ対策企業懇話会の運営や、様々なエイズ関連シンポジウムのコーディネイトなどに携わる。その傍ら、健康教育に関する講演、著作および健康関連コラムの連載などもこなしている。
さらに「ご近所のお医者さん情報」というホームページを運営し、インターネットで様々な医療情報を提供するなど多方面で活躍。
<落語家としての活動>
立川志らく門下の前座として高座を務めると共に、平成10年10月から、勉強会である「立川らく朝一人会」を毎月開催するも、50回を記念に、新企画に移行。
平成15年10月から、「ドクターらく朝の 健康と癒しの落語会」と銘打って、「健康情報を笑いを交えて提供し、同時に癒しの時間を共有する」というコンセプトで新たな落語会を開始。評判を呼んでいる。

落語との関り

<子供時代>
長野県で生まれ育ったため、落語との接点はほとんどなし。ただ、ごくたまにラジオで聞こえてくる大喜利を「なんて面白いんだろう」と思った記憶がある。でもほとんど聞くチャンスすらなかった。
中学生の頃テレビで寄席中継を見るようになり、ようやく落語の魅力を知るようになる。若き日の談志師匠を初めてテレビで見たのもこの頃のこと。

<高校時代>
高校は東京の成蹊高等学校。演劇部、文芸部、美術部を掛け持ちし、芝居の稽古の帰りや打ち上げなどでは、よく制服を鞄に入れて夜の吉祥寺を飲み歩いたものだ。
土日は新宿の末広亭によく通った。今輔師匠のおばあさんを始めとして、先代柳橋師匠の枯れた芸や先代助六師匠のあやつり人形の踊りなんかを一番前で見ていた。
一度だけ末広亭での円生師匠の高座を見たことがある。演題は「角力風景」で比較的軽いネタだったが、その時の感激は今でも忘れない。その観客を引きつける強烈な力に、とにかくものすごい人だと、ただただびっくりしたものだった。
高校3年の文化祭、洒落で寄席を開いた。これが落語を演った最初。

<大学時代>
芝居がやりたかったのに演劇部がなかった。でも芝居は総合芸術で、演劇部なんてものはおいそれと創れるものではない。仕方がないので自分で落語研究会を創設した。落語は個人芸で、芝居と違って金もかからない。それに第一、落語が好きだった。
集中して落語を始めたのはこの時から。もっとも見様見真似で、後輩へは自分で落語を教えていた。当時の芸名は「雨屋鳥袖露」。
聞く方は、落研の友達とホール落語に通う。国立劇場の落語名人会や東横落語会はよく行ったものだ。本格的な名人芸を堪能したのはこの頃。今はなき名人たちの噺を聞いておいて本当によかった。
大学3年の時、私立医科大学5校で関東医科学生落語連名を創設。第1回の連名の寄席を四ッ谷公会堂で行い、トリで「明け烏」を演る。
ちなみに引退公演は三鷹公会堂で「らくだ」を演った。

<社会人になってから>
年に1回落研OBで寄席を開く。名付けて「ご縁の会」。みんないつまでもご縁が続きますようにと名付けたOB寄席だ。
3回目からは上野の本牧亭で開催。8回続いたが、ご存じの通り本牧亭が上野から移転、それまでの拠り所を無くしたOB寄席も自然消滅。ご縁の会は以来飲み会となってしまった。その後は約10年近く落語との縁はプッツリとなくなってしまう。
メディカルサポート研究所の設立やら何やらで忙しく、時間的、精神的余裕がなくなってしまい、落語を聞くこともなければ、もちろん高座に上がることも一切なくなってしまった。
平成8年12月、ある切っ掛けから立川志らく師匠の主宰する勉強会「らく塾」に入会。再び落語との付き合いが始まる。
以後の経過は、「入門までの経緯」を御覧ください。

入門までの経緯

<入門を決意するまで>
いつもそうだったのだが、一定以上酔っぱらうと「俺はなぜ落語をやっていないんだ」という自問自答が始まった。
酒で理性が薄れ抑制が取れた時、やりたいことを成し得ていない自分を責めるもう一人の自分が現れて、しきりに耳もとで囁くようになった。
「落語やれよ。いったい何やってんだよ。」
そんな時に出会ったのが、立川志らく師匠の「らく塾」。志らく師匠の落語理論を聞いたり実技(落語)をしたりという、月1回の落語好きの集まりである。
入会して約1年後、「やっぱりプロでやりたい」という思いはますます強くなる一方。ついに意を決して、志らく師匠に入門を申し込んでしまった。平成10年3月のことである。

<ついに客分の弟子となる>
しかし入門を申し込んだとはいえ、もはやまともに前座修行ができる環境ではない。カミサンも子供もいて、しかも年令が44才という中年のオジサン。今さらねえ
・・・、である。
最初は「とても無理ですよ」というのを「そこを何とか」と食い下がった。ここで断られたら、もうプロへの道は断たれたも同然である。
ついに志らく師匠の厚意で「じゃあ客分の弟子ということで落語を教えましょう。」ということになった。
「プライベートレッスンということで月謝を取ります。そのかわり前座修行は免除します。でも高座に上がれる保証はありませんよ。それでいいですか?」
もう願ったり叶ったり。「是非宜しくお願いいたします。」というわけで、ようやく「客分の弟子」ということで入門が許された。
「でも、入場料を払ってくれるお客さんを自分の落語で呼べれば、それはもう実質的にはプロと同じこと。今はもうアマチュアもプロもない時代ですよ。だから頑張りなさい。」
こう言ってくれたあの時の志らく師匠の言葉、今でも覚えている。

<立川らく朝の誕生>
入門は平成10年4月1日。
客分の弟子だなんて、師弟関係の厳しい落語界で滅多に許されることではないのだが、
これも全て志らく師匠の厚意によるもの。
当時の私の語り口が志ん朝師匠に似ていた(別に真似していたわけではないのだけれど)ことから、志らく師匠の「らく」と、志ん朝師匠の「朝」をいただくことになって、「らく朝」となったというわけ。
考えてみれば誠にもったいない話で、素晴しい名前をいただいたもの。

<プロとして再入門>
2年近く「客分の弟子」として、楽屋やら客席やらホールのベンチやら、時には高座やらと、落語会場の周辺に何となく存在していた私。でもその間にネタ数は50を越え、師匠から「客分の弟子だけど、そろそろ二つ目に」と言っていただいた。
ちょうどそんな頃、立川企画(立川流の事務所)の社長から、「もしその気があるのならプロでやってみないか」というお誘い。つまり希望すれば、本来のプロの弟子としての入門を許可しましょう、ということ。師匠もそのことに反対はしていない。
さあ、迷った。もちろんプロでやれる道が開けたのだから、これは当然喜ぶべきことには違いない。しかし・・・
「好きな道だ、やれるところまでやりたい気持は山々なれど、今更なあ。今の仕事と両立できるのかしら。いくらなんでもキツ過ぎるよなあ。どうしようかなあ。」
3ヶ月も返事をしないで悩んでた。そんなある日師匠から
「あ、そうそう、そういえば、あの話どうするの?」
ほとんど立ち話。心の準備もできていないまま、反射的に
「お願いします。」
なんと衝動的な決定をしたものか。でもいつも心のどこかで、「やれ、やれ」と誰かが叫んでた。その声に、きっと逆らいたくなかったのだと今では思ってる。
人生は人智では計れない可能性を秘めているもの。なまじ小賢しい決定をするより、こうなったら衝動に身を任せてみるのも一つの選択だと、かなり無責任な言い訳をして納得。46才の春でした。
まあ、とにもかくにもそんなわけで、平成12年3月30日に晴れて(?)プロとして再入門させていただいた。
それにしても、この年齢のおじさんを弟子にしてくれようというのだから、本当に有り難い話。
社長や師匠の気持を裏切ることのないよう、これからも稽古に精進しなくてはと、日々思っている。
<二つ目に昇進>
その後、平成16年1月2日、立川流新年会の席上で、歌舞音曲(小唄、都々逸、端唄、日本舞踊、講談)を披露、立川流家元の立川談志師匠から「よし、合格だ」のお言葉を頂戴し、晴れて二つ目昇進のご許可をいただいた。
同年4月、新宿の明治安田生命ホールにて、二つ目昇進の披露目の会を開催。
その後、「ヘルシートーク」、「健康落語」に続き、「健康一人芝居」を開始、また落語と新内と鳴り物とのコラボレーション「お染金蔵恨桟橋(改作品川心中)」をかけるなど、懲りることなく様々な新分野に挑戦を続けている。
皆様、こんな私ですが、今後とも宜しくお願いいたします。

主な著書
  ・外国で安心して医者にかかれる本(主婦と生活社)
  ・怪我と病気の英会話(新星出版社)
  ・熱く語る・企業のエイズ対策(エフエー出版)
  ・職場でのエイズ対策(分担執筆、財団法人産業医学振興財団)
  ・AIDS職場での取り組みQ&A(東京都)
  ・エイズパンデミック(翻訳/分担執筆、日本学会事務センター)
  ・一笑健康(春陽堂)
  ・笑えば治る 立川らく朝の 健康ひとり語り(毎日出版社)

連載コラム

   ・立川らく朝の 健康落語で元気に生きる
    日刊ゲンダイ(土曜版、月1回)にて。
   ・ドクターらく朝の 健康一人語り
    毎日ライフにて。
   ・らく朝のヘルシートーク裏話
    保健婦雑誌(医学書院)にて。連載終了。
   ・ドクター福沢の見える救急箱
    テレビ朝日データ放送(ADAMS)にて。連載終了。
   (一部ですがホームページでも公開しています。)
   
・健康いろはカルタ
    医事通信(日本医療事務センター)にて。連載終了。
   (一部ですがホームページでも公開しています。)

運営するホームページ

・ご近所のお医者さん情報
 医院や病院を専門分野など詳細な条件で検索できる超人気サイト。

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