清く正しく美しく?
「わたし、アリオスといっしょにべんきょうするの!」 そう言っていたのは、小学校にあがったばかりの頃。 学年はひとつ違いだったけれど、早生まれだった私と、 お隣のアリオスとは二つ違い。 もっとも、年の差なんてものは埋まるはずがなくて、 あれあれっという間にアリオスは高校生になって、 中学生の私から見たら、すごく大人になったみたいで。 アリオスが、とても、とても遠くに行ったように思えていた――― はずなのだが。 「……アリオス」 「あ?」 困ったように青年の名を呼んだ少女に、窓の外を眺めていた彼は 心底面倒くさそうに顔を上げた。 見上げた視線の先で、栗色の髪がさらりと揺れる。 夕日のさし込む、図書室の一角。 机の上には一応教科書とノート。 もちろん、アリオスには何ら興味のないものではあったが。 まったくもってやる気のない幼馴染にアンジェリークは 深深と溜め息をつくと、軽くアリオスを睨みつけた。 「もー、アリオス、ちゃんと勉強してよ。 これで単位落としたら、また留年なんだから。 ただでさえ出席日数だって危ないのに」 「俺は別に気にしちゃねぇけどな」 本当に気にしていないのだろう。 軽く肩を竦め、口元には笑みさえ浮かんでいる。 「私が気にするの! せっかく―――」 言いかけて、少女は慌てて口を噤んだ。 その顔がみるみる赤く染まっていく。 「何だよ」 「…何でもない」 「何でもないって顔じゃねぇだろ」 クッと喉を鳴らし、真っ赤になって目をそらしたアンジェリークを 追いかけるように、その顔を覗き込む。 羞恥に僅かに潤む紺碧の瞳に、涼やかな翡翠の双眸が意地悪げに笑った。 「『せっかく一緒に卒業できると思ってたのに』か?」 「――――――っっ!!」 図星ど真ん中をつかれて図らずも硬直する少女にくつくつと 肩を揺らせて笑い、掠めるようにその唇を奪う。 彼女はさらに硬直し―――――― 「ア…アリ……!」 羞恥と戸惑いと混乱のために開きかけた口は、次の瞬間、 アリオスの大きな手のひらによって塞がれてしまった。 「おっと、ここは図書室だぜ。大声出すなよ」 まるで彼女の行動を読んでいたかのような、絶妙のタイミング。 実際、読んでいたのだろ。 浮かべた余裕の笑みからはその事がありありと分かる。 少女は慌てて言葉を飲み込み、上目遣いで青年を見上げた。 アリオスは彼女が落ち着いたのを確かめて、そっと手を放す。 その手を、恨めしげな瞳が追いかけた。 「…アリオス、誤魔化したって駄目なんだから」 ぷぅっと頬を膨らませ、拗ねた口調で訴えかけるアンジェリークに、 アリオスはふふんと鼻を鳴らした。 「誤魔化してるのはおまえだろ。認めろよ?」 「それとこれとは話が別ッ!」 そう少女は否定するも、顔が赤くては説得力など砂粒ほどの大きさもない。 しかし、どうだかというツッコミはあえて口にはしなかった。 アンジェリークがまたもや大声を出すだろうと言う事は、 目に見えて分かっていたので。 「ま、俺が勉強すればおまえは文句ないんだろ」 「う…うん…」 頃合を見計らってアリオスが口を挟むと、 アンジェリークは戸惑いながらも頷いた。 「だったら条件付でしてやるよ。 俺ばっかりが拘束されるのはワリにあわねぇしな」 「…じょ、条件って…」 ニヤリと口元を歪めたアリオスに、アンジェリークは思わず身体を引いた。 嫌な予感がする。 いや、嫌な予感というよりも、今まで積んできた経験の賜物というべきか。 その様子に、アリオスがおかしそうに口を開く。 「想像ついたか?」 「あ、あの…もしかして?」 「もしかしなくても、もしかするだろ」 その確信犯の笑みに、その余裕の口調に。 アンジェリークは悟った。 ああ、やっぱり、と。 紡がれる声は、どこまでもおかしそうに。 「やらせてくれたら、おまえの言うように勉強してやってもいいぜ」 聞こえてきたセリフに思わずクラリときた。 ―――アンジェリークのために断わっておくが、靡いたわけではない。 けっしてない。 勝手に薄れそうになる意識を何とか留めて、彼女は声を絞り出す。 「アリオスのケダモノッッ」 「男はみんなケダモノに決まってんだろ」 アンジェリークの渾身の一撃をあっさりと受け流すと、 アリオスは肘をつき、アンジェリークを見つめた。 「で、どうする、アンジェ」 夕日を受けて茜色に染まる彼の銀髪と、不思議な輝きを放つ 翡翠の瞳は、それだけで相当の威力があるのだろうが、 アンジェリークは靡かなかった。 大きな海色の瞳を精一杯吊り上げ、(図書室なので)小声で叫ぶ。 「どうするって、駄目に決まってるじゃないっ! 第一、前もそんなこと言って、結局勉強しなかったでしょうっっ!」 「ああ、あったけな。そんなこと」 「アリオスッッ」 …どうやら以前にも同じような事があったらしい。 言うアリオスもアリオスなら、承諾するアンジェリークもアンジェリークである。 「もう絶対騙されないんだからっ」 口を尖らす少女に、アリオスは残念だとばかりに首を振った。 「そうは言うがな、アンジェリーク。 俺としては随分我慢してるんだぜ?」 「が、我慢?」 ついそう聞き返してしまいたくなるほど、 いろいろされてきたアンジェリークである。 「ここ最近は特にお預けされまくりだし」 「ええっ!? だ、だってアリオスッッ…」 わざとらしく深い溜め息をついた青年に、 アンジェリークはしどろもどろに訴えた。 「アリオス、バイトあったし…、それにテスト勉強だって……」 すでに一人暮しをしているアリオスは毎日バイトをしていて、 その上ここ10日ほどはテストが近いと言うことで、 二人きりと言うことさえほとんどなかった。 一緒にいられないのは寂しかったが、仕方がないと思って 諦めていたのだが、アリオスはそうではなかったらしい。 もごもごと口を動かすアンジェリークをアリオスはしばらく 見つめていたが、やがて面白そうに翡翠の双眸を細めた。 「ならこう言うのはどうだ」 「え?」 不思議そうに顔をあげた少女に、深く笑う。 「俺がおまえよりも高得点を取ったら、おまえが俺の言うコト聞くって言うのは?」 「……」 言われた言葉に、アンジェリークは前回のアリオスの成績を思い浮かべた。 2年163人中159番。 ……散々である。 ちなみに、アンジェリークは3番。 その差、実に156。 何をされるか大体の想像はつくが…これだけ開きがあれば 抜かれるという事はまずないだろう。 それにこの事でアリオスがちょっとでもやる気を出してくれれば、 アンジェリークとしても嬉しい。 「…うん。いいよ」 数分間悩んだ末、アンジェリークはこくんと頷いた。 そのときアリオスの瞳が妖しく輝いたのだが、 もちろんアンジェリークが気付くはずもなかった。 気付くようなら、絶対に頷きはしなかっただろう。 「あーあ、相っ変わらずだねぇ、あの二人」 近くの席から見ていたオリヴィエが呆れたような溜め息をついた。 「本当、微笑ましいですね」 「…リュミエール。それは本気で言ってるのか?」 「何か不都合でも?」 「……いや、いい」 本当に不思議そうに言ってくる級友に、オスカーは疲れた顔で首を振る。 聞いた自分が馬鹿だった。 アリオスと元同学年の三人には、今のこの時期、 期末よりも入試の追い込みの時期になる。 図書室で勉強していたところに、たまたま二人のやり取りが 聞こえてきたのだった。 彼らは小声で話しているのだろうが、周囲にはバレバレである。 しかも先刻のキスシーンも3人はしっかりと目撃していた。 苦笑するしかない。 …いい加減にしろバカップル。 額に青筋浮べて、彼らがそう思ったかどうかは定かではないが。 「しっかし、あいつもなんつー、ムボーなカケをしたんだか。 学年3位のお嬢ちゃんに最下位のやつが勝てるわけないだろうに」 今だジャレあう二人 ――アリオスが一方的にアンジェリークをからかっているだけなのだが―― を視界の端に捉え、オスカーが呆れたように言った。 「…あれ? オスカー知らなかったの?」 「何がだ」 瞳を軽く見開いて見つめてくるオリヴィエに、形のいい眉をしかめる。 「アリオスは学校始まって以来の好成績で入学したんですよ?」 リュミエールの言葉にオスカーはさらにきつく眉を寄せ、低い声でつぶやいた。 「マジか?」 「ウソ言ってどーすんのさ。それに…」 言葉を切り、オリヴィエは二人を半眼で見やる。 「勝てない賭けをあのオトコがするわけないでしょーに」 「…確かに」 そして、その賭けに勝ったアリオスが恋人に何をさせるか、 手に取るように分かってしまう。 そうとも知らず、罠にかかった無垢な天使に同情しつつ。 オスカーは呆れとも感嘆ともつかない溜め息を零した。 テスト終了から数日後、廊下に張り出された順位表に アンジェリークは本気で目を疑った。 アリオスの名前がないないと探しまわった末に見つけた 彼の名前は、一番端にあった。 それも最後ではなく、最初に。 そして、その二つ後に自分の名前。 「………」 目をしかめてみても、視界にあるものは変わらない。 試しにごしごしと目を擦って、何度か瞬きを繰り返してみたが、 やはり変わらない。 どう見ても、アリオスの名前はトップにある。 「…え、と?」 「よう、アンジェリーク」 思わず首を傾げたところに、笑みを噛み殺したような声がかかった。 「! アリオ…っっ!」 声が引きつる。 慌てて振り向いたその先で、予想通り、アリオスが 唇を吊り上げるようにしながら笑っていた。 「…あの、えと…その……」 しどろもどろに、それでも何とか言葉を紡ごうとする 少女にはかまわず、彼は順位表に視線をやった。 そして一番最初にある自分の名前に、当然だとばかりに鼻を鳴らす。 「カケは俺の勝ちだな、アンジェリーク」 見下ろす翡翠がニヤリと危険な笑みを浮かべた。 「ア…アリオ、ス?」 アリオスが言わんとしている事を、瞬時にアンジェリークは理解した。 してしまった。 理解などしたくもないにも関わらず。 緊張のあまり、こくんと喉がなる。 この状況を何とかしたいのだが、身体が思うように動かない。 まさに、ヘビに睨まれたカエル。 背筋を冷たいものがだらだらと流れ落ちていく。 賭けなんかするんじゃなかったと思っても、後の祭。 これまでの経験上から逃げ腰になっている少女の腕を掴み、 優しく―――けれど、有無を言わさない強さで引き寄せる。 どくどくと、服ごしにさえ伝わってくる少女の鼓動にふっと笑い、 アリオスは彼女の赤く染まった耳元に小さく告げた。 『それ』を思い起こさせるように、甘く、掠れた声で。 彼女にだけ聞こえるように。 「カケの代金はちゃんと支払ってもらうからな」 それはもう―――たっぷりと。 さらに顔を赤くしたアンジェリークに、アリオスはクッと肩を揺らせ、 その柔らかな頬に軽く口づけたのだった。 |
タチキさま、ありがとうございました〜! 終始ラブラブな2人にワタクシとっても喜んでおります(笑) 学園もので『教師と生徒』『先輩と後輩』などの 設定はお任せします、とリクエストしたところ そのどちらでもない新鮮な2人を書いてくださいました♪ アリオスさんできるのにやらない人だったのですねぇ。 …アンジェの為だけに留年してそう。 |