Rain

その日は朝からあまりいい天気とは言い難かった。
だが昼近くになって多少なりとも晴れ間が覗いたので、アンジェリークはこのまま
晴れてくれる事を願いながらいつもの場所へと向かった。



足取りも軽く、緑の草原を駆ける。
そこに一本だけある大きな木が見えてくると、アンジェリークの顔に自然と笑みが浮かぶ。
だが、そこに探す人物を見つける事は出来なかった。
「……?」
キョロキョロと周囲を見回してみても、やはり誰もいない。
「…アリオス、来てないんだ…」
明らかに落胆を滲ませ、少女は木の幹にもたれ掛かった。
いつもなら、彼は今の自分と同じように木にもたれて空を見上げているのに。
「何か用が出来たのかな…」
ふうと息をつき、彼女は目を閉じた。
――いつもはアリオスがしている事を、今日は自分がしている。
そう考えるとなんだか楽しくなってくる。
待っていればそのうちやってくるだろう。
幸いにも今日の夕方は何の予定も組んでいない。時間はたっぷりとある。
多少遅くなっても大丈夫だろう。
そうアンジェリークが考えた時。
冷たいものがぽつんと頬にあたった。

雨の降る中、アリオスは傘をさして歩いていた。
ちょっとした野暮用でいつもよりだいぶ遅れてしまった。
アンジェリークは待っているだろうか。
いや、きっと待っている。
少女の事だ。自分が行くまでいつまでも待ち続けるに違いない。
それを思い、彼はふっと口元を歪める。
ぱっと見た目では分からない。
けれどとても幸せそうな微笑。
木が、見えて来た。

アリオスは視線をあげ、アンジェリークの姿を探す。
彼女は確かにいた。
いつも自分がそうしているように、約束の木と呼ばれる大樹のその下で。
――雨の中、傘もささずにたたずんでいた。
「アンジェリーク!!」
驚いて名を呼ぶと少女は弾かれたように顔をあげ、嬉しそうに笑った。
「アリオス」
柔らかな声が青年の名を紡ぐ。
「何やってんだおまえは。ズブ濡れじゃないか!」
少女の目前まで足を運び、その姿を一目見たアリオスは呆れたような
溜め息とともに苦々しく呟いた。
「うーんと、アリオス待ってたら降って来ちゃって。傘を取りに帰ろうかなとも思ったんだけど、
 その間にアリオスが来たらなんか悪いかなって」
アンジェリークの返答はひたすら軽い。
「…あのなぁ、風邪ひいたらどうするんだ?」
「大丈夫よ。私、身体だけは丈夫だもの」
無邪気に笑う少女にアリオスは、深く、深く溜め息をつき、片手で顔を押さえた。

そういう問題ではない。
それにそれだけの問題でもない。
彼女はまったく分かっていない。
指の隙間からちらりと少女の視線を送る。
肩より少し長い髪は水気を含んだ事で艶を増し、頬や首筋に流れる水滴が少女を
奇妙なほど艶やかに見せている。
その姿は一見無垢でありながら、女としての彼女を際立たせている。
一瞬本気で目を奪われた。

「とにかく」
本心を悟られないように注意しながら、低く告げる。
「それ以上に濡れる前に帰れ。送ってってやるから」
「…え…」
「…なんだよ」
ショックを受けたらしい少女にアリオスは眉根を寄せ、聞き返す。
「帰るの…?」
「…おまえなぁ」
これ以上そんな格好を目の前でされたら、こちらの理性がもたない。
「だって、せっかくアリオスに逢えたのに。もっともっと一緒にいたいよ…」
「そう思うんなら傘の準備くらいしとけよ?」
「…こんなに降ってくるなんて思わなかったんだもん…」
肩を落とし、少女は訴える。
「…部屋につくまで話くらいできるだろう」
「ついたらすぐに帰っちゃうじゃない」
「しょうがないだろうが」
いくらもうその気がないとはいえ、自分の姿を見れば守護聖達が警戒するのは目に見えている。
その所為でアンジェリークに逢えなくなるなど、どうしても嫌だった。
かと言ってこのまま少女を濡れたままで居させようものなら、風邪を引きかねない。
気落ちした様子でうつむいているアンジェリークを見やり、アリオスはそっと息をついた。
気乗りしないが、仕方ないだろう。
このままでいるよりは数倍ましだ。

「…おまえ、俺の部屋に来るか?」
とたん少女は勢いよく顔をあげ、瞳を輝かせた。
「! いいの?」
「いいも悪いも、このままで居る訳にはいかねぇだろうが」
「うんっ、ありがとう!」
嬉しそうに、心の底から嬉しそうに、アンジェリークがうなずく。
その笑顔が曲者なのだと、アリオスは胸中で溜め息をつく。
こんな顔をされて、いやだと言える奴がいるわけがない。
もしいるのなら、心の底から見てみたいと思う。
「ほら、さっさと行くぞ」
少女の小さな身体を傘の中に入れ、アリオスはゆっくりと歩き出した。
どうなっても知らないぞと、内心そんなことを思いながら。
そんな青年の心中を知ってか知らずか、少女は無邪気に青年の腕に自分の腕を絡ませて来た。
――…気付いているはずがない。


アリオスに連れられてアンジェリークがやって来たのは、入り組んだ細い路地の奥にある小さな建物だった。
外見からするとどうやら宿らしい。
「…アリオス、こんなところに住んでたんだ」
「まぁな」
アンジェリークを雨のあたらない軒下に入らせると、アリオスは傘をたたみ、脇に置いてあった
傘立てにやや乱暴に立てかけた。
木製の扉を開けるとすぐに食堂になり、奥のカウンターでは初老の老人がコップを磨いていた。
彼は二人の存在に気付くと、口元に温和な微笑を浮かべた。
「おかえり、アリオス。どうした、随分早いじゃないか」
「成り行きだ。悪いがタオル貸してくれないか?」
「ああ、かまわんよ」
彼は一度奥に引っ込むと、すぐにタオルを数枚携えて戻って来た。
「サンキュ」
アリオスは僅かな笑みを浮かべてタオルを受け取ると、そのやりとりを背後で何やら
呆然と見ていたアンジェリークを振り返った。
「何やってる、行くぞアンジェ」
「…え、あ、うん…」
有無を言わさず腕を引っ張られて、アンジェリークはよたよたとその場を後にした。

部屋に入るなり、アリオスはアンジェリークにシャツとタオルを渡し、バスルームへと放り込んだ。
流れる水音に意識を向けないように心掛けながら、今日幾度目かの溜め息をつく。
本当にまったく、この少女は自分をどれほど迷わせれば気が済むのか。
他のヤツラの前でもあんなに無防備な行動をしているのかもしれないと思うと、気が気ではない。
――襲われたって文句は言えねぇぞ、あのバカッ!
いらいらと胸中で毒づいた時、バスルームのドアが開き、アンジェリークが顔をのぞかせた。
「もういいのか?」
「うん。ありがとう、アリオス」
ぱたぱたと近寄ってくる少女に彼はまた溜め息をつく。
まるで子犬に懐かれているようだ。
しかも違う意味でかなりキケンな。
…まずった。

彼は内心頭を抱えた。
アンジェリークが今着ているものは男物のカッターシャツ。もちろんアリオスのものなのだが、
その中でも大きいものを選んだので、随分アンジェリークが小さく見える。
丈も普通のミニスカートくらいはあるだろう。
色は―――黒。
風呂上がりに白はちょっとマズイかも知れないと思い黒にしたのだが、これはこれでまずかった。
シャツの色の所為で、アンジェリークの肌の白さが際立ってしまっている。
…本能を煽る事この上ない。
ふと、アンジェリークが笑みを零した。
「どうした?」
尋ねると、彼女はまた笑う。
アリオスはいぶかしげに眉を寄せた。
「うん、あのね」
くすくす笑いながら少女は言った。

「アリオス、こういう服持ってたんだなーって」
「…どういう意味だ?」
「うーん。だって、アリオスいっつも同じ服だし、他の服って見た事なかったから」
「…あのなぁ…」
思わず半眼になり、呆れたように少女を睨みつける。
「俺だって服くらい持ってるぞ」
「それは分かってるけど、何か新鮮だなぁって」
相変わらずクスクスと笑っていたアンジェリークは、ふと気付いたように小首を傾げた。
「何でアリオス、私と逢う時いっつもその服なの?」
彼はふぅと息をつき、アンジェリークへと僅かな苦笑を向けた。
「おまえと初めてあった時、これだっただろ」
そう言うとアンジェリークはふんわりと微笑んだ。

「しかし、それにしても、…本当にぶかぶかだな」
分かってはいたが、改めて認識するとなんだか滑稽に見える。
アンジェリークは困ったように、そしてはにかむように笑った。
「それはそうだけど…でもね、アリオスに抱きしめられてるみたいで、なんかほっとするの」
「……」
絶句。
思わずくらりと来た。
眩暈がする。
どうしてこう、この少女は、人が必至になって抑えようとしているものをいとも
簡単に粉々にしてくれるのだろう。
いっそ見事だと言うほかない。

「アンジェリーク。ちょっと来い」
「? なあに?」
疑いもなく近寄って来た少女の細い手首を掴み、アリオスはアンジェリークを見上げた。
僅かにイラ立ちを滲ませた金銀妖眼(ヘテロクロミア)が彼女を捉える。
「おまえな、他のヤローの前でンな事言うんじゃねぇぞ」
アンジェリークはどういう意味かと聞き返そうと口を開きかけたが、それは果たせなかった。
ふいに足を引っ掛けられ―――えっと思った時にはベッドに押し付けられていた。
こういう状況をなんと言っただろうか。
まだどうも分かっていないらしく、きょとんと見上げてくる瞳を見返しながら、アリオスは告げる。
「おまえは無防備過ぎるんだよ」
「え…と、アリオス?」
「こういう状況でああいうこと言うとどうなるか、今から教えてやる」
意味ありげに唇を指で撫でられ、ようやくアンジェリークは理解した。
一体、自分がどういう状況に置かれているか。
「えっ、あの、ちょっ…アリオスッ。ちょっと待ってっ」
顔に朱を昇らせ、慌てて青年の腕から逃れようとするが、彼はびくともしない。
それどころか、アリオスはいつもの口調できっぱりと告げた。
「待ったナシ。おまえが悪い」
はっきりあっさり言われ、彼女が図らずも硬直してしまったのをいい事に、
アリオスは少女の唇に自分のそれを深く重ねた。

結局その後、アンジェリークが部屋に帰れたのは、黄昏も迫る頃だったらしい。

                                              〜fin〜
                                           (01.02.12. written)


タチキ様からいただきました!
無邪気にアリオスを誘うアンジェが可愛くて
しかたがありません(笑)
そしてやっぱり本人に自覚はないんですね。
何気にアリオスさん、アンジェに振りまわされてる?(笑)
素敵なお話、本当にありがとうございました。




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