step by step ?


身体に馴染んだヴァイオリン。
すでにメロディーも指が覚えている。
後はそれに気持ちを乗せて、彩りを添える。
だけど、走り過ぎないように。
普段なら感情最優先で演奏するけれど、今だけは別。
音の正確さと旋律の表現、感情のバランスを大切に。

最初はそんな計算は面倒臭くて好きじゃなかったけれど
さじ加減を覚えれば、これはこれで楽しくなってきた。
多分ウィーンに留学している良きライバルの影響だと思う。
コンクールを通して色々なタイプの演奏者に出会えた。
色々な人からアドバイスをもらってきた。
コンクール前には触れる機会もなかったヴァイオリンを
自在に歌わせることができるようになるのは純粋に楽しかった。


香穂子は演奏を終えると審査員達に一礼をした。








春に無事コンミスを務め、最高学年になった今も相変わらず音楽漬けの毎日。
今度は一人で学外コンクールに出ることになった。
音楽を続ける気はあるけれど、順位付けにさして興味がない
香穂子としてはあまり乗り気ではなかったのだが、
ある人物のおかげで選択肢はなかった。
渋々自分のレベルを知るにはいいかもしれない、と思い直すことにしたのだった。


それは数ヶ月前のこと。
もう呼び出され慣れた理事長室。
この部屋の主、吉羅理事長の机の前に歩み寄れば、何枚かの書類を渡された。
「これを君に」
「?」
首を傾げつつもざっと目を通せば、ヴァイオリンのコンクール要項らしい。
「学外のコンクールですね。
 これがどうかしたんですか?」
「なぜそこで分からないのかが私には分からないのだが?」
「…っ…」
皮肉げに微笑まれて、香穂子は言葉に詰まる。
どうしてこう、この人は自分に対してだけ意地悪なのか。
…意地悪というか、常にからかい態勢な気がする。
「うぅー、分かりますよっ。想像できます!
 これに出ないかってことですよねっ?
 ただ、説明がほしいってイミです」
それこそ察してください、と頬を膨らませたが、相変わらず彼は涼しげに笑っていた。
「『出ないか?』ではなく、『出たまえ』だがね」
「……拒否権ナシですか」
「その通りだ」
香穂子はあっさり肯定する彼に苦笑した。

「…私、コンクールってあんまり…」
あの特殊な学内コンクールはともかく、一般的なコンクールには興味がない。
親しくなった人達も学外のコンクールに出ているので
まったく興味がないわけではないが、自分が参加するとなると別である。
音楽を始めてようやく1年を越えた自分が出るには躊躇われるというか…。
「私は…リリの魔法のヴァイオリンで底上げした感があるじゃないですか…」
実際は香穂子自身の資質と努力が大きいのだとファータ達から聞いてはいた。
納得していたつもりだった。
「普通のヴァイオリンだったら何年も練習するはずの工程を…
 魔法のヴァイオリンで短期間でこなしちゃったことになるんですよね」
「そうだな」
密度の違う練習だと考えればいい、とリリに言われた。
いかに魔法のヴァイオリンと言えど、何もせずに上達はしない。
だけど…。
「まだ色々他にも勉強しなくちゃいけない私に学外コンクールは早いかな、と」
魔法のヴァイオリンを受け取って以来、自分なりに必死でやってきた。
魔法のヴァイオリンが使えなくなってからも努力を続けてきた。
自分では最善を尽くしてきたけれど、やっぱりどこかに引け目を感じてしまう。
特に子供の頃から続けてきた人達が集まるようなコンクールでは…きっと。
「やりながら勉強していけばいい。
 コンミスの時もそうだっただろう?」
「…そうですけど…」

「日野君」
「は、はい」
名前を呼ばれて、まっすぐ見つめられるだけで緊張する。
これで彼が立っていて、見下ろされていたらもっと緊張したかもしれない。
幸い、今の彼は座っているので少しだけマシだと思う。
「君は今何年生だ?」
「?
 三年です」
「そう、最上級生だな。
 そして、うちの大学の音楽部に進学希望」
「はい」
「学内コンクールやコンサートなどで実績はそこそこある。
 ただし、音楽の知識はまだまだ勉強中で欠けているものが多い」
「…はい」
「ファータのせいとは言え、技術と知識がかけ離れすぎている」
「ごもっともです」
「今現在の君は…筆記試験は要努力といったとこだろう」
「………はい」
なんだかだんだん身の置き所がなくなってきた。
やっぱり座ったままでも彼の威圧感は変わりないようだと香穂子は首を竦めた。
「ほら、だから、学外コンクールの準備に時間を割くよりも
 地道に練習しつつ、勉強した方が…」
「もう一つくらい実績があれば、かなり有利だと思うがね」
「え?」
「もちろん勉強も続けてもらうが、進学まで一年もない
 君の場合は外のコンクールで優勝してくる方がいいかと」
「……………」
「なんだね?」
彼は香穂子の物言いたげな視線を平然と受け止める。
「今……さらっととんでもないこと言いませんでした?」
「おや、どのへんが?」
「だ、だって…優勝って」
「私は無理だとは思っていないが」
「………なんでそんな自信たっぷりなんですか、もー。
 参加するのは私なんですよ?」
「君なら可能だと思っている」

香穂子はがくりとその場にしゃがみ込んだ。
普通、一生徒が理事長の前でこんなことはできないかもしれないが…
この際それはもうどうでもいい。
学院の理事長と生徒。
自分達はそれだけではないから。
ファータと縁があるという同志のような気安さがあるせいか
彼もくだけた面を見せてくれる。
突然しゃがみ込むくらい大丈夫だと解っていた。
何より原因は彼なのだから大目に見てもらいたい。
(ずるい、ずるいずるいずるいーっ!)
どうしてあんなに自信があるのか。
本気で信頼してくれているのが伝わるだけに…断れない。
そして、ずいぶん強制的かつ高圧的だが、元を辿れば香穂子の進学の為なのである。
ファータに関わったことで突然音楽の世界に触れることになった香穂子への
フォローを出来る限りすると言ってくれた言葉その通りに…。
音楽科の教師に丸投げしないで、彼自身が気を配ってくれている。
(あーもー、ホントにずるい。
 だいたい私がこの人に逆らえるわけないのに…)
ちらりと視線だけ上げれば、呆れたように苦笑する彼の眼差しとぶつかった。
「どうしても参加したくないと?」
「………う」
気持ちは有り難いし、期待に応えたい。
だけど、優勝なんてだいそれた目標ゆえに返事を躊躇う。
そんな香穂子の前で彼はわざとらしく溜め息を吐いた。
「そうか、仕方がないな」
「理事長…」
「この私が、仕事の合間を縫って、
 君にちょうど良い時期とレベルのコンクールを探して
 資料を取り寄せたんだが………無駄に終わったか」
「な、ちょっ…ちょっと、大人気ないですよっ?
 その手で来ますか。しかも、めちゃくちゃ芝居臭いです」
「事実を言ったまでだよ」
「もうっ、そんなことしなくても参加します!
 言われなくても…その…」
香穂子は立ち上がって少しだけ口篭った後、照れながら言った。
「感謝しています。
 …その、わざわざ気にかけてもらっていること…」
頬を染めて、ありがとうございます、とぺこりと頭を下げる。
そんな様子は微笑ましくて可愛らしい。
俯いている香穂子の視界の外で漏らす彼の微笑はとても穏やかで優しい。
だが、もちろん香穂子はそんなことに気付いてもいない。
彼としては彼女に見せるつもりは毛頭ない。
「気にすることはない。
 我が学院の広告塔が派手になるのは、こちらとしても願ったりだからね」
「〜〜〜っ。
 ………結局、理事長の為じゃないですか」
「双方にメリットがあるなんて、いいことじゃないか」
「くっ………」
香穂子は握った拳をふるふると震わせる。
いつもそう。
優しくしてくれる。
その後にはこういう落とし穴があるのだ。
いつもいつも特別扱いしてくれた?と思わされた後に
実は違うのだと言わんばかりのセリフが来る。
「………。
 先行投資は忘れないでくださいよ?」
むぅー…とふて腐れた顔で睨むしかない。
「ああ、それも言おうとしていたんだ。
 今週は土曜日が休めそうだから、練習後に時間があるなら
 食べたいものを考えておくといい」
「………」
「どうした?」
「なんでもないです。
 了解です。ごはん楽しみにしてます」
絶対振り回されている気がする。
そして、餌付けされている気がする。
分かっていて頷くしかない自分がちょっと悔しい。



退室した香穂子の背中を見送りながら彼は小さく笑った。
素直な反応が返ってくるので、ついついからかうような言葉選びになってしまう。
「素直じゃないのだ、吉羅暁彦」
「………何の用だ、アルジェント・リリ」
突然現れる妖精にも慣れたそっけない返事にリリは口を尖らせる。
だが、じーっと吉羅を見て、にやりと笑う。
「ふふーん。我輩知ってるのだ」
「そうか、それは良かったな」
一瞥をくれて、そのまま仕事に戻る彼の周りをリリはひらひらと舞う。
「うぅ…冷たいぞ、吉羅暁彦。
 ここはフツー『何を知っている!?』と動揺するところなのだー」
「普通じゃないモノを相手に普通の対応をする必要も感じないのでね」
「ひどいのだー。しくしく」
読んでいる書類の上で泣き真似をする妖精はとてつもなく邪魔である。
ひとつ溜め息を吐くと、リリが待っている言葉を言ってやった。
「…………何を知っているんだ?」
リリの顔がぱっと明るくなる。
もちろん、涙など影も形もない。
「お前が無理矢理にでもコンクールに出させなければ
 きっと日野香穂子はずーっときっかけを掴めなかったのだ」
ファータと彼女の関係を知る者が、全てを知った上で
コンクール参加を薦めることに意味がある。
「………」
彼女の努力は紛れもなく本物だから。
負い目など感じる必要はないのに。
妖精に出会った運もそれをものにした事態も、才能の一つと割り切ってしまえばいいのに。
人前で弾くことに抵抗は無くなってきたようだが
順位付けに関しては極力近付かないようにしている。
何度か音楽科の教師にコンクールの話を持ちかけられていても
断ってしまったと聞いた。
「そしてコンクールに出るなら大学へ行く前に
 一度くらい経験しておくのがベストなのだ」
リリは嬉しそうにくるくると部屋の中を飛び回った。
「我輩嬉しいのだ〜。
 日野香穂子を見守る者が増えて、しかもそれがお前なのだからな」
「私は彼女を利用させてもらうだけだが」
「口ではなんとでも言えるのだー。
 育てる気満々のくせに。
 マイ・フェア・レディなのだ」
「……………」
「これもまたヴァイオリン・ロマンスなのだ〜」
彼は上機嫌な妖精を今度こそ無視することにしたのだった。








コンクール会場となった建物を出て、階段をとんとんと身軽に下りる。
香穂子はひとつ伸びをして、空を見上げた。
綺麗な青色。
日が暮れるまでにもう少し時間はある。
「んー、思いっきり弾きたい気分ー…」
自分らしい演奏は出来たと思うし、満足だけど
出番直前まですごく緊張していたので、あんまり弾いた気がしない。
一回だけ先程弾いた曲をどこかで弾いていきたい。
「公園にしようかな、それとも学校戻ろうかな」
だが、迷っているうちに三つ目の選択肢が発生した。
後ろから車のクラクションの音が聞こえたのだ。
見慣れた車なので驚かないが、なぜここに?という驚きはあった。
「え…あれ、なんで理事長がこんなところにいるんです?」
「たまたま手が空いたので、君から直接結果を聞こうと思ってね。
 乗りたまえ」
本当は迎えに来てくれたのだと気付いた香穂子はくすりと笑った。
「たまたま、ですか。それはラッキー。
 ありがとうございます」


この車の助手席に座るのにも、大分慣れた。
最初はがちがちに緊張していたし、沈黙が怖かったりしたのだが…。
今では沈黙ですら心地良い空気だと思えるくらいになった。
車が走り出して少し経った頃、香穂子は口を開いた。
「えへへ、理事長のお迎えなんて贅沢ですよね」
香穂子のコンクール参加は音楽科の教師達も知っていることだし
何もしなくても、じきに結果報告はされたと思う。
だけど、直接香穂子から聞くために来てくれた。
「私、コンクール参加者で一番の贅沢者かも…」
「たまたま時間があったので車を動かすついでだったとしても?」
「それでも、です」
にこにこしている香穂子に正確に悟られていると察した彼は肩を竦めた。
「それで、結果は?」
「えーと…理事長の予想は?」
香穂子は試しに問いで返してみたのだが…。
「私は優勝しろと言ったはずだからね。
 それ以上でも以下でもないはずだが」
彼はちらりと香穂子に目線を送ると、そのまま前を向いて運転を続ける。
「な、なんでそう全然揺らがないんですか…」
上手い人達が全国から集まるコンクールなのだ。
どんなに必死に頑張ったって上には上がいる。
どんなにレベルの高い演奏者でも曲が終わるその時その瞬間まで
絶対にミスしないとは言い切れない。
どうしてそこまで…他人を信じられるのか。
理由が分からないまま、顔が熱くなる。
きっと赤くなっている。
負けた気分になるのは何故だろう。
「………理事長のご要望通り、優勝いただいてきました」
「ご苦労様」
運転の片手間にぽんぽんと頭を撫でられた。
たったそれだけの事がとても嬉しくて。
コンクール中ずっと緊張していただけに、気が緩んで泣きそうになった。



「そういえば、公園に寄るところだったと言っていたね」
「え…あ、はい。
 一回さっき弾いた曲を思いきり弾きたくて。
 だから、絶対寄らなきゃいけないわけじゃ…」
「なら、聴かせてもらおうか」
「はい。ありがとうございます」
「礼を言われるようなことではないと思うがね」
「理事長に聞いてもらうのは緊張するけど嬉しいんです」
公園近くで車が停まると、たった一人の観客を香穂子は振り返った。
「コンクールで弾いた通りに演奏します?
 それとも好きに弾いちゃっていいですか?」
「好きにしたまえ」
「はい」
香穂子はにっこりと笑うとヴァイオリンを構えた。
ひとつ深呼吸をして弓を滑らせる。
今なら余計なことを考えなくていい。
目の前の人に捧げる最高の音を。
自然に優しい旋律が流れる。
彼は「好き」の言葉すらなかなか言わせてくれないから。
だから、音に想いを込める。
ヴァイオリンの音色なら彼は時間の許す限り聴いてくれる。
囁くような音。透き通った音。感情的な音。
全てが告げる「好き」の気持ちを。


素直に綺麗だと思った。
彼女の音楽も、それを奏でる彼女自身も。
普段はまだまだ子供のくせに。
内心呟きかけて、苦笑する。
いつまで自分を誤魔化せるか。
彼女の気持ちは知っている。
普段の言動もそうだが、この音色が何よりもの証拠。
やわらかくて、あたたかい。
すんなりと心に入り込む。
自分が彼女を憎からず想っていることも伝わっているはず。
恋人扱いはしていないが、確かに特別扱いはしている。
惹かれ合っているのは間違いないけれど、立場上の問題がある。
(まったく……経営改革よりもよっぽど悩ませてくれるな…)
予定外の懸案に頭を抱えてはいるものの、彼女と過ごす時間は心地良い。
だから、手放せない。
同じ年頃の男に目を向けろとは言えない。
すぐには彼女に応えてやれないのに、独占欲だけはあるから厄介だ。



最後の音の余韻が消えるタイミングで拍手が鳴る。
「ありがとうございます」
「いい音だ。
 感情が先行している感はあるが、私は嫌いじゃない」
「そう言ってもらえると嬉しいです。
 大丈夫ですよ。時と場所は弁えて演奏します」
「それはけっこう」
彼は頷くと空を見上げた。
気付けば赤く染まり始めている。
「もう日が暮れるな」
「あ、私ここで構わないですよ」
残している仕事があるのかと思い、香穂子は提案した。
「どうせここからなら家も近いし」
そんな香穂子を彼は見つめ、小さく息を吐いた。
「仕事は終わらせてきたから安心しなさい。
 ちゃんと君を送らせてもらう」
「じゃあ、お言葉に甘えて…」
不要な心配だったかと笑うと香穂子は再び助手席に納まった。
「家に送る前に頑張った生徒に夕食くらいご馳走しようと考えてはいるが…
 どうするかね?」
「やったー。それは大賛成です」
ここ数ヶ月で驕られ慣れた少女はこれには遠慮なく頷いた。
そして、ぽんと手を叩く。
「そうだ、思い出した」
「忘れ物か?」
「ある意味忘れモノですね」
ふふふ、と笑う彼女の笑顔に嫌な予感がした。
「覚えてます?
 私が優勝したらご褒美くれる約束」
「ああ、そういえばそんな話もあったような気がするな」
気のせいじゃありません、と香穂子は腰に手を当てた。
そう、確か前回の休日に食事に連れて行った時…。
不安でいっぱいな様子の彼女のモチベーションを上げるために言ったのだ。
単純だが効果はあったようで、彼女は不安になる暇もないくらい練習に励んだらしい。
「ちなみにこれから行くごはんはご褒美とは認めません」
えっへんと強気な香穂子に彼は目を細めた。
「ほぉ、随分と強く出るじゃないか」
「だって、それだといつも通りですもん」
「確かにそうだな」
「だから何か特別なもの…と考えたんです」
「さて、今日は何を食べに行くか…」
「ちょっ、あからさまに話題変えないでください」
香穂子から何かを感じ取ったのか、
吉羅はさっさと車を動かそうとギアに手を伸ばしたが、香穂子に止められた。
「二つ考えたので好きな方を選んでくださいね」
この笑顔がなぜかよくないものに見えてしょうがない。
だが、諦めて溜め息交じりに促した。
「……言ってごらん」

「一つは理事長のヴァイオリンが聴きたいです」
「私はヴァイオリンは止めたんだがね」
「んー…それでも人に聴かせられる程度には維持してそうな気がします」
色々あって音楽の道からは離れてしまったけれど…。
自分が信じたいだけかもしれないけれど、完全には切れてないと思っていた。
だって、今も彼は音楽を好きな気持ちは失くしていない。
「……………もう一つは?」
「えーと…ですね…………」
「?」
頬を染めてはにかむ彼女は可愛らしい。
「……………キス、してほしいです」
願い事も可愛らしいが、言われた側としてはそれどころではなかった。
「…っ!」
彼にしては珍しく言葉に詰まる。
「……………。
 君は何を言っているのか分かっているのかね…?」
「あ、恋人同士のキスじゃなくてですね。
 ほら、外国人の挨拶みたいな感じのです」
対する香穂子は顔が赤くなっているもののけろりと返した。
「日野君………」
「だってー……それくらいしてほしいです」
絶対零度かと思える彼の雰囲気に香穂子も負けずに頬を膨らませた。
「前に言っていた『親愛の情』とかでもいいから」
ヴァレンタインにきちんと告白しているのである。
ホワイトデーにお返しはもらったけれど、特別じゃない。
ただの親愛の情だと釘を刺された。
恋人になれるとしたら、まだまだ先のこと。
そう言われてしまったから、仕方がないけれど。
「せっかく好きな人と一緒にいるのに…」
恋人ではない。
ただの理事長と生徒という関係でもない。
今の自分達の関係は何だろう。
やっぱり同志になるのだろうか。
でも、休日には二人で出かけるのが当たり前になっているのに。
惹かれ合って一緒にいるのに…。
「何年もお預けなんてヤですー…」
「………今時の女子高生は…」
「やだ、そんなおじさんみたいなこと言わないでください」
「君達から見れば十分に『おじさん』の年齢だろう」
「年は………まぁ、そうかもしれないけれど」
さすがに否定できず、香穂子は苦笑した。
「でも、理事長は別なんです!」
「………まったく……」

大きな溜め息を吐く彼を見つめて、もう許してあげようかな、と思う。
このご褒美は絶対に聞いてもらえないと解っているから言えたものなのだ。
期待できる状況だったら、恥ずかしくて言えるわけがない。
不満なんか言ってはいけないと分かってはいる。
だけど、我慢しているのだと知っていてほしかっただけ。
「ということで、ヴァイオリンで1曲。
 よろしくお願いします」
「日野君…?」
「こうして時々一緒にいられることは嬉しいです。
 でも、いっぱい我慢してるんですよ。
 それを知ってもらおうと思って言ってみただけです。
 で、この2択だったらヴァイオリン弾くしかないですよね」
ことあるごとにねだっているのになかなか聴かせてくれない彼のヴァイオリン。
「今度こそ聴かせてもらいますから!」
「なるほど…君にしては珍しく考えたようだね」
「珍しく、は余計です」
香穂子は拗ねたように窓の外に視線を向けた。



そういうことかと分かれば、笑うしかなかった。
彼女らしくない願い事。
だが、蓋を開けてみれば実に彼女らしい。
(実際、君に聴かせるほどのものではないのだけれどね…)
昔のようにひたすら練習しているわけではない。
むしろ、忙しい時間の合間、時々思い出すように触る程度。
あの頃のようには弾けない。
それでも、彼女が聴きたいと言うのなら叶えてやってもいいかという気になった。
だが、一回り以上も年下の少女に
実に心臓に悪い思いをさせられたのはやはり不本意で…。
一瞬だけ考えをめぐらせる。
時期が来るまで手を出す気はないのだが、
もう少しくらい警戒心を持ってもらわないと困る。
これから何度もこんな風に無邪気に誘惑されては厄介だ。
鋼鉄の理性が危うい。
「日野君」
「なんです?」
香穂子が勝者の笑みで振り向く。
「分かった。君の願いを叶えよう」
「わーい。何を弾いてもらおうかな…」
あれこれと曲を挙げては迷っている彼女の頬に触れる。
こんなに簡単に包み込めてしまう。
「え?」
突然のことに彼女は目を丸くして、固まっている。
こんな風に触れたことはないから当然だろう。
「私はヴァイオリンを弾くとは言っていないが?」
「え、や、あ、あの…り、理事長…?」
「君がねだったのだろう?」
ほら、目を閉じたまえ、と軽く笑う吉羅を目の前にめちゃくちゃうろたえている。
「あ、う…そう、ですけど…。
 だって…あれ…?
 ちょ、ちょっと待ってくださ…、ち、近いです〜」
「近付かなければできないだろう?」
「そうですけど、でも、だって……えぇ〜?」
「静かに」
「ぅ……………」
ぱたぱたと振り回していた手がすとんと膝の上に落ちる。
真っ赤な顔できゅっと瞳を閉じた。
素直で無防備な彼女の仕種に彼はふっと笑みを零した。

「……………?」
瞳を閉じて数秒。
だけど、聞こえてきたのは彼の抑えた笑い声。
そっと瞳を開けてみれば、さっきまで吐息が触れそうなほど近くにいた彼は
何事もなかったかのように運転席で笑っていた。
強いて言えばいつもよりもニ割り増しで可笑しそうに笑っている。
「理事長?」
「あんなにうろたえるようでは…
 まだまだ覚悟が足りないようだね、日野君」
「……っ………い、意地悪!
 からかったんですね!
 最初からする気なかったんだ……」
壊れそうなくらいドキドキした心臓をどうしてくれる、と睨むが
彼は涼しげに笑っている。
「これに懲りたら下手なことは言わないように」
「…………」
「君には十年早い」
そう言って微笑む彼は大人の余裕と魅力があって。
先程思いっきりうろたえた香穂子は何も言えなくなってしまう。
大人と子供。こんな時、思い知らされる。
「〜〜〜っ。
 ……せめて五年にまけてください」
「それは君次第だね」
「うぅー…頑張ります」
疲れ切った様子で助手席に沈み込む少女に微笑むと車を走らせ始めた。



(五年…ね)
それすら待てるかどうか、実は自分の方こそ自信がないのだが…。
その時が来るまでは余裕なフリくらいはしてみせよう。
コンクールの疲れか、眠ってしまった彼女の寝顔を
彼はしばし優しく見つめていた。
「起きたまえ、日野君。
 着いたぞ」
「…はぁい…」
「それとも真っ直ぐ家に帰るかね?」
「いえ、ごはんはご馳走になります!」
理事長と行くお店は絶対美味しいし、と香穂子は無邪気に笑った。
「いつも楽しみにしてるんです」
「ああ、期待していていいよ」


今しばらくは…こんなのんびりとした関係で。
ゆっくりと着実に進めばいいと思う。
そんな彼の考えを彼女が覆すのは、もう少しだけ先の話である。


                                          〜 fin 〜



というわけで初吉日創作です。
両想いだけど恋人未満なので「理事長」呼びにしました。

リクエストは甘い吉日だったのですが、
私がいつも書くような、砂糖吐くほど(笑)甘いのは
あんまり想像できなかったのですよね…。
ゲーム内に「お、この二人甘くなりそう」と思えるシーンが
あれば、もっと甘くなったかもしれませんが。

ちんくまん、今はこれが精一杯です〜。
私のイメージではこんな二人になります。
…別人…になってるかもですが、ご容赦を〜…。





Back