Your song
ある晩、アンジェリークは二人きりのコンサートが終わると、思い出したようにアリオスに外の様子を話した。 「ねぇ、アリオス。 そういえばここに来る途中、向こうの浜辺がなんだか賑やかだったの」 ここから少し離れた海岸沿いには人が大勢いて、何かの準備をしているようだった。 「ああ……そろそろそんな時期か」 「なに?」 「祭だよ。祭」 「お祭?」 「向こう側は小さな港町があるからな。 そこの夏祭が明日あるんだろ」 「それで今から準備をしてるの?」 「露店がたくさん出るし、花火も上がるからけっこう大掛かりだしな」 「ふぅん……」 だが、瞳をキラキラさせる少女に釘を刺すようにアリオスが先手を打った。 「ちなみに俺は行ったことねぇし、行く気もないからな」 「…………どうしてー?」 不服そうに膨れる彼女の頬を引っ張って憮然と答える。 「人込みは嫌いなんだよ」 「私は行ってみたいなぁ……」 「花火ならここからでも見える」 「露店も見てみたい……」 じーっと子犬の瞳が見上げている。 「ちょっと見てまわるだけ。 ね、行こう?」 アリオスは長い沈黙の後に大きな溜め息を吐いた。 この世間知らずのお嬢様に一人で行ってこいと言えない程度には 自分はお人好しなのだと初めて気付いた。 「お前、俺にピアノ弾かせるだけじゃなくお守りもしろってのか?」 思えば最初からアンジェリークの願いには弱いアリオスだった。 彼女の願いを「叶えてやる」という自分の方が上の立場だと思っていたが、 実は彼女の言うがままになっている気がしてならない。 「行けば楽しいかもしれないよ」 アリオスはにっこり笑う彼女を見下ろし、もう一回溜め息を吐いた。 「………すぐに帰るからな」 「ありがとう、アリオス。 明日が楽しみだね!」 「はいはい」 ちょっと強引だったかな、とは思った。 アンジェリークはとうとう満ちた月を見上げて苦笑した。 でも、これが最後の想い出作りだから……どうか許してほしい。 二人でたくさんの露店を見てまわって、お菓子を買ってもらって。 隣を歩く彼をこっそり見つめる。 この一月はとても楽しかった。 でも、同時に幸せすぎて胸が痛んだ。 この幸せを失うのは哀しすぎる。 寂しすぎる。 「アリオス、ありがとう」 「ん?」 「アリオスは私のわがままをいっぱい聞いてくれた」 「あー本当にお嬢様のわがままに振り回されたな」 言葉とは裏腹に瞳が優しいから、アンジェリークはくすりと笑った。 「花火が終わったら、帰るね」 「……そうか」 そこに含まれた微妙な意味に聡い彼は気が付いた。 だが、直接そのことには触れず、いつもの様子でアンジェリークを誘った。 「じゃあ、特等席に連れていってやるか」 「特等席?」 「行けば分かる」 到着した場所は毎晩通っていたアリオスの別荘だった。 いつもくつろいでいるピアノを置いてある部屋を通り抜けて、テラスに出る。 ここはこっそり忍び込んで彼に見つかった場所。 「特等席ってここなの?」 「まぁな」 ちょうど向かい側の海岸で花火を打ち上げるので、ここがベストスポットだという。 「多少距離はあるが、人もいないしゆっくり見られる」 彼の言葉を証明するように、最初の花火が打ち上げられた。 「うわー、本当だ! すごい! 綺麗、アリオス!」 距離があると彼は言ったが、十分に大きく見える夜空の花にアンジェリークは歓声を上げた。 一瞬の花が咲くたびに、少女の顔が明るく照らされる。 テラスの柵から身を乗り出して、花火を見ていたアンジェリークはアリオスを振り返った。 「綺麗だね、アリオス」 「ああ」 「……………」 彼が見ていたのは夜空ではなかった。 真っ直ぐ見つめられていたアンジェリークは硬直した。 いつもピアノを弾いている彼を見つめていた。 だけど、見つめられるのには慣れていない。 変身する薬を飲んだわけでもないのに呼吸が止まる。 胸が苦しい。 「アリオス……」 別れる間際に想いを伝えるだけは伝えたいと色々台詞を考えていたのに。 それなのに今、たった一言。 「好き」 まるで彼の雰囲気に促されるようにぽつりと零れ落ちた。 「知ってる」 あっさりと頷かれてアンジェリークは慌てて言葉を付け足した 「違う。アリオスのピアノじゃなくて、アリオスのことが……」 「だから、知ってる」 言いかけた途中で頭を抱き寄せられた。 彼の体温に包まれる。 「いつから……私、言ってないわ」 「言ってなくても、お前見てりゃ分かる」 「うそ……」 「嘘じゃない。 まぁ、俺の前で平気で寝やがるから多少自信もぐらついたがな」 「?」 アリオスは意味が通じていないアンジェリークに小さく笑ってやった。 純粋に音に惹かれてやってきた、ちょっと変わった少女だと分かっていた。 毎晩飽きもせずによく来るものだと感心もした。 いつのまにか、彼女が訪れる時間が遅いと 何かあったのではないかと気になってしまうようになった。 認めたくはなかったが、彼女を待っている自分が確かにいた。 共に過ごすうちに互いに惹かれ合っているのにも気付いていた。 事情が事情だから、どちらも気付かないフリをしていただけだった。 頭上で打ち上げられる花火の音が聞こえる。 それなのに、もう空を見上げられない。 捕らえられたようにアリオスから視線を外せない。 大気中に響く音と彼を照らす光で花火を感じるしかできなかった。 ゆっくり引き寄せられて、自然に唇が重ねられた。 閉じた瞼の向こうが明るいから、きっと花火が上がっている。 でも、今はそれどころじゃなかった。 緊張に固まっていた少女の唇を指でなぞりながら、アリオスは囁いた。 「攫ってやろうか」 真摯に見つめる金と緑の瞳。 冗談なんかではない、本気の言葉。 彼の想い。 泣きそうになるほど嬉しかった。 涙で視界が滲む。 だが、アンジェリークは泣かずに静かに首を横に振った。 「アリオスに迷惑はかけないって言ったでしょ?」 「すでに十分かけられてる気はするがな」 「もう……私、真面目に言ってるのに」 茶化す彼を軽く睨んでアンジェリークは言った。 「ちゃんと相手に会ってくるわ。そして説明してくる。 こう言っちゃ悪いけど、姉様達に代わってもらう手もあるし。 いざとなれば、相手に気に入られないように振舞うって手もあるわ。 私が話をつける。そのうえでアリオスに会いに行く」 「……たいしたお嬢様だ」 その表情は先程までキス一つでうろたえていた少女とは思えないほど凛としていた。 「さっきまでは気持ち伝えてお別れできれば十分と思っていたけど…… 両想いなら諦める理由ないもんね」 「分かった。お前が戻ってくるの待っててやる。 その時に渡すものがあるから楽しみにしてろ」 「なに?」 「言ったら楽しみが減るだろ」 「ケチ〜」 顔を見合わせて笑うと、もう一度じゃれるようにキスをした。 「また、会おうね」 毎晩、願いを込めて別れ際にそう言っていた。 二度と言うことはないだろうと思っていた。 だけど、言える現実が嬉しかった。 ◆ それから、数日後。 アンジェリークは上等なドレスとアクセサリーで着飾られ、宮殿にやってきていた。 豪華な調度品に囲まれた部屋に通されたものの、落ち着きなくうろうろしてしまう。 最初はソファに座って待っていたのだが、じっとしていられなかった。 (うぅー…緊張する……) アリオスの別荘に忍び込んだ時みたいだ、と思って苦笑した。 本当はそれ以上に緊張していないといけないはずなのだが。 結婚相手に初めて会うのだ。 しかも、その人に自分は結婚できないことを説明しなくてはならない。 (大丈夫よ、大丈夫……。 本来、王族は人魚の恋を応援してくれる味方なんだから…) 昔の話だと分かっている。 それでもかの王子がそう約束してくれたのは紛れもない事実。 今はそうではないことを知っているが、藁にも縋る思いでアンジェリークは自分自身を勇気づけた。 (第一これを乗り越えなきゃアリオスに会えないもの!) 部屋にノックの音が響く。 王子の到着を知らせる従者の声が聞こえた。 アンジェリークは毅然と顔を上げた。 「「……………」」 数秒の間、部屋の中には沈黙が横たわっていた。 アンジェリークは入ってきた人物を見つめ、相手もアンジェリークを見つめていた。 互いに時が止まったかのように見つめ合う。 「……アンジェリーク?」 どこか呆然とした彼の声がアンジェリークを呼ぶ。 聞き慣れた声……だが、アンジェリークはすぐには答えられなかった。 「アリオス…………なの?」 随分と間を置いた後にようやく掠れる声で呟いた。 「え、でも、だって……髪の色が違う……」 アンジェリークが戸惑うのは当然だった。 目の前の彼はアリオスに似ているのだが、髪の色は漆黒。 常にラフな格好だったアリオスと違って王族の正装を身に付けているせいか、雰囲気も微妙に違う。 アンジェリークは彼に駆け寄り、瞳を覗き込んだ。 「瞳の色は同じなのね」 異色の瞳などそうそういるはずはないのだけれど…。 「でも、やっぱり…別人…?」 不躾なまでに大きな瞳でじーっと見つめる少女に彼は笑い出した。 「俺の名はレヴィアスだ。 レヴィアス・ラグナ・アルヴィース」 「…………レヴィアス」 (…笑い方まで同じなのに……) そんなに都合良くいかないか、とアンジェリークは肩を落とした。 だが、がっかりした直後に引っかかりを覚えた。 (あれ? でも私を見て驚いたよね…?) アンジェリークの名を知っていたのは前もって教えられていたからかもしれないが、 驚く理由はないはずである。 「どうした?」 そんな彼女の百面相を可笑しそうに眺めている表情はやはりアリオスに似ている。 というよりも、彼そのものである。 「………………」 しかし、どう説明したら良いものか、とっさには言葉が出てこなくて口をぱくぱくとさせるしかない。 レヴィアスはそれを見てまた笑った。 アンジェリークにだけ聞こえるように囁く。 「くっ……初めて会った時と同じ顔してるぜ?」 「や、やっぱりアリオスなの?」 それには答えず、彼は開いた扉の向こうで今まで控えていた従者に告げた。 「しばらく姫と二人で話す。下がっていい」 「かしこまりました」 部屋に二人きりになった途端、彼の雰囲気が変わった。 どさりと豪奢なソファに身を沈め、口の端を上げる。 「まさか、お前が人魚姫だったとはな……。 一杯食わされたぜ」 「な……」 「とりあえず座ろうぜ。 来いよ、アンジェリーク」 不敵に笑って手を差し出す彼の表情は間違いなくアリオスのもの。 アンジェリークは彼の手を取り、隣に座った。 「えぇと…どういうことなの? レヴィアスとアリオスって……いったい……」 「アリオスは俺の仮の姿だ」 「仮…?」 彼は肩を竦めて答えた。 「ピアノを弾くのは趣味でな。 子供の頃から宮廷音楽家達に習ってはいたんだが、やっぱり王子相手じゃ周囲の評価は甘くなるだろ」 教えることはきっちり教えたとしても、厳しくはできないだろう。 下手にダメ出しもできないだろう。 「仕方がないと分かってはいるが、褒められるだけだとどうも信用できない」 それで実力試しに身分を隠してコンクールに出場してみたというのだ。 「どうやら奴らの褒め言葉は本物だったみたいだな」 「アリオス……」 アンジェリークは呆れたように呟いた。 「で、まぁ…アリオスの名も売れちまったんで、たまに執務の合間に活動してたんだよ」 道理で不定期にしか活動しない謎のピアニストだったわけである。 どうやって生計を立てているのだろうか、と思ったものだったが…。 確かにこんな事実が公になったら大騒ぎだろう。 「……散々悩んで損した」 恨みがましくアリオス、いや今はレヴィアスである彼を睨んだ。 「私が好きになった人も、決められた結婚相手も、同じ人だったんじゃない」 「一応世間じゃ別人だがな」 「私にとっては一緒よ。 言ってくれれば良かったのに」 アンジェリークは頬を膨らませてぷいと顔を背けた。 「それなら俺もお前に言う事あるぞ」 「なに?」 「お前が人魚姫だってこと、さっさとバラしてりゃ話は早かったんだぜ?」 「う………それこそ言えないわよ」 視線を泳がせた後、今度は後ろめたさに顔を背ける。 「だって、普通の人は人魚の存在なんて知らないもの」 「俺は知っていた。王族だからな」 「でも〜……まさかあんなとこに王子様がいるなんて思わないし」 「そんなわけでお互い様ってことだ。 機嫌直せ」 ぽんぽんとアンジェリークの頭を叩く手が優しいから。 思わぬところで出会えて嬉しいから。 不機嫌な顔など長続きするはずもなかった。 「…………うん」 「ああ、そうだ。お前に会えたら渡す物があるって言ったよな」 「え、うん……」 ちょっと待ってろ、と言い置いて彼は部屋を出て行った。 すぐに戻ってきた彼が手にしていた物を見てアンジェリークは目を丸くした。 「それ……」 最後の晩に二人で祭に出かけた時。 露店でアンジェリークが見ていたものだった。 白い貝殻で作られた可愛らしいブレスレット。 高価な真珠や珊瑚を身に付けているくせに、こんな安物が気に入ったのかと アリオスに可笑しそうに笑われた。 結局、見るだけでその店を離れたのだが……まさか彼が買ってくれていたとは思わなかった。 「今更つける機会なんてないとは思うがな」 「ううん、そんなことない。 すごく嬉しい!」 豪華絢爛な宮殿には似合わないかもしれないけれど。 綺麗なドレスには合わないかもしれないけれど。 アンジェリークはすぐにブレスレットをつけて見せた。 「えへへ、どう?」 「コメントに困ることを聞くなよ。 そんな安物が上等なドレスに似合うかよ」 「……いじわる」 事実彼の言う通りなのだが、ここまでしてくれたならお世辞の一つも言ってくれても良いのに。 唇を尖らせる少女の髪をくしゃりとかき混ぜて彼は笑った。 「だが、お前には似合ってる。 俺が贈ったんだ。当然だろ」 「ありがとう、大好き」 ぎゅっと抱きついてアンジェリークは感謝の気持ちを伝えた。 少女を抱きとめて、彼は苦笑した。 「これで満足されても困るんだがな。 後でもっと別のもの贈ってやる」 「?」 「お前を攫うつもりだったから、今回の結婚に関しちゃ何も準備してないんだよ。 当然指輪も用意してねぇ」 「あ……」 「お前に似合いそうなの作ってやるから楽しみにしてろ」 「……ありがとう」 結婚を断ること、断られることばかりを考えていたから、言われて初めて気が付いた。 この政略結婚にはもう何の問題もないのだ。 「それにしても……攫うって…本当に本気だったんだ」 あの時そう言ってもらえたのはとても嬉しかったけれど。 本当に実行する気だったのかと思うと恐れ入る。 「お前を信用してないわけじゃねぇが、大人しく待ってられるか。 第一アリオスは夏の一月しかあの別荘にいないんだぜ? お前が会いに来るのを待ってたら来年になる」 こんな時くらいにしか権力なんて使う機会はないだろ、と悪びれずに彼は笑った。 有限実行。 それをするだけの力も機転も彼にはあるのだろう。 「俺はご先祖サマみたいに人魚姫を泡にするつもりも逃がすつもりもねぇんだよ」 「アリオス……」 かつては悲恋で終わった人魚姫と王子の物語。 その末裔がこんな風に結ばれるのなら、彼女達も喜んでくれるだろうか。 アンジェリークは王子様のキスを幸せな気持ちで受け入れた。 ◆ 盛大な結婚式を終え、月日は穏やかに過ぎていった。 レヴィアスの執務は連日とても忙しそうだが、彼の愛妻家ぶり…というよりも 可愛らしい花嫁に対する溺愛っぷりが広まるくらいには平和だった。 アンジェリークも宮殿に受け入れられ、親友であるレイチェルもアンジェリークの一存で 自由に出入りできるようになっている。 最初は入城の際に細々とした手続きが必要で時間もかかったのだが、 アンジェリークの親友でもあり、彼女が『レヴィアス』と出会う前に 『アリオス』に会うきっかけをくれた人物だと知った彼が特別に許可を出してくれた。 政略結婚で一緒になったとしても、お互いに愛し合うようになったとは思うが、 やはり「好きになった相手と結婚できた」と「結婚した相手を好きになれた」では意味合いがかなり違う。 余談だが、レイチェルが開発した薬の被験者は主にレイチェル自身であった。 だからこそレイチェルは時々アンジェリークを訪れることもできた。 ついでに有能な彼女は外交問題も片付けていたりする。 なんとも合理的な魔女である。 今日も一仕事終えた後、アンジェリークの部屋に通されてお茶を楽しんでいた。 「あ、そういえばさー」 「なぁに?」 「ダンナにあのコト教えたの?」 「レイチェル、ダンナって…」 一国の王子、そのうち王様になる人物相手になんて言い方を…とアンジェリークが窘める。 その後に首を傾げた。 「ん? あのコトって?」 「ほら、例の昔の……」 「ほぉ…昔の、なんだ?」 後ろから聞こえてきた声にアンジェリーク達はぎくりと首を竦めた。 「ヤ、やだなぁー、勝手に入って盗み聞きなんてお行儀悪いヨ」 「ノックはしたぞ。 それに、ここは俺の部屋でもあるんだが」 そうでした、とレイチェルは舌を出した。 「うーん、ワタシはお邪魔みたいだね。 アンジェ、またね!」 「え、ちょ、レイチェル〜!」 そそくさと逃げる前に責任持ってこの空気をなんとかしていってほしい。 アンジェリークは眉間に皺を寄せているレヴィアスを恐る恐る見上げた。 「何か隠してるのか?」 ふるふると首を振るが、彼はどうやら納得してくれないらしい。 「実に興味深いんだがな。 昔のどんな話だ?」 「レ、レヴィアス……あの、近くない?」 それはもう迫られているとしか言えない距離である。 ソファの背にぴたりと張り付いてアンジェリークはなんとか 距離を取ろうとするが、あえなく降参した。 逃げ場がない上に、この腕に閉じ込められたら敵わない。 「普通だろう?」 「普通って……」 普通の基準ってどこら辺だろう…と思ってしまうアンジェリークだった。 「昔の…に続く言葉はなんだ? 昔の男の話か?」 「………レヴィアス」 抱きしめられてうろたえていたアンジェリークはきょとんとした後、くすくすと笑い出した。 「アンジェリーク?」 「私が好きになったのってアリオスとレヴィアスだけよ。 妬く必要なんて全然ないよ?」 ずっと自分よりも大人だと思っていた。 (かわいい、なんて…言ったら怒るかな) 余裕を取り戻したアンジェリークは彼の頬にキスをした。 だが、余裕を取り戻したのは彼も同じだったようで…。 不敵な笑みを浮かべると彼女の顎を持ち上げた。 「それは良かった。 だが、隠し事は面白くないな」 「う……」 仕返しとばかりに息も出来ないほどのキスを奪われた。 「……ん……」 アンジェリークは夜中にふと目を覚ました。 「あ、そうだ……私、あのまま……」 広いベッドで隣に眠る彼を軽く睨んで頬を染める。 「もう、大人気ないんだから」 隠してるわけではなくて話すほどのことじゃないのだ、と言っても彼は知りたがって。 言う言わないの軽い痴話喧嘩っぽくなってしまって…。 でも、すぐに仲直りした結果がこれである。 またレイチェルに『バカップル』と言われそうなので この事は絶対内緒にしておこうとアンジェリークは思った。 「……っ……」 「レヴィアス?」 彼の様子がおかしい。 苦しそうに眉を顰めている。 「やだ、レヴィアス…大丈夫?」 最近は特に仕事が忙しそうだったから、 疲れているならちゃんと休んだ方がいいと何度も言ったのに。 それとこれとは別だと言い張る彼に流されてしまったせいだろうか。 うなされている彼の額に触れて、長い前髪を梳く。 熱はないようだから、夢見が悪いだけだろうか。 「疲れてるから、ヤな夢見ちゃったのかな…」 起こすべきか、寝かせておくべきか。 一瞬だけ迷った後、アンジェリークは彼を安心させるように手を握ると、 小さな声で優しく歌い出した。 ◆ 何人もの男達に追われていた。 誰の差し金かは分からないが、彼らはそれぞれ手に武器を持っている。 宮殿内ではないから、別荘滞在中だから、アリオスの姿だからと油断していた。 王子という身分はいつの時代も何かと命を狙われる存在だった。 警備がない時だからこそ、注意が必要なはずだったのに。 子供ではないが、まだ大人とも言えない自分。 武術…暗殺術に長けた男達に囲まれて助かる可能性は低い。 ましてや、最初の一撃が掠った左肩は痺れて動かない。 「ちっ…毒か…?」 「安心しな。毒だとそこから足がつく可能性がある。 どこの診療所でも手に入るただの痺れ薬だ」 ご丁寧に説明してくれたのは冥土の土産のつもりだったのかもしれない。 崖に追い込まれ、下は海が広がっている。 逃げ場はない。 戦うか。 海に飛び込むか。 勝算を一瞬で比較する。 戦えば、確実に殺されるだろう。 剣でもあればまだ勝機はあるが、丸腰の上に相手は大勢。 確実に仕留めるつもりで、すでに痺れ薬まで使っている。 崖の下をちらりと見下ろした。 高い…が、危険な高さではないはずだ。 岩場に叩きつけられる心配もない。 無事に陸に泳ぎつけるかは賭けだが、一時的に彼らを撒けるし、まだ可能性はある。 賭けるならこちらだ。 「貴様らに殺されてやる気はない」 アリオスは不敵に笑うと躊躇いもなく海に飛び込んだ。 そこから先は覚えていなかった。 気付いた時には浜辺で倒れていた。 だが、夢うつつの中で優しい歌声を聴いた。 聞いたことのない不思議なメロディだが心地良い。 自分の手を包む優しい手を感じた。 あれは幻だったのかもしれない。 ただ潮の関係で運良く浜辺に流れ着いただけかもしれない。 確証は無いまま、だが優しい歌声は覚えているから、それを元に曲を作った。 自分を助けてくれた誰かに、『誰か』がいないのなら浜辺へ打ち上げてくれた海に捧げる為に。 どんなに執務が忙しくても、ピアニストアリオスとしての仕事の依頼が来たとしても、 毎年その時期の約一月はそこでピアノを弾くことにした。 ◆ 歌声が聞こえる。 昔の記憶そのままの優しい歌声。優しい手。 「……………」 昔の夢を見ていたせいもあり、一瞬混乱する。 「あ、起きた? 大丈夫?」 歌声が止み、アンジェリークの心配そうな顔が覗き込む。 「アンジェ……?」 「疲れてたのかな。 具合悪かったりしない?」 「ああ、大丈夫だ」 上体を起こすと、彼女は安心したように微笑んだ。 「よかったー。もう、びっくりするじゃない」 「悪かった」 「本当よ。……当分しないんだから」 アンジェリークは頬を染めながら呟いた。 「ああ………いや、ちょっと待て、それは却下だ。 単に夢見が悪かっただけだ」 まだぼうっとする頭で相槌を打っていた彼ははっと我に返った。 「それよりも、今の歌……」 「歌?」 ああ、とアンジェリークはにこりと笑った。 「少しは楽になったかな? 人魚に伝わる癒しの歌なの」 「癒しの歌……」 「人魚の歌声って不思議な力があるんですって」 アンジェリークを見つめたまま彼は呟いた。 「昔、一度聞いたことがある。 十年以上前に」 「……うん」 「アンジェ……お前が?」 あの時、自分を助けたのは目の前の少女だった? アンジェリークは彼の問いに静かに微笑んだ。 「どうして言わなかった?」 「自分から言うつもりはなかったもの」 「なぜ?」 「だって、あなたにとっては思い出すのも辛い事でしょ?」 自分が殺されそうになった時のことなど。 「……………アンジェリーク」 「私ね、別荘から聞こえてくるピアノの音が好きだったの」 いつものように近くの水面に出て聴いていたある日、 不自然なほど突然にピアノの音が途切れた。 争うような物音の後、一人の少年が別荘から走って出ていった。 その後を何人かの武器を持った男達が追っていく。 海の中からでは何もできず、だけど立ち去ることもできず…… 事の顛末を見守るしかなかった。 「あなたが海を選んでくれて良かった」 アンジェリークはすぐに彼を浜辺へ運んで、少しでも早く良くなるようにと癒しの歌を歌った。 もしも目覚めた彼に人魚の姿を見られたら…という危惧もあったけれど、 それ以上に彼を助けたかった。 「その後、あなたはあの歌をピアノで弾いてくれた」 アンジェリークは本当に嬉しそうにふわりと微笑んだ。 言葉を交わすこともなかったけれど。 歌は伝わった。 ピアノで返してくれた。 「だから、私はアリオスのピアノの中であの曲が一番好きなの」 音が繋いだ絆。 それ以上でもそれ以下でもないけれど、自分にとっては特別で。 実際に会いに行った時も、アリオスのピアノが好きだと伝えられれば満足だった。 だけど、今度はアリオス自身に惹かれて、どうしようもなく好きになって…。 「アンジェ……」 レヴィアスは少し強いくらいに彼女を抱きしめた。 「愛している」 愛しい気持ちを言葉だけでは伝え切れなくて…。 何度も深く口付けた。 「…お前のぼんやりが移ったかもしれない」 「なぁに、それ。失礼だわ」 アンジェリークは自嘲気味に呟いた彼の腕の中で笑った。 「俺としたことが…もっと早く気付いても良かったのにな」 アンジェリークは既にうっかりヒントを与えていたのだ。 海の中にいた彼女に音楽の知識などない。 実際、誰がどの曲を作ったかなどまったく知らなかったのだ。 だが、ピアニストアリオスが作った唯一の曲だけは知っていた。 アリオスはこの曲を公開したことも人前で弾いたこともない。 また、あれ以来、一度もその歌を耳にした事もない。 気になって調べたが、歌の出どころは結局分からずじまいだった。 もしもこの曲を知っているというのなら、歌っていた本人の可能性は限りなく高い。 抱きしめていた少女の身体を少し離して、優しい眼差しで見つめた。 「レイチェルが言いかけていた昔の話はこれか…。 御伽噺の人魚姫みたいだな」 「王子様の命の恩人で、それを隠したまま恋をして…って? ふふ、本当だね」 「結末は正反対だがな」 互いにくすりと笑うと引かれ合うように唇を重ねた。 離れるのが惜しく思えて、何度も何度も触れ合って……。 「もう、キリがないよ……」 笑いながらキスを続けた。 「気になっていた恩人も見つけたことだし、 あの別荘に毎年滞在する理由もなくなってしまったな」 「ん……?」 レヴィアスの腕を枕にうとうとしていたアンジェリークは眠そうな瞳を開けた。 「…来年は、行かないの?」 それはちょっと残念だな、と囁くような声で呟く。 今にも寝そうなくせに律儀に会話に付き合う少女の額に口付け、レヴィアスは笑った。 「行きたいか?」 「思い出がたくさんある場所だし……毎年は無理でもたまには行けたらいいね」 そして、いたずらっこの顔で笑った。 「アリオスと行きたいな。 あなたはそこで『レヴィアス』をお休みして羽を伸ばすの」 少女の優しい願いにレヴィアスは瞳を和らげた。 「分かった。お前の願いなら叶えよう」 夏の一月、海辺の別荘からは昔と変わらずピアノの音色が聞こえてくる。 今までは一人のピアニストが滞在していた。 これからは一人のピアニストとその妻が滞在することとなる。 事情を知るごく一部の者達は、やがてその別荘を蜜月館と呼ぶようになる。 命名者いわく「いつまで経っても一年中蜜月な二人だケド、この一月は特に甘すぎるから」だそうである。 〜 fin 〜 |
「人魚姫」の展開を踏まえつつ、アリコレ仕様でハッピーエンド! が、私的テーマでした。 音楽絡めるとコルダに近くなるから どうしようかなぁ、と迷いましたが… アリオスにピアノを弾かせたかったんです。 作中でアンジェが言っていた好きな作曲家や曲は 具体的に思い浮かべて書きましたが、あえて明記しませんでした。 皆様のお気に入りの曲をアリオスさんに弾いてもらってくださいませ。 |