Muse-2

アンジェリークと過ごすようになって、アリオスは正式な仕事の絵とは別に
密かに自分の絵を描き始めていた。
「………」
少し描いては描き直し、の連続ではあるが…。
すんなりと自分の心に入ってきた記憶の中の少女。
もっと彼女は柔らかい雰囲気だった。
もっと輝いていた。もっと暖かかった。もっと……。
彼は強すぎるこだわりを絵で表現するため思考錯誤を重ねる。
その執着の名をなんと呼ぶか、彼自身まだ気付いてはいなかったが…。


「ねー、アリオス。どこまで描けた?」
今日は芝生の上に並んで、目の前の湖を写生している。
アンジェリークはひょい、とアリオスのキャンバスを覗き込んだ。
「人のはいいから自分のさっさと仕上げろよ。
 明日までの課題なんだろ?」
「いいじゃない。別に」
隠そうと牽制する彼の腕にしがみついてアンジェリークは彼の作品を見る。
「うそっ。ずるい、アリオスっ」
「だから見るなっつったんだ」
アリオスが溜め息交じりに言うのをアンジェリークは頬を膨らませてきく。
「なんで私の方が先に描き始めたのに、アリオスのが進んでるのー」
「実力の差に決まってんだろ」
「〜〜すぐに追いついて…ううん、追い越してみせるんだから」
「クッ。楽しみにしてるぜ?」
「その顔は信じてないでしょっ」
二人でいるのがとても自然だった。
初めて会った日…その時点で敬語抜きの会話がとてもしっくりきた。

「アンジェリーク。水面はもっと…」
時々、アリオスはアンジェリークにアドバイスをしてくれる。
「あ、本当だ。透明感が全然違う」
こうやって教えられたことをアンジェリークはどんどんと吸収していった。
彼女はアリオスにとって教えがいのある生徒でもあった。
「………完成! どうかな?」
「まぁまぁじゃねぇの?」
「ホント?」
「俺がみてやってんだ。それなりのもんが出来あがってくれねぇと困る」
「感謝してます。『アリオス先生』」
アンジェリークはくすくすと笑い、画材やイーゼルを片付け始めた。
アリオスはもうとっくに描き終え、全部片付けてある。
「ね、アリオス。この課題、先生に見てもらって誉められたら
 なんかお礼するね」
課題提出の度に、そのなかから一人だけ優秀者が選ばれる。
アンジェリークが今の段階で目指しているのはその勲章である。
それをクリアしたら、次は校内でのコンクール、その次は地区のコンクール。
このように階段を上るように目標を設置していた。


アリオスがアンジェリークを送り届け、屋敷に帰ると客が来ていた。
広い庭の片隅でセイランが花をスケッチしている。
「整えられた花壇より、雑草を描くあたりがあんたらしいよな」
「誉め言葉として受け取っておくよ」
絵を見に来たんだ、と彼は言った。
「最近君の絵が変わったって聞いてね」
「誰からだよ?」
セイランは有名な美術商の名をあげた。
「あいつは…」
長い付き合いの妙な喋り方の商人の顔を思い出す。

アリオスは公園でアンジェリークに付き合って何枚か絵を描いた。
秋色に染まった木々、秋の花、空、噴水、etc。
それをふらりとアリオスの屋敷へ遊びに来た時、彼は目敏く見つけたのだ。
『これ!これ売って! 絶対売れる! 保証したる!』
宝物を見つけたように瞳を輝かせ、絶対諦めん、といった彼の様子に
頷いてやったのだ。
別にどこかへ出展するわけでもなく、これからも公園の絵はどんどんと増えていく
だろうし、アトリエに置きっぱなしにするよりはいいか、と軽い気持ちで…。
その絵達は彼の言った通り、かなりの高値で売れた。
もともと名門アルヴィース家の人間ということで知名度はあったが、
それらの作品のおかげでアリオスの名は一気に世間に知れ渡っていったのだ。

「それ、完成品?」
「ああ」
セイランはアリオスが抱えていた絵を見て目を見張る。
「…なにがあったんだい?」
「クッ。すげぇ質問だな」
彼の絵は先日見せてもらったものと全然違っていた。
確かに技術的な面ではたいして差はなかったが、受ける印象が違った。
優しくて、穏やかで、幸せなゆったりとした空気がそこにはあった。
今までの、綺麗だがそこにあるだけの無機質的な絵ではない。
ここまで変わるものなのか、とセイランは純粋に驚いた。
そして思った。自分もうかうかしてられない、と。
才能を発揮し始めたライバルに、セイランは競争心を覚えた。
同時に楽しくなったな、という喜びを隠せない。
「何が君をここまで変えた?」
「天使に会った」
「は?」

人をくったような笑みとその言葉にセイランは聞き返した。
「正確に言えば、天使の名を持つやつに会った、だな」
「…恋人?」
少し考えてセイランが問うと、まさか、とアリオスは笑った。
「まさか。一回りも下のガキだぜ。まぁ、一緒にいて飽きないけどな」
「ふーん…」
納得したのかしてないのか、セイランは中途半端な返事をした。
「だけど彼女はきっと君のミューズなんだろうね」
Muse … とある神話のなかで芸術をつかさどる女神である。
アリオスはふっと笑ったが、否定はしなかった。
「ずいぶんと可愛らしい女神だな」
「今度会ってみたいな」
「機会があればな」



アンジェリークは小さなアパートの前でアリオスと別れ、階段を登っていった。
自分の部屋のドア前に知った人物を見つける。
「オスカーさん?」
叔父の優秀な部下である。
彼は忙しい叔父に代わってよくここを訪れるので、
アンジェリークとも顔見知りだった。
「とりあえずお嬢ちゃんにこれだけ渡してくるように言われたんだ」
それは大学の受験案内。
そのまま付属のアルカディアに行くならともかく、他を受験するなら
今から勉強しなくてはならない。
叔父はそれを考えてオスカーに持たせたのだ。
厳格な叔父と、意外に自分の意志は譲らないアンジェリークとでは
話が平行線をたどるばかり…。
故に、彼が仲介役として度々活躍していた。

「オスカーさん…私は、このまま絵を続けます。
 叔父さんに伝えてください」
今日は彼女の瞳に迷いがないことにオスカーは気がついた。
「決めたのか…」
「はい」
アンジェリークはしっかりとした笑みで頷いた。
「わざわざありがとうございました。オスカーさん。
 せっかく来て頂いたんだし、お茶でも飲んでいきませんか?」
「いや、このまま社に戻らなきゃならないんでな。
 またの機会にさせてもらうよ」
しかし、そのまま立ち去ろうとしたオスカーをアンジェリークの声が引き止めた。

「あの…。『ごめんなさい』、叔父さんにそう伝えてくれますか?」
振り向けばさっきとは違い、泣きそうな表情をしたアンジェリークがいた。
「お嬢ちゃん…」
「叔父さんが私の為を思っていろいろと勧めてくれるのは分かってるんです…」
ただ単に彼は芸術を軽視しているわけではない。
もしそうだったら、こんなに心を痛めずにすんだ。
アンジェリークの将来を真剣に考えてこそ、の行動だった。
だからそれを撥ねつけるような真似は辛かった。
「だけど…私はやっぱり絵を描きたい。それに気付いたんです」
「お嬢ちゃんが本気だってことはちゃんと伝えておくよ」
「すみません…。今度、きちんと話をしたいと言っておいてください。
 叔父さんはいつも忙しいから…いつでもいいから、と」
「ああ、わかった」

オスカーの背中を見送ってから、アンジェリークは部屋に入った。
すぐに夕飯の支度をする気にもなれず、お茶を淹れ、テーブルに
組んだ腕の上に額をついて考え込む。
「ごめんなさい…叔父さん」
叔父の望みには気付いていた。
今まで、アンジェリークの成績は常にトップクラスだった。
生来の生真面目さがでるのか、勉強面も手を抜くようなことはなかった。
さらに勉強をしていけば近い未来、叔父の会社を支える人材に
なりうる存在だった。
そちらの才能も期待されていただけあって、断りにくかったのだ。
「いっそのこと…絵しか能がなければ良かったのに…」
いつか聞かされたことがあった。
アンジェリークを優秀な社員に育て上げ、ゆくゆくはオスカーとアンジェリークに
会社を任せようとしている、という噂を。
彼のファンだという女子社員にそんな嫉妬混じりの話を聞かされ、さすがに
それは単なる噂だと言っておいたが…。
「叔父さんが私に期待してるのは分かるけど、
 オスカーさんと…なんてあるわけないじゃない。
 あの人大人だし…いつも違う女の人と一緒だし…。
 それに私は絵を描きたいって気付いちゃったもの…」

そしてそれに気付かせてくれた人を思い出す。
あの日、目覚めた時、目の前にいた銀色の髪の人。
あまりに綺麗で絵から抜け出してきたのかと思った。
左右色違いの瞳がとても神秘的で、でもすごく優しくて見惚れてしまった。
はたから見ると、無愛想でとっつきにくそうだが実際はそんなことなかった。
笑顔が優しくて、なんだかんだいって自分に付き合ってくれて。
たまにアドバイスをしてくれて…。
あの人の傍はすごく居心地がいい。
「って何を考えてるの、私…。アリオスはオスカーさんより
 ずっと大人じゃない。それこそありえない話だわ」
結局彼からもらってしまったマフラーを見つめて、アンジェリークは呟いた。
しかし、なぜか自分の言葉が刺となり、心に刺さったまま抜けない。



「アンジェリーク。どうした?」
いつもはアリオスの姿が見えたと同時に、子犬のように駆け寄って来る
少女が今日はベンチに座ったままだった。
「熱でもあるのか?」
アリオスの少し冷たい大きな手の平がアンジェリークの額に触れる。
「違う、か」
「……アリオス…ってすごい人だったんだね」
「?」
アンジェリークはポツリと話し始めた。
「あの湖の絵…優秀者が今日、発表されたの」
「結果は?」
この時ばかりはアンジェリークは嬉しそうに微笑んだ。
「私が選ばれたのっ。リュミエール先生に誉められちゃった」
学内で水の表現については、彼の右に出るものはいない。
その彼に湖の部分が特に良く描けていると誉められた。

近頃アンジェリークの絵は上達が目覚しく、それに気付いたリュミエールと
いろいろと話しているうちにアリオスの事を話したのだ。
そして、彼の口からアリオスの事をいろいろと聞き、その事実に驚いた。
「私、あなたが…アルヴィース家の人だなんて知らずに…」
アンジェリークは、ごめんなさい、と俯いてしまった。
「ちょっと待て…。そこでなんで謝る必要がある?」
アリオスは彼女の頬を両手で包んで自分の方へと向けさせた。
仕種はこのうえなく優しかったが、瞳が怒っているようだった。
それに気付き、アンジェリークは声が震えてしまう。
「だって…。勝手に私に付き合わせちゃったり…、
 いろいろと教えてもらったり…。
 アルヴィースの絵画教室の講師相手に…失礼なこと…
 …迷惑もかけちゃって…」
「だから。どうして迷惑かけたなんて思うんだ?」
「私…アリオスの邪魔にならなかった?
 アリオス…本来のお仕事いろいろと大変なはずでしょ?」
画家でもあり、講師でもある彼の大切な時間を無駄に奪ってしまったのでは
ないか、と本気で恐れてしまった。

大きな瞳から零れ落ちた一粒の涙がアリオスの手を濡らした。
「…このバカ。俺がいやいやながらこんなに通うかよ。
 気に入らねぇことなら、絶対しない主義のこの俺が」
アリオスは彼女の涙を拭ってやった。
「じゃあ…」
「くだらねぇこと考えんな。今まで通りのお前でいい」
「…アリオスの傍にいてもいいの?」
「ああ」
「アリオス〜〜」
ほっとしたせいか涙がぼろぼろと溢れてきた。
彼女のそれまでの不安が手に取るようにわかって、アリオスは溜め息をついた。
泣きじゃくるアンジェリークを子供をあやすように抱きしめ、
その背中を軽く叩いてやる。
「ったく…。なんでそんなこと考えたんだか…。
 俺は俺で、お前はお前だろ。家の名前は関係ない」
「…うん」
優しく降り注いでくる心地良い声にアンジェリークは何度も頷いた。


「落ちついたか」
「うん。今日はごめんなさい」
絵を描くどころじゃなかったね、とアンジェリークは照れくさそうに微笑んだ。
「せっかくのいい知らせがあったのにな」
「え?」
「お前が優秀者に選ばれた」
そうだった、と今更ながら思い出す少女を苦笑しつつ見やり、にやりと笑った。
「たしか…優秀者に選ばれたら『お礼』をしてくれるんだったな」
「う…うん」
彼の笑顔になんだかアンジェリークは不安になる。
何を要求されるんだろう、と。

「モデルになってくれないか?」
「モデル?」
アンジェリークは大きな目を丸くする。
「私を…描くの?」
「ああ」
アリオスの描く人物は見たことがないな、とアンジェリークは過去の
彼の絵を思い浮かべた。いつも彼は風景しか描いていなかった。
それに、なにより断る理由がアンジェリークにはなかった。
「私でよければ…」


なるべく早く仕上げたい、というアリオスの希望でそのまま
彼の屋敷へと二人は向かった。
今から始めたら、日は暮れてしまうし、寒くなる。
多少遅くなっても明日は休日だから大丈夫、ということでアンジェリークも異存はなかった。
「うわ…おっきなお屋敷…」
「入り口でぼけっとすんな。さっさと行くぞ」
「あ、はーい」
アトリエまでの長い距離を歩いて、アンジェリークは感動したように言った。
「すごいねぇ…でも、お掃除大変そう」
その主婦並の感想にアリオスは笑いながら答えてやった。
「定期的に人にやらせてる」
「ふーん…」


やっと目的地に着き、アンジェリークはアリオスが用意してくれたソファに座った。
長時間座っていても疲れない、ふわふわのソファである。
「あれ…アリオス…もう下書きできてるの?」
アリオスの準備を見ていたアンジェリークは驚いて彼に尋ねた。
「ああ。だけどやっぱり実物見て描いた方がいいからな」
「そ…だよね」
この絵を描いている時は、彼は自分のことを思い浮かべてくれていたのだ、
と思うと胸がじわりと熱くなった。
同時に、頬が赤くなってないか不安にもなった。

「ねぇ…すごく静かだけど…このお屋敷誰もいないの?」
「ああ。面倒くせーからな」
アリオスは作業を進めながら答えた。
「たいていのことは自分で出来るし、別に困ることはねぇ」
「そっか……」
二人きりなんだ、というアンジェリークの心を読んだのか、
アリオスは苦笑して言った。
「安心しろよ。『モデル』に手を出したりはしない」
「なっ…。そんな心配してないもんっ」


「…誰もいない大きなお屋敷って寂しくない?」
「別に。それになんだかんだいって来客は多いしな」
「ねぇ…」
「今度はなんだ。黙って座ってられねぇのか…」
「だ、だって…私、モデルなんてやったことないもん…。
 ただ見られてるのって緊張する…。
 それにアリオス、絶対話しかければ答えてくれるし」
「………もう喋るな。集中する」
「…はーい…」
やけにぶっきらぼうなその言い方にアンジェリークは苦笑する。
彼流の照れ隠しなのだとすぐに分かった。

(でも…本当に落ちつかないよ…)
切れるように鋭い視線。
魅力的な金と碧の瞳に見つめられてる、と思うだけで緊張してしまう。
「喋るなとは言ったが、無表情になれとは言ってねぇぞ」
「もぉ…難しいよ。なんにもないのに笑えないよ」
「今は笑ってんじゃねぇか」
「へ?」
アンジェリークはぴたりと止まる。そしてふわりと笑って言った。
「アリオスと話してたら笑えるよ」
だからやっぱりお話しよう、と。
アリオスは仕方がないなという顔で微笑んだ。


「誰が緊張してるって…?
 なにがお話しよう、だ…?」
しばらくしてアリオスは長い前髪を掻き揚げながら溜め息をついた。
目の前にはあまりに居心地の良いソファの上で熟睡している少女がいた。
「緊張してるやつが眠れるか?
 わざわざ話を振っといて寝るか、フツー…?」
いったん作業を中止して、アリオスはアンジェリークを抱き上げ、
アトリエから近い自室へと運んで行った。
「明日は学校ねーし…。家で待ってる人間もいねーなら大丈夫だよな…」
彼のベッドに横たわらせ、布団を肩までかけてやる。
少女の安心しきった寝顔を見て微笑む。
「ミューズ…女神、か。天使の方が似合うかもな、アンジェリーク」
頬にかかる髪を退けてやり、額に口接ける。
「お前のおかげで俺は……」
アリオスは羽根のような優しいキスを彼女の唇に落とし、部屋から出ていった。


夜が明けて、朝日が部屋に入りこむ。
アンジェリークは目を覚まし、そして数秒固まった。
「……え? …あ、あれ? ………ここ…どこ…?」
見覚えのないベッド、そして部屋…。
混乱気味の頭で昨日の出来事を順番に思い出していく。
「昨日…そうだ。アトリエで…あれ…? 私、いつのまにここに…」
「目が覚めたのか、しっかし…とんでもねー眠り姫だな」
ちょうど部屋に入ってきたアリオスを見て、アンジェリークは事の顛末を理解した。
「ア、アリオス…。ごめんなさい〜〜」
どこでも寝られんだな…。と半ば感心したように言われ、アンジェリークは
わたわたとベッドから抜け出した。

「あの…絵、描けた?」
「ああ」
「良かった…。私ちゃんとモデルできなかったから…
 足引っ張っちゃったかも、て…」
「そうでもないぜ」
落ちこみかけたアンジェリークの髪をくしゃくしゃとかきまぜて、アリオスは微笑んだ。
「モデルがどうであれ、描いたのは俺だからな」
その自信に満ちた笑みにアンジェリークも笑顔になる。
「完成品はどこ?」
「もうしまった」
「え〜。本人に見せてくれないの?」
「寝こけてた罰だ。俺は徹夜明けだってのに」
「う……」
そう言われるとアンジェリークは言い返せない。
「まぁ、機会があれば見せてやるよ」
「うん。待ってるね」



それから時間は少し流れて、晩秋と呼ばれる季節となった。
相変わらず、アンジェリークは学校で授業を終えた後、母親へ会いに行き、
そして公園へと向かう。
今までと変わらずアリオスと他愛無い話をしながら(主にアンジェリークが
からかわれているのだが)、絵を描いている。
「あの時がチャンス…だったかなぁ…」
アンジェリークはぼんやりと教室の窓から空を眺めていた。
机に頬杖をつき、ため息をつく。
アリオスの腕の中で泣いたあの日。
彼のお荷物になっていないか、不安で不安でしょうがなかった。
その想いがどこから来たものなのか、あとになってから気付いた。
「あの時に好き、て言っちゃえばよかった…」
今は二人でいるこの空間のバランスを壊すのが怖くて、言い出せないでいる。
あの時ならば言えたかもしれない、とアンジェリークは
今更どうしようもないと思いながらもその考えが抜けきらない。
「あ、でも、あの時は好きだって気付いてなかったか…」

「なーにぶつぶつ言ってんの?」
「レイチェル…」
「ふふふ…。すっごい面白い情報手に入れたんだけど♪」
レイチェルは楽しそうに微笑んで言った。手には薄い小冊子。
「なに?」
「これね、この前行われたコンクールの結果」
まだ世間には発表されてないけどちょっとしたコネで手に入れちゃった、と
レイチェルは舌を出す。
彼女の父親は有名な美術評論家で、今回の審査員も務めているという。
「コンクール? そんなのあったっけ…」
「ううん。うちの学校のじゃなくて、プロの」
レイチェルはプロ中のプロばかりが参加する今年最大のコンクールの名をあげた。
「それで面白いこと…? うちの先生が誰か受賞した、とか?」
「ハズレー」
レイチェルはとりあえず見てよ、と言わんばかりにその冊子を開く。
それはグランプリを取った作品の写真。
「あ……」
それを見つめてアンジェリークは硬直する。
そこにいたのはこちらに向かって微笑む自分の姿だった。
「ア、リオス……」
アンジェリークはがたん、と立ちあがった。
「レイチェル…私…ちょっと緊急事態発生かも。…行ってくる」
「OK。あとで詳しいこと教えんのよ」

頼りになる親友の声を背中に受け、アンジェリークはアリオスの屋敷へと向かった。
ずっと走ってきたため、上手く息が吸えないまま呼び鈴を鳴らす。
(何も考えずに来ちゃったけど、いないかな…)
アンジェリークの危惧は外れたようで、すぐにアリオスが出てきた。
「アンジェリーク……どうした? 学校は?」
「あの…私をモデルに…した、絵…」
「ああ、知ったのか。それで駆けつけてきたのか?」
もはや話すのも辛くてアンジェリークはこくこくと頷く。
そんな彼女を見ながらアリオスは少し考え、ちょっと待ってろと言い置いて
屋敷の中に戻ってしまった。
「とりあえずこれ飲んで落ちつけ」
「…ありがと」
アンジェリークはお礼を言って、アリオスから水を受け取った。
「で…ちょっと付き合えよ。どうせもう学校サボってんだ。平気だろ」

彼の車に乗って、着いたところは小さなホールだった。
「本当は明日から開くんだけどな」
アリオスは係員に話をした後、アンジェリークの元に来て微笑んだ。
「今、お前に見てもらいたい」
静まりかえった会場内には、コンクールに出品された絵画が展示されていた。
一番目立つところに置かれた絵の前でアンジェリークは立ち止まった。
「これ…私…?」
アンジェリークは呆然と絵とアリオスを交互に見つめる。
「ああ…」
「私…こんなに綺麗じゃない…それにこんな立派なタイトル…」
少女の戸惑いにアリオスは肩を震わせて笑った。
そして、後ろからそっと包みこむように抱きしめた。
彼女の耳元で囁く。
「お前が俺の女神だ」

グランプリを取ったアリオスの絵はアンジェリークがアリオスに向けていた
優しく、温かい微笑み。作品のタイトルは『Muse』だった。
「お前のおかげで俺は描きたいものを見つけられた。
 お前が俺に描くことを教えてくれた」
「私が…? 逆じゃなくて?」
アンジェリークは本気で首を傾げる。
アリオスにいろいろと教わった記憶はあるが、自分が彼に何かを教えた記憶はない。
「ああ。だからこれからも傍にいてくれないか? モデルとして…」
アンジェリークの瞳を覗き込み、意地悪く間をあけて囁いた。
「そして、恋人として」
「アリオスっ」
アンジェリークは振り返って彼に抱きついた。
アリオスはそんな少女を受け止め、強く抱きしめかえす。
「大好きよ、アリオス。ずっとずっと一緒にいてね」
「俺より先に言うなよ」
「ふふ、早い者勝ちよ」
「ったく…。愛してるぜ、アンジェリーク」
「私もよ、アリオス」


アリオスにまだ見せたいものがあると言われ、アンジェリークは彼の屋敷に戻ってきた。
「? 行き先…アトリエじゃないの?」
「アトリエに置くとあいつに見つけられるからな…。俺の部屋だ」
「?」
そこで彼が取り出したものは一枚のキャンバス。
「これはお前にやる」
「………」
「こっちのタイトルは『angel』だ」
「アリオス…いつのまに…」
「お前の寝顔はよく見るからな」
「…まだ二回じゃない」
それは陽だまりのなか、天使が眠っている絵だった。
自分の腕に頬を乗せ、うたた寝をしている可愛らしい天使。
女神のような神々しさとはまた違う彼女の魅力。
「あ…だから徹夜だったんだ…」
あの日のことをアンジェリークは思い出した。
描くのが早いアリオスが徹夜をするなんて正直意外だったが、
二枚描いていたなら分かる気がする、とアンジェリークは頷いた。

「俺が一番感情込められる絵は…お前の絵だって気付いたんだ」
「アリオス…」
だから大切なコンクールに彼女の絵で勝負をした。
「…今の時点であの絵を買いたいって問い合わせが殺到してるそうだ」
「すごいね…」
「だがあの絵は誰にも売らない」
「どうして?」
「どこの誰とも分からねぇやつにお前をやれるか」
その理由にアンジェリークは吹き出してしまった。


「ね、アリオス…。私ね…アリオスに告白して上手くいったら
 言おうと思ってたことがあるの」
結局アリオスに先を越されちゃったんだけど、とアンジェリークは微笑んで言った。
「なんだ?」
「えーと…ね」
頬を染めてなかなか言い出さない少女にアリオスはからかうように笑った。
「言えねーようなことか?」
「も、もうっ…。つまり、ね……。
 ファーストキスのやり直し、お願いしてもいい?」
「……………っっお前、狸寝入りか?」
アリオスは少しの間アンジェリークの発言の意味を考え、
その後に、珍しく驚いたような表情をみせた。

「た、狸寝入りなんかじゃないもんっ。
 ただ…アリオスに呼ばれたような気がして…」
たとえ眠っていても、彼が自分を呼ぶ声には反応した。
しかし目を開ける前にそういう状況ではなくなってしまったのだ。
しかもそのまま起きる機会を逃し、朝まで眠ってしまったので
夢かもしれない、とも思っていたという…。
「ったく…お前、本当飽きねぇやつだな」
「なにそれ…」
「誉めてやってんだ」
真っ赤になって睨みつける少女を笑いながら引き寄せ、
アリオスは彼女の願いを叶えてやった。



その後、女神の祝福のおかげかアリオスが描く絵はどの絵も素晴らしく、
高い評価を受けた。
しかし、彼の描く『女神』と『天使』のシリーズだけはどれだけ頼み込まれても、
金額を積まれても、決して売らなかったという。
その理由を人々は不思議がっていたが、それが単なる彼の独占欲だと
知る人物はごくわずかであった。

                                     〜fin〜



やっと終わらせることが出来ました。
画家アリオス…いかがでしたでしょうか? tinkさま。

イメージ壊してたらごめんなさい。
とりあえずどんな設定でも『甘い二人』は
うちの基本ですが(笑)
このお話をtinkさまに捧げます。

 

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