My little Emperor



冷たい風が吹き抜ける晩。
アンジェリークは屋敷の本館から使用人棟へと歩きながら伸びをした。
「今日もがんばったぁ〜…」
荒れつつある白い手に息を吐きかける。
「クリームあったかなぁ。
 ひどくならないうちに塗っておかないと……」

本館に比べて質素な使用人棟。
毎日最後にここへ帰ってくるのはアンジェリークと決まっていた。
「ただいま〜」
すでに寝静まっている時間なので誰も迎えてくれる人がいないのは
分かりきっているが、つい言ってしまう。
「あら……」
しかし、今夜は出迎えてくれるものがいた。
足元に擦り寄ってくる黒い猫にアンジェリークは顔をほころばせた。
「どうしたの?
 いつもは中まで入ってこないのに……。
 ていうかどこから入り込んだの?
 誰かに見つかったらつまみ出されるわよ」
屋敷周辺でよく見かける黒猫は反省した様子もなく小さく鳴く。
「もう……おいで」
アンジェリークは呆れたように笑うと深夜の厨房に向かった。
黒猫はそのアンジェリークの前後にまとわりつきながらついてくる。
「イタズラしちゃダメよ」
厨房に食材以外の動物などご法度である。
他の使用人、特に料理長にバレれば怒られることは目に見えている。
アンジェリークは猫にはかっこうの遊び場になりそうな厨房を通り過ぎて
真っ直ぐに勝手口を開ける。
「ここで待っててね」
わかったとばかりに鳴く黒猫ににっこり笑ってアンジェリークは冷蔵庫を開けた。
ミルクを少しだけもらって皿に入れる。
薄明かりの下、勝手口を出たところに皿を置き
一生懸命にミルクを舐める黒猫を見つめる。
「ふふ、今日だけよ。
 あなた誰かに見つかったら大変なんだから、ここまで来ちゃダメよ」
解っているのかいないのか……黒猫はミルクを舐めるのを止めて
アンジェリークを見上げ、みゃあと可愛らしく答えた。





「それにしても外は寒いなぁ…」
早く自室に戻りたい気温だが、ミルク皿をここに放置して帰るわけにもいかない。
必然的に黒猫の食事が終わるまでアンジェリークは待つことになる。
「私もなにか温かいもの飲もうかな……」
そう呟いた直後に昼間買ったものを思い出した。
買い物途中の公園で珍しい旅の行商人だと名乗る人から紅茶を買ったのだ。
「お嬢さんにはこの紅茶が良さそうだね。
 幸せを運んでくれるお茶だよ」
ちょっと落ち込んでいたアンジェリークに彼は優しい笑みで言ってくれたのだ。
商人のくせにお代はいらないと言う彼に
アンジェリークはそんなわけにはいかない、と主張して……
結局双方が妥協して気持ちばかりの価格で買うことになった。
「幸せを運ぶ紅茶だって……どんなお茶だろう」
温かい湯気がたつティーカップを持って再び黒猫の隣に……勝手口の小階段に座る。
黒猫はアンジェリークが戻ってきて嬉しそうに一声鳴くとまたミルク皿に集中した。
「いい香り……。
 でも初めてだわ。こんな香り」
ここはそれなりの屋敷なので、それに見合う紅茶も各種扱っている。
アンジェリーク自身もかなりの紅茶好きだったが、そんな少女でも知らない香りだった。
紅茶自身の味を知りたくて、砂糖もミルクも入れずストレートで飲んでみることにした。
「どこか異国のお茶なのかな……?
 美味しかったらお屋敷で使わせてもらおうかな。
 うん、そうすれば商人さんへの恩返しにもなるよね」
屋敷に置くとなれば大量注文である。
きっと彼にとって儲け話になる。
「ではでは、お味見」
アンジェリークが口をつけようとしたその時、黒猫はミルクを飲み終わったので
とんとんと数段しかない階段を身軽に下りていってしまった。
アンジェリークはそのすらりとした後姿を見送りながら口を尖らせた。
「もう、薄情ね。
 私、あなたに付き合ってお茶淹れてきたのに」

外は寒いけれど……座って落ち着いてしまったので
せっかくだからここでお茶を飲んでしまうことにした。
暖を取るように両手でティーカップを包み込む。
ゆらゆらと揺れる水面を見つめてアンジェリークは小さく息をついた。
下を向く仕草につられて肩先で切り揃えられたばかりの栗色の髪がさらさらと落ちる。
涙が落ちそうになったので上を向いた。
「月が見えないなぁ」
夜空を見上げても優しい光を放つ月は見当たらなかった。
ティーカップの中の水面ではぽつぽつと星が瞬いているだけ。
お月見と洒落こむならまだしも、こんなところに夜中一人だけでいると心細くなってしまう。
一緒にいるはずだった黒猫はさっさと帰ってしまったし…。
「話し相手がほしいよぉ…」
アンジェリークがぽつりと呟いて程よく冷めた紅茶を飲もうとしたその時、
目も眩むほどの光が辺りを包んだ。
「きゃっ……な、なに?」
アンジェリークはティーカップを持ったまま呆然と固まって、その現象を眺めていた。
驚きすぎて光を避けようとすることも、逃げようとすることもできなかった。
ただ階段に座ったまま、目の前の白い光が徐々に弱くなって
また元の暗がりに戻っていくのを見つめるのみ。
「………今の光、なんだろ…?」
ランプやキャンドルはあんな光ではないし、以前見た花火に近いものがあるなぁ、と
ぼんやりと考えていた。
「我を呼んだな?」
「え?」
男の人の声が聞こえた気がしてあたりをきょろきょろ見てみるが、誰も見えない。
「え、え?」
奇妙な現象の連続にさすがにのんびりやアンジェリークも心持ち青ざめた。
「や、う、うそ、このお屋敷……いわくつきの話なんてない、はずよね?
 でもでもやっぱり真っ直ぐお部屋戻ってお茶飲むべきだった〜?」
「何を言っている?
 ここだ。下を見てみろ」
「し、下?」
言われて素直に足元を見てみる。
アンジェリークが腰掛けていた段の一段下に小さな黒い人形のようなものがいる。
「………」
アンジェリークは再び固まる。
こういう時にとっさに動けないタチなのである。
「どうした?」
自分を見つめたまま凍りついた少女の近くに寄るため、ソレは少女の目の前にふわりと浮かんだ。
アンジェリークは反射的にティーカップを横に置いて、つい目の前に飛んできたソレを受け止める。
そして自分を見上げるソレをまじまじと見つめてしまう。
胸の前で開いた両の手の平の上に着地したのは、
黒い髪に不思議な金と碧の瞳を持つ人らしきもの。
軽装備な部類に入る甲冑と黒いマントを身に付けている。
これが普通の人間サイズならば見惚れること間違いなしだっただろうが、
手の平サイズの彼は人並みはずれた美貌を持っているにも関わらず
どこか可愛らしさがあった。
「かわいい……」
思ったことを素直に口に出すアンジェリークは先程までの恐怖も忘れて
満面の笑みで彼に向かってそう言ってしまった。
しかし、その言葉は彼のお気に召さなかったらしい。
偉そうにふんぞり返って口を開く。
「無礼者め……。
 我は皇帝レヴィアス。二度とそのように言うな」
「や〜ん、ますますかわいい」
頬擦りしかねない勢いのアンジェリークと対照的にレヴィアスと名乗った彼は
ますます機嫌が悪くなったようである。
「人の話を聞け」
「あなただぁれ?
 私はね、アンジェリーク。
 ねぇ、どうしてこんなとこにいるの?」
マイペースに話を進める少女にレヴィアスは溜め息をひとつ吐いた。
「まったく……本当にこれがあいつの審査をクリアした人間か?」
「?」
アンジェリークが首を傾げて再び口を開こうとした時、厨房の方から声が聞こえた。
「誰かいるのか?」
この屋敷の使用人の一人の声である。
深夜の話し声を不審に思ったせいか、様子を見に来たらしい。
アンジェリークは心臓が飛び出そうなほど驚き、慌てて口を手で覆った。
「今更押さえたところで遅いだろうが……」
レヴィアスのもっともな呟きにアンジェリークは慌てて「しーっ」と人差し指を立てる。
そして、どうか見つかりませんように…と祈りながら息を潜めた。
しかし、その思いも空しく勝手口の扉が開かれた。



「アンジェリーク様…」
互いに数秒固まっていたが、声を出したのは彼が先だった。
「あ、あの、ごめんなさいっ。
 すぐに片付けます」
アンジェリークは階段に座り込んだまま謝った。
「片付け……?」
少女の言葉に一瞬首を傾げ、そして下に置かれた皿に視線を落として「ああ」と笑う。
「奥様やお嬢様に見つかると大変ですよ」
「は〜い。もうしません。
 あげる時は敷地の外でにします」
やんわりとした警告にアンジェリークは肩を竦めて微笑んだ。
「それに……こんな時間にこんな所にいたら
 アンジェリーク様のお身体にもよくありません」
「あなたも……アンジェリーク『様』なんて言ったら怒られちゃうわよ?」
くすりと微笑む少女を彼は複雑な表情で見つめ返す。
「もう遅いわ。
 お部屋に戻りましょう?」
「はい」





「どういうことだ?」
「どういうこと?」
使用人が自室に戻った後、アンジェリークが皿を片付けながら
肩に乗っているレヴィアスに訊ねたのと、彼が口を開いたのはほぼ同時だった。
「……言ってみろ」
互いにきょとんと見つめ合って、そしてレヴィアスが譲歩した。
「さっき、あなた私の手の上にいたのにあの人はなんにも聞かなかったわ」
彼が気付いたのはミルクを入れていた皿だけである。
「お前にしか我は見えない」
「ふぅん……そうなんだ。
 すごいね」
不思議な現象もすんなり受け入れてしまっている少女はある意味大物だと
呆れ半分感心半分で観察していたレヴィアスだが、やがて自分の質問も彼女に投げた。
「お前……アンジェリーク、だったな。
 その格好はどう見ても使用人ではないか?」
アンジェリークが着ているのはシンプルなメイド服である。
「ええ、そうよ」
「だがあいつはお前に敬意を払っていた」
先程の会話はとても使用人同士の気軽なものとは思えない。
「お部屋で話そうか。
 私のことも、あなたのことも……」
皿を所定の位置にしまいこんだアンジェリークはちょっと困ったように微笑んだ。
「………ああ、そうだな」
ほんの少しの間しか一緒にいないのにくるくると様々な表情を見たが、
この微笑みだけはできればもう見たくないと思うような寂しげな表情だった。
見ている方が苦しくなりそうな……胸に痛い笑みである。
そこまで思ってレヴィアスはふと思い当たった。
(なるほど……だから我がここへ来たのか)
彼女にそんな表情をさせないために、自分は彼女の元へ来たのだ。





「先にお風呂入っちゃっていい?」
部屋に戻ったアンジェリークはレヴィアスに訊ねた。
「朝早いのよ。あんまり夜更かしもできないのよね。
 学校行く前に一仕事しなきゃいけないし……」
「メイドもやって学校にも行っているのか?」
「う〜ん、その辺の事情はおいおい話すけど……。
 そだ、一緒に入る?」
そうしたら入りながら話せるよ、と無邪気に笑う。
「……仮にも女だろう?」
呆れた表情で言う彼にアンジェリークは頬を膨らませる。
「仮にも……って失礼ね。
 それに、あなた相手に恥ずかしがる必要もないじゃない」
「いいからさっさといってこい」
「は〜い」
しばらくはアンジェリークが浴室からレヴィアスに話しかける声や
お湯の跳ねる音が聞こえていたのだが、少しすると物音ひとつしなくなった。
やっと静かになったかと思ったのだが……今度は静寂が長すぎる。
「………………」
まさか、という思いがレヴィアスの頭によぎる。
会って間もないが、あの少女の雰囲気をある程度掴めてしまう。
「アンジェリーク?」
少女に呼びかけてみても返事がない。
小さな身体ではドアは開けられないので仕方なく魔法で浴室に入れば、
案の定浴槽の中で眠りこけているアンジェリークがいた。
「おいっ!」
「……ふぇ……?
 きゃあっ!」
レヴィアスの声ではっと目を覚ましたおかげで、ずるりと身体が滑り
アンジェリークはそのままそれほど深くはない浴槽に沈んだ。
「………あ、あー…びっくりしたぁ…」
「……それはこっちのセリフだ」
浴槽の縁に掴まってアンジェリークがぱちぱちと目を瞬いている。
少女が浴槽で溺れそうになった際に派手にお湯をかけられたレヴィアスは
濡れた服を眺めながら至極迷惑そうに眉を顰めた。
「えへへ、ごめんね……」
「…………もういい。
 驚かせた我にも責任はある」
溜め息を吐きつつ、レヴィアスは濡れた髪をかきあげた。 
「ついでにもうひとつごめんね」
「?」
まだ何かされただろうか、とレヴィアスは考えたが思い当たらない。
アンジェリークは浴槽の縁を掴んだ腕に倒れるように額を当てながら
消えるような小さな声で呟いた。
「しばらく……動けないかも…」
それきり何も言わず、ぴくりとも動かないアンジェリークを見つめて数秒。
「のぼせたなら先にそう言え!」
……またレヴィアスの声が浴室に響いた。



レヴィアスがぱちんと指を鳴らすとアンジェリークの身体がふわりと浮かび、バスタオルに包まれる。
そして、そのままふわふわとベッドへと運ばれていく。
「……まったく、面倒ばかりかけさせる。
 自己紹介すらまともにさせない気か?」
文句を言いながらも小さな手がアンジェリークの額に触れる。
「?」
一瞬訝しげにレヴィアスは眉を顰めたが、額に触れた手は離さずにいた。
癒しの力を送りこんで、少女の顔色が良くなってきたのを確認する。
「ゆっくり眠っていろ」
そしてレヴィアスはアンジェリークの小さな部屋から姿を消した。



レヴィアスはふわふわと宙を飛びながら使用人棟を一回りする。
そしてすぐ近くにある立派な屋敷に目を向けた。
「……見てくるか。
 アンジェリークが倒れなければ我がここまでする必要もないというのに……」
それでも気になることがあったので、レヴィアスは出向く気になったのだ。
口や態度の割りに働き者な彼は暗闇の中、屋敷へと出かけていった。
「それなりに上流階級の屋敷なようだな」
寝静まった屋敷を探索し、屋敷の造りや調度品を眺めながらレヴィアスは判断していく。
いくつもの部屋を見ていくうちに物置部屋として使われている部屋に遭遇した。
部屋の様子からして最近運ばれてきた物が多いようである。
その中に古い肖像画があった。
家族三人の肖像画。
温厚そうな両親とその真ん中で無邪気に笑っている少女。
その少女は幼い頃のアンジェリークだとすぐに分かった。
今も昔も変わらない笑顔。
「ふ……ん」
レヴィアスは面白くなさそうに納得すると、用は済んだとばかりに出て行った。





                                    〜 to be continued 〜







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