Fairy Tale



いつもと変わらない、今までもこれからも同じはずの日常生活。
なのに何かが足りないとアンジェリークは気にかかっていた。
しかし、それを考えようとしても砂が手から零れ落ちるように考えがまとまらない。
「アンジェ、どうしたの?」
「う〜ん…」
レイチェルが問いかけてもなんと返事をするべきかわからない。
以前にもこうして問われて答えられなかったことがあった気がするが…。
「なんでもない、たぶん」
「そう?
 なんかぼ〜っとしてるしさ。ヘンなアンジェ」
くすくすと笑う親友にアンジェリークは頬を膨らませた。
「そんなことないもん…」
そう言ったものの…一番ヘンだと思っているのは誰よりも自分だった。



夢を見た。
誰かが自分を呼んでいる。
覚えがないはずなのに、すごく安心する低くて心地良い男の人の声。
「だれ?」
相手が苦笑した空気は伝わってきたが、彼の表情は濃い霧の中にいるようにわからない。
愛しげに呼ぶ声が聞こえる。
「だれぇ…」
知りたいのに分からなくて泣きたくなる。
知っていなければならないはずなのに…となぜか焦りが生じる。



「………」
翌朝、アンジェリークは真っ赤になって目を覚ました。
「二日続けて…ヘンな夢、見ちゃった…。
 しかも今日は…」
ばふ、と再度ベッドに倒れこむ。
「なんであんな夢見ちゃったんだろう…」
今日の夢は覚えていたのだが…覚えてなくてもいいのにと思う程、思い返すと恥ずかしい。
顔さえ見えない、誰かも分からない人とキスをした。
なぜかその感触までリアルに覚えていてふるふると首を振った。
そして両耳を押さえる。
夢の声が離れない。
自分を呼ぶ声。
そして、最後に囁かれた真摯な声。
『愛してる、アンジェリーク…』
「私、どうしちゃったのぉ〜」



  ☆  ★  ☆



「ふざけんな!」
嫌悪感すら覚える宮殿の謁見の間でアリオスは怒鳴った。
頭を下げたまま動かない大臣達を前に冷ややかに続ける。
彼らは明日の婚約発表の最終打ち合わせに来ているのだった。
「誰が婚約するんだって?」
「皇子とダリア様です」
「俺は承諾してないはずだが?」
乗り気でないのは周知の事実だった。
たくさんの妃候補がいたにも関わらず、戯れの相手に選んだのは貴族以外の女性ばかり。
面倒な関係は持つ気はなかったのに…。
「なんでこんなことになってるんだ。馬鹿馬鹿しい。
 俺は戻るぞ」
「どこに戻ると言うのだ」
現皇帝にアリオスは叩きつけるように返した。
「あいつのところに決まってんだろ」
「もうあの娘には近づくな」
「第一、二度目の召喚は有り得ないわ」
同一人物が複数回呼び出すことはできない。
そういう決まりになっている。
ダリアを睨みながらアリオスは低い声で言った。
「何が決まりだ。それを言えば最後の願いも契約違反じゃねぇか。
 俺はあいつの最後の願いを叶えてない…」
この国に戻ってきたのは自分の意思ではない。
アリオスは自分を止める声を無視してある場所に行った。



「よくも引き戻してくれたな。クラヴィス」
彼はこの世界と別の世界との扉を護る者。
召喚される時も仕事が終わり帰ってくる時もここが唯一の通り道となる。
「仕方あるまい」
薄暗い部屋の中、気怠げに長椅子から身を起こし彼は悪びれもなく返した。
「皆、必死なようだったからな…」
無理矢理薦められる結婚にうんざりしていたアリオスは…
実はタイミング良く呼び出されたのをいいことにすぐには帰る気がなかった。
かといって何かに執着することのない彼が召喚先で長居するとも思えない。
人間に比べて永い時を生きる彼らの時間感覚で、
しばらく待っていれば帰ってくるだろうと皆が高を括っていた。
しかし、いつまで経っても帰ってこない彼の様子を見に密かに使者をやって…
傍観していられない状況になっていることがわかった。
今のアリオスならば故郷よりも彼女を選びかねない。
ただ一人の後継ぎのそんな報告を受けて皇帝や大臣達が顔色を変える中、
真っ先に行動に出たのが最有力妃候補のダリアだった。
「皇帝や姫、大臣達に頼まれてはな…」
この世界において契約は絶対である。
どんなに魔力のある者でも逆らえない。
だから…力ある者の裏をかくにはそれを利用するしかなかった。
最後の願いを叶えた時、契約により自動的に扉への道が開かれる。
アリオスが抵抗の魔法を使う前にダリアは最後の願いを叶え、
クラヴィスの協力により扉を開いたのだった。
「…あれは契約違反じゃねぇのか?」
アリオスはどかりと向かいの椅子に座り長い足を組んだ。
長い間仕事をしてきたが、こんなケースは初めてだった。
「俺は最後の願いを叶えてない。
 他のやつが魔法を使ったのに扉は反応するのか?」
アリオス以上に永い時間、この場を護り続けている彼に問う。
「叶えたのは姫だが…確かに少女が願ったことを叶えた。
 その場にお前もいたことだし、契約終了と見なされたのだろうな」
「…他人事のように言いやがって…」
「実際に他人事だ」
「扉を開くのはお前の許可が必要だろうが」
つまり、実質的にクラヴィスがアリオスをここへ戻したのである。
どこが他人事だとアリオスは眉を顰めた。
「それにお前も契約違反すれすれだっただろうに…」
「あれは…ギリギリ大丈夫だ。
 俺が判断した」
「まぁいいが…。
 私もあれだけ必死に頼まれたなら断れん…」
微笑みすら見せて開き直る彼にアリオスは軽く息をついた。
そのすぐ後に何かに気付いたように顔を上げる。
目の前には意味深な笑み。
彼の言わんとすることを察してアリオスもまた笑みを浮かべた。
「だったら俺にも頼まれてくれよ?」
「話にもよるがな…聞こうか」



   ☆  ★  ☆



アンジェリークはまだ夢のことを考えていた。
(誰……)
いくら考えても思い出せない。
つまり知らない人なのだろう、と思うのだけれど…。
(会いたい……)
自分を呼ぶ優しい声。
愛していると言ってくれた囁き。
その持ち主に会いたい。
(だって…あの人言ってた…)
『俺を呼べ』
名前すら知らないのに。



   ☆  ★  ☆



「一応縋るための藁は残してきたんだ」
アリオスはクラヴィスに詳しい状況を説明していた。
「俺を呼べ。そう言った」
「また勝手なことを…」
静かな聞き手は苦笑した。
召喚されずに別世界に出る事は禁止されている。
しかし、裏を返せば実際にそういうことをする人物が過去にいたからこそ
この決まりはできた、ということでもある。
実際にアリオスの様子を見に来た使者もダリアも召喚されてはいない。
皇帝陛下の勅命という理由で外出を許された。
「他のやつが許されて、俺が行けないなんて納得できるわけがねぇ」
「…お前らしいな」
「で、だ。
 まったくなんのきっかけもなしに行くのはさすがに俺でも無理だが…。 
 あいつが俺を呼んだなら応えると一種の新しい契約を結んだ」
あの強制送還の間際ではそれが精一杯だった。
「私がここを通さないと言ったらどうするつもりだったのだ?」
「その時は力尽くで通らせてもらうさ」
「ふっ…安心しろ。馬に蹴られたくはないからな。
 だが彼女にお前の記憶はないのだろう?」
知らない人物を呼ぶなど無理な話である。
「ちょっとばかり分の悪い賭けだが望みはある」
「ほう?」
「あいつは記憶を消せと言ったが、ダリアの力じゃ消すのは無理だ。
 せいぜい封印だろう」
それに…とアリオスは口の端を上げた。
「藁は残してきたって言っただろ?」



   ☆  ★  ☆



「アンジェ…アンジェってば」
「な、なに?
 レイチェル…」
「も〜、またぼけっとしてるんだから。
 早く着替えて帰ろうよ」
本日最後の授業は体育だった。
周囲を見れば、更衣室に残っているのは自分達だけである。
「ご、ごめんね。すぐに着替えるから」
レイチェルはアンジェリークを待つ間、鏡の前で身だしなみを整える。
そこに映るアンジェリークの後ろ姿が視界に入って、口を開いた。
「もう冬になるのにまだ蚊がいるんだ?」
「え?」
「ほら、赤くなってる。痒くないの?」
レイチェルが自分の首筋と肩のちょうど境目あたりを指差しながら言った。
ブラウスを着かけていたアンジェリークも鏡の前に来て確かめた。
「本当だ」
白い肌に赤く跡が残っている。
「あは、でもそんなトコだとなんかえっちくさいね」
「?」
「キスマークみたいじゃない」
「れ、レイチェルっ?」
「まーアナタじゃ有り得ないだろうけどね〜」
あはは、と明るく笑われてアンジェリークは頬を膨らませる。
「そんなことあるわけないじゃない…」
言いかけてはたと動きが止まる。
鏡の中の自分を…その赤い部分を見つめて触れる。
「アンジェ?」
「………」
本当に有り得ないことだったろうか…。
だって…なぜかこれを付ける時の微かな痛みも覚えている。
「………あ………」
数秒黙り込んでいたアンジェリークはふいにかぁっと頬を染めた。
「アンジェ?」
レイチェルの問いに返す余裕もない。
欠けたピースがようやく埋まった。
そんな感じだった。
洪水のように激しく、だがきらきらと光る宝物のような記憶。
全てを思い出した。
思い出した瞬間、アンジェリークの口から呼び慣れた名前、言い慣れた言葉が発せられた。
「ア、アリオスのバカ〜っ!」



「たいした呼び出し方だな…おい」
あたりが目も眩むほどの光に包まれて、その後には一人の青年が立っていた。
「アリオス…」
「アナタ…アリオスっ?
 え? 今の…」
呆然としているアンジェリークと混乱しているレイチェルにアリオスは口の端を上げた。
とん、とレイチェルの額に触れる。
「ちょっとこいつ借りるぜ?」



アンジェリークとアリオスは彼の魔法で一瞬にして喫茶店に移動していた。
「アリオス…」
アンジェリークは何から話していいものか困って彼を見上げた。
「くっ、なんでも聞けよ。
 説明してやるから」
「う、うん…」
勧められたカウンター席に座り、隣にアリオスが座る。
「なんで…ここにいるの…?
 それにレイチェルは…」
「…呼び出し方といい、今といい、随分な言い方だな?
 レイチェルや周りのやつらはお前が全てを思い出した時に一緒に記憶が戻ってる。
 その辺の説明はもうあいつにはした」
レイチェルの額に触れた時、必要な情報は与えた。
アリオスは喉で笑って少女の髪をかきまぜた。
「でも…もう会えないはずじゃ…。
 記憶だって消されたはずなのに…」
アリオスはクラヴィスに話したようにアンジェリークにもあの時のことを説明した。
そして微笑んだ。
「お前が俺を呼んだ時点で新しい契約の始まりだ」
「……さっきの…アレが…?」
アンジェリークはぱちぱちと瞬く。
あの罵倒がそんなに大事なものだなんて知らなかった。
つい口から出てしまっただけなのだ。
どさくさに紛れて妙なものを残していった彼に…。
「まぁ、お前が俺のことを覚えてないから、ちょっと印を付けさせてもらったけどな」
アンジェリークの思考を読んだようにアリオスがにやりと笑った。
制服の上から口付けの跡に触れる。
触れられただけで心臓が跳ねあがる。
「っ……印…?」
「そう。記憶は残ってなくても身体に残してれば思い出すかもしれねぇだろ?」
実際、跡が消える前に気付いてくれるかどうか冷や汗ものだったけどな、と
余裕に満ちた表情で言われても説得力がない。
「あの時…何かしてたな…とは思ったけど…」
必死で彼に行かないでほしいと祈ってた時、強く抱きしめられていた時…。
まさかそんなことをされていたとは思わなかった。
何か囁かれて、そして首筋に彼の唇を感じて…
でも、あの状況ではそれを理解している余裕はなかった。
「これからずっと一緒だ」
「……もう騙されないんだから」
しばらく魅力的な笑みに見惚れていたアンジェリークはふい、と顔を背けた。
「いつ騙した?」
「だって、子守りはイヤだって言ったじゃない。
 あの人と結婚するんでしょ?」
だから自分は彼を手放すことを決心したのだ。
「ダリアの話を信じたのか?」
「…キスだってしてた…」
涙ぐむ少女の顔を自分の方に向かせ、その涙を拭う。
「あいつが勝手にしてきただけだ。俺は応えてねぇ。
 だいたいあいつは数いる妃候補の中で最有力って言われてたが、
 俺じゃなくて周りのやつらが推してただけだぜ?
 それにお前、どこからどこまで見てたんだ?」
「え?」
「最初から最後まで見てたんなら、そんな誤解しないはずだぜ?」



あの時…アンジェリークが立ち去った後、唇を離したダリアにアリオスは言ったのだ。
「気が済んだら帰れよ」
応えはしなかったが、避けなかったのは餞別代わりだと冷たく告げる。
「なっ…」
「俺はあいつの相手で忙しいんでな」
「なんで嫌々ながらも、あんな子を大事にできるのよ?」
ダリアはむっとした顔でアリオスの背中に尋ねた。
「別に大事にするのは嫌じゃねぇよ」
「だって…あなたさっき…」
冷たい表情で子守りが嫌だと、早々の契約終了を願っていると言っていた。
彼女の言わんとしている事に気付き、アリオスは「ああ」と苦笑した。
「そろそろ子守りは理性の限界なんだよ。
 しかも主人には手を出せない決まりだしな」



「え…と…?」
首を傾げる少女にアリオスは自嘲気味に笑った。
「信じられないことにこの俺がお子様相手に本気になったんだぜ?
 なのに一線を越えるのは禁止されているからある意味拷問だったな」
「一線って…」
アンジェリークは口をぱくぱくさせる。
「だから子守りも嫌だし、やっかいな契約もさっさと終わらせたかったんだ」
「で、でも…またここにいるってことは、その『契約』に縛られるんじゃ」
アリオスはふっと微笑んだ。
それはアンジェリークが初めて見る危険で魅力的な笑み。
「今の契約は国にあるがちがちな規則に固められたやつじゃなくて、
 俺が個人的にした契約だからな…。関係ねぇよ」
あの扉の番人に気付かされた。
『一度、契約を終了させた方がお前にも都合がいいだろうと思ってな』
複雑な想いを抱えたまま現契約に則ってただ少女と過ごすより、新しく始めた方がいい。
なぜ無理矢理国へ戻したのかと苛立つアリオスに彼が言ったのだ。
どうせアリオスが連れ戻されて大人しくしているはずがない。
どんな手を使っても、またアンジェリークのところに戻るだろうと容易に想像できた。
その時に手を貸せば良いのだから、躊躇いもなくアリオスを強制送還させたのだと…。
「ア、アリオス…?」
「言ったはずだぜ、アンジェリーク」
「え?」
「愛してる。もう離さない」
「アリオス…」
別れの間際に聞いた囁き。
夢で囁かれた声。
アンジェリークは嬉しくて抱きついた。
「私も…あの時言えなかったけど…大好きだよ」
ふわりと微笑んで彼の耳に囁く。
「愛してる。
 今度はずっと一緒にいようね」
「その願い叶えてやるよ、俺のご主人様?」
アリオスは不敵な笑みを浮かべると、少女を抱きしめ口付けた。



   ☆  ★  ☆



そして…二人の日常は新しく始まった。
「も〜、アリオスのバカっ、ケダモノ!」
日曜日の朝にアンジェリークの半泣き状態の声が響く。
「今日はオリヴィエ先生の誕生日お祝いするって…
 レイチェルやオスカー先輩達も呼んでお店でパーティーするって
 前々から言ってるじゃない〜。
 私達が早めに行って準備しないと…」
「どうせ夕方からなんだから心配すんな」
ベッドから出て行こうとするアンジェリークを抱きしめて閉じ込める。
本気で振り払えばきっと離してくれるだろうけど…アンジェリークにはそれができない。
「アリオス〜……」
「少しでもお前を離したくねぇんだよ」
「………」
母親公認なうえに彼女は仕事でほとんど家を空けているので、
二人は同棲というか新婚生活そのものの暮らしになっていた。
「アリオスくんならしっかりしてるし、留守を任せられるわ〜」
母親がにっこりと笑って言っていたのを思い出す。
(確かにね…家のことは任せられるけどね…だけど…)
よく半年近くも一緒に生活して無事だったものだとアンジェリークは思った。
今の状況を考えるととても信じられない。
それを言ったら彼自身も苦笑していた。
アンジェリークへの想いを自覚してからは我ながら理性の限界に挑戦してたな…と。
「アリオスのえっち…」
「今更だろ?」
にやりと笑ってなんでもないことのように受け流す。
「分かってんなら話は早いよな」
「え…きゃあっ」
組み敷かれて頬にキスされて魅力的な声で囁かれて…。
「まだ時間あるだろ?」
「ないよ…」
アンジェリークは言葉とは裏腹にアリオスの背に腕を回した。
真っ赤になって呟く。
「だから…一回だけだからね…」
「くっ…お前って本当に…」
「な、なによぉ…」
「可愛いぜ」
「………」
「だから長引いても怒んなよ?」
「うん…えっ?」
情熱的なキスと珍しいストレートな誉め言葉にぼうっとしてしまって、つい頷きかけて我に返った。
「だ、ダメだってばっ」
「努力はするが保証はしねぇな」
「アリオス〜」



結局、アンジェリークは時間ギリギリまでアリオスに離してもらえなかったとか。
こんな周囲が呆れるほど甘くて幸せな生活がこれからも続いていくのだが…
それはまた別のお話。





                                             〜 fin 〜







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