恋心
  
         - koigokoro -

「今度のドラマでは久しぶりに共演するのよね」
「はい」
アンジェリークとレイチェルは顔を見合わせて微笑んだ。
某日、とある公園で顔馴染の記者によって取材が行われていた。
二人は今や知らない人の方が少ないと断言できるくらいの女優である。
「本当に久しぶりだよネ。アンジェのデビュー以来かな」
「そうね」
「そう言えばアンジェちゃんはちょっと特殊なデビューだったわよね」
インタビュアー、サラの問いにアンジェリークは微笑んだ。
「はい。本当に不思議な縁ですよね。
 私、ただのレイチェルのクラスメイトだったんですよ」

レイチェルはすでに天才子役として有名で、逆にアンジェリークは一年前までは
普通の高校生だった。しかし二人はその頃から親友だった。
天才子役の名を気にせず付き合ってくれる友人はアンジェリークくらいだったのだ。
なんの気負いもせずに接してくれる存在はレイチェルにとってかけがえのないものだった。
そして、アンジェリークはレイチェルと一緒にスタジオに出入りすることも少なくなかった。
たまたまドラマの撮影でレイチェルの親友役を探していた時、
アンジェリークは声をかけられたのだった。
「どうせなら本物の親友が出てみない?」
レイチェルの冗談だったはずなのにいつのまにか周りの方がそれに乗り気になり、
一回限りということでアンジェリークは出演することとなった。
「一回限りのはずだったんですけどね…」
アンジェリークは苦笑した。
ドラマ放映後、意外に反響が大きくてそのまま役者を続けることになった。
アンジェリークは成り行きで役者になった希少な例である。
「最初は戸惑いの方が大きかったんですけど…。
 でもそれと同時にお芝居がとっても楽しくって。
 せっかくのチャンスだからお芝居の勉強を続けてみようと思ったんです」
「もともと素質はあったんだと思うよ。私がそれを見抜いたんだよ」
胸を張るレイチェルにアンジェリークはくすくすと笑う。
「レイチェルに言われるなんて光栄だわ」
「元天才子役だからね」
「あら、レイチェルちゃん。じゃあ今は?」
「今は天才女優☆」

ひとしきり笑った後、サラはアンジェリークに尋ねた。
「レイチェルちゃん以外にもう一人、
 アンジェちゃんの才能を見抜いていた人がいるわよね」
「え?」
アンジェリークはきょとんとする。
「アリオス監督」
有名な実力派監督の名を出され、アンジェリークは慌てて首を振った。
業界で彼の話はよく聞いた。
今は数々の名作を手がけた監督だが数年前までは役者として活躍していた。
なぜか人気絶頂な時期に役者から監督に転向し周囲を驚かせた人物である。
アンジェリークはこの監督の元で演技をすることが多かった。
「まさか…監督は、よく面倒を見てくれますけど…
 …それは私があまりにも頼りないからですよ」
「彼は見込みのない人はあっさり切り捨てちゃうからね。
 期待されてる証拠よ」
「そうでしょうか…」
アンジェリークは小首を傾げて考え込んでいる。
人気のわりにあまり自信を持たないところが少女の長所でもあり欠点でもあった。
「そうだよ! だから今度のドラマ、がんばんなきゃね」
「そうそう、この取材の表題がそれだし」
話が逸れちゃったけど、と苦笑してサラはマイクを持つフリをして二人に尋ねた。
「今度の二時間ドラマ。
 今大人気の若手名優を取り揃えたうえに、監督があのアリオス監督。
 注目度がとっても高いこのドラマに対する意気込みをお願いします。
 ヒロイン、アンジェリーク嬢。その親友役、レイチェル嬢」
「久しぶりのアンジェとの出演も、初めて一緒に仕事するアリオス監督のお手並みも
 今から楽しみにしてるよ」
「私も…主役という責任があることで緊張もしてますけど楽しみにしています。
 精一杯頑張りますのでサラさんや皆様にもこのドラマを楽しんでもらえたら嬉しいです」


   ★  ★  ★


撮影が始まると時の流れがとても早く感じる。
あっという間に半分程が撮り終わり、残りは遠方地でのロケを残すのみとなった。
「おー。イイ眺め。アンジェ、あとで散歩しに行こうよ」
「うん」
湖を臨む別荘地を車の中から見ながらレイチェルとアンジェリークは瞳を輝かせた。
「お嬢ちゃん達は元気だな」
「若いからね♪ オスカーさんはもう歩く元気ない?」
「ふっ、何を言うんだ、お嬢ちゃん。
 俺はいつだってお供してやるぜ」
「セイランさんはどうします?」
ロケバスの後部座席の方でつい先ほど目を覚ました彼にアンジェリークは尋ねた。
「どうせロケであの辺を歩き回されるんだよ。
 別に急いで行く必要もないと思うけど」
「そうですか」
少しだけ残念そうな顔をする少女にセイランは苦笑した。
「気が向けば行くよ」
「そーですよ。セイランさん。たまには皆と一緒に行動しなくちゃ。
 どうせあっちの車内でも散歩しようって話になってますよ」
前を走るもう一つの車を指しながらレイチェルは笑った。
そこにはランディ、ゼフェル、マルセルの3人が乗っていた。
散歩というよりも探検しようとはしゃいでいる様子が目に浮かぶ。

しかし、アンジェリークは残念ながら散歩に行くことはできなかった。
到着するなり先に来ていた監督にランディと共に呼び止められたのだ。
撮影の準備が整うまで散歩に行っていたレイチェルは戻ってくると
アンジェリークに声をかけた。
「監督、なんだって?」
「うん…ちょっとね…台本、変わるかもって…」
撮影が進んでいく途中で少々台本が変わっていくことも珍しくない。
ただ珍しいのはアンジェリークの表情だった。心なしか固い。
「緊張してる?」
心配げな瞳にアンジェリークは微笑んで答えた。
「大丈夫。台本覚え直さなきゃ…て思っただけ」
「そ? あ、始まるみたいだね。行こ」
「うん」

撮影はここ数日天候にも恵まれ順調に進んだが
クランクアップ目前となった頃に問題が生じた。
アンジェリークのNGが増えてきたのである。
「ごめんなさい」
アンジェリークは何度も共演者にスタッフに頭を下げる。
「休憩入れるか」
アンジェリークははっと顔を上げ、その声の持ち主に言った。
「大丈夫です。やれます。もう一回お願いします」
必死な瞳で金と翡翠の瞳を見つめる。
「ランディさん。ごめんなさい。あと一回だけ付き合ってください」
次で決めますからと申し訳なさそうに、でも意思の強い眼差しでお願いする。
彼は勇気付けるような明るい笑顔で頷いた。
「誰だって調子の良い時と悪い時があるんだから、あんまり気にしすぎない方がいいよ。
 俺は何回でも付き合うからさ」
「ありがとうございます」

なんとかOKをもらってアンジェリークは用意された椅子にかけた。
座った拍子に溜め息が零れる。
今はベテラン俳優のオスカーやレイチェル達の撮影を進めている。
その光景を見るともなく眺めていた。
「ちゃんと寝てんのか?」
ふいにかけられた声にアンジェリークは後ろを振り返った。
「アリオス監督」
「疲れてるのか? 集中力がねぇぞ」
隣に座る彼の存在感にアンジェリークは身体を小さくする。
「ごめんなさい…。みなさんに迷惑をかけて…」
「一週間やそこらのロケでバテんなよ?」
ふっと微笑んで栗色の髪をくしゃりとかきまぜると彼はすぐに立ち上がった。
スタッフや助監督と話を始めた後ろ姿をアンジェリークは少しだけ乱された髪を
直しながら見つめた。
「え・・と…」
(…励ましてくれた?)
怖い人だとよく噂で聞く。
だけどアンジェリークはそんな風に思ったことはなかった。
厳しいけれど怖くはない。
いつもこんな風にさりげなく励ましてくれる。
デビュー当時からずっとそうだった。
(本当は優しい人だと思う…)
「それとも…やっぱり私があまりにも頼りないから監督直々にはっぱかけに来たのかな…」
がんばらなきゃ、とアンジェリークは自分自身に言い聞かせた。

日も暮れる頃、今日何度目かのカットの声が響く。
「アンジェリーク」
「はい…」
アリオスの声にアンジェリークは顔を上げられなかった。
上手くやりたいと思うのにどうしてもできない。
何度もリテイクを言い渡され、スタッフにも申し訳ないと思う。
相手役のランディにもすまないという気持ちでいっぱいだった。
「ごめんなさい…」
気まずい沈黙を破ったのはアンジェリークだった。半ば伏せた瞳ではっきりと言った。
「私…もうお芝居できない…。
 このドラマ撮り終えたら役者辞めます…」
「アンジェっ!?」
アンジェリークの突然の爆弾発言にレイチェルは少女の肩を掴んだ。
「どうしちゃったの?」
「私、役者失格だって気付いちゃった…。もう続けられない…」
震える声に周りの誰もがなんと声をかけたらよいのか分からなかった。
今まで少女が弱音を吐いたことはない。
基礎がない分、いつも前向きな姿勢で様々な人の意見を取り入れようとしていた。
見た目に反して強い少女だと認められていただけあって
この引退宣言はにわかに信じられなかった。

「アンジェリーク」
アリオスに溜め息まじりで名を呼ばれて少女はなんとか顔を上げた。
「今日は下がってろ。時間の無駄だ。
 一晩頭を冷やしとけ」
「はい…」
厳しい言葉にアンジェリークは頷いた。真実なのだから仕方がない。
アンジェリーク抜きのシーンを先に撮ると指示をする彼を申し訳なさそうに見る。
「お前がいい加減なヤツじゃないことは分かってる。
 俺もスタッフもな」
現場を去ろうとするアンジェリークはすれ違いざま囁かれた言葉に一瞬立ち止まった。
そして小さくお辞儀をすると駆けていった。
とても彼の顔は見られなかった。



本日の撮影終了後、大きな別荘の食堂で共演女優達が話していた。
「今日コレットどうしたんだろうね」
「さぁ?
 豪華な顔ぶれに自分の限界でも感じたんじゃないの?」
「まぁ…今回、すっごく立派なキャストだもんね」
「ほら、あのコ運だけでこの世界に入ったじゃない?」
浅い笑みが彼女達に浮かぶ。
「あのレイチェルのおかげでデビューして?
 そのあとはアリオス監督に目をかけてもらって?」
「あまり人を寄せ付けないセイランさんにも気に入られてるわよね」
「どうせ仕事が絶えないのはそのおかげでしょ」
「私だって監督に気に入ってもらえたらあれくらいにはなれたわ」
「じゃあ、今からでも行ってきなさいよ。監督の部屋チェックしてるんでしょ?」
「できるもんならやってみろよ」
彼女達のさざなみのような笑いを止めたのは低い男の声だった。
「ア、アリオス監督」
「あいにく俺は認めたヤツしか面倒見ねぇけどな。
 今の段階ではお前らがあいつ以上だとは思えねぇな」
不機嫌そうな表情で冷たく言い放ちその場を後にする彼の後ろにオスカーがいた。
凍り付く彼女達にしっかりフォローをするのも忘れていない辺りが彼らしい。

「レディ達はもっと丁重に扱うもんだぜ」
「お前のポリシーをどうこう言うつもりはねぇが押しつけんな」
「やれやれ…ご機嫌斜めだな」
オスカーはわざとらしく肩を竦めてみせた。
「原因はあのお嬢ちゃんか?」
何の返事もしないアリオスにオスカーは一緒にいたランディに矛先を変えた。
「ランディ、お嬢ちゃんの相手役を良いことに何かしたか?」
純情な少年は顔を真っ赤にして反論した。
「オスカーさんじゃありませんよ!
 そんなことしませんっ」
「それはともかく、監督がアンジェリークに目をかけてるのは事実だよね。
 どうして?って訊いてもいいかな」
騒いでいる二人を尻目にセイランが興味深そうな瞳でアリオスに尋ねた。
「あいつを気に入ってんのはお前も同じだと思うがな…」
「あのコは誰に会ってもマイペースだからね。興味を引かれたよ」
どんな大物に会っても、女性からの人気を集めている『イイ男』に会っても
舞い上がることも媚びることもなかった。
「ただ業界に疎かっただけ、と知った時には笑わされたけどね」

アリオスは苦笑した後、珍しく問われたことに話し始めた。
「あいつは一部の人間からはデビュー当時からさっきみたいな言われ方をされてたんだ」
何千倍もの競争率。並々ならぬ努力。有力なコネ。公に出来ない手段。
さまざまな方法でこの世界に入った人間がいる中で、アンジェリークは確かに
運だけで入ったと言える。
単なる嫉妬ではあるが、そういった見方をされることも少なくなかった。
「たまたま俺はその現場に通りがかったんだが…」
よくある先輩から新人への言いがかりだった。
アリオスはわざわざ自分が出る幕ではないと思い動かなかった。

「あいつは微笑んでたんだ」
理不尽な物言いに怒るでもなく、泣くでもなく、穏やかに微笑んでいた。
『ひどいなぁ、とは思いますけどね。あの人達がしてきた苦労を
 私はしてないから仕方ないかな…とも思うから』
彼女達が去った直後にアリオスを見つけ、一連の出来事を見られていたと気付いた
アンジェリークは不思議そうな顔をしている彼に自分の気持ちを話した。
『私は今まで苦労してない分、これからが大変なんですけどね。
 この世界のこと、なんにも知らないから…。
 でも…苦労なんて人に見せるものじゃないから別に良いですよ』
儚げなわりに強い芯にアリオスは驚かされた。
彼女ならやっていけると、そして初めて自分の手で育ててみたいと思った。
だから出来る限り彼女の成長を見守ってきた。
「別に俺達は周りが思ってるような関係じゃねぇ。
 威嚇代わりになるから噂はそのままにしといたけどな」
アリオスの名が側にあっただけでアンジェリークは業界の狼達から守られていた。
「実に興味深い話だね。聞けて良かったよ」
セイランは綺麗に微笑むと自分の部屋へと入っていった。


セイランと別れたアリオスはアンジェリークの部屋に向かう途中でレイチェルに会った。
レイチェルは夕食の席にも出てこなかった少女に夜食を持っていった帰りである。
「あいつは?」
「なんとか食事は摂ってくれた。
 なんか…すごく塞ぎこんでたけど…話してもらえなかった…」
少女は苦しそうに言った後、きっとアリオスを見上げた。親友思いの眼差しがぶつかる。
「もう、監督があんな言い方するからダヨっ」
「言われるだけのことを先にあいつが言ったんだ。
 撤回するつもりはねぇ」
レイチェルの抗議をアリオスは軽く受け流した。
「ただ…一つだけ許せる部分があった。
 あいつはそれでもこのドラマだけは演じ切ると言った」
「アンジェは無責任な子じゃないもの」
「だから様子を見に来た。俺があいつの話を聞いてやる」
「監督…。…アンジェをよろしくお願いします」
頼りになるその自信に満ちた表情にレイチェルは頭を下げた。
彼なら少女をなんとかできそうだと思えた。
アリオスはアンジェリークの部屋を訪れたが少女は不在だった。
運良く窓の向こうの何気なく入った視界に外へ出ていく少女が映った。
アリオスは迷わずに少女の後を追った。


                      ★  ★  ★


林を抜けて湖沿いをゆっくりと歩いて行く。月の綺麗な夜だった。
「この辺は星の光もけっこう強いですね。道を照らしてくれる」
アンジェリークは夜空を見上げながらポツリと呟いた。
「なんだ、ちゃんと気付いてたのか。
 動かねえから寝てんのかと思ったぜ」
「監督ったら…」
アンジェリークは一瞬だけ彼に視線を向けくすりと微笑むとまた夜空を見上げた。
その横顔がやけに遠く感じた。
「今ね…独りになりたくてここに来たのに…。
 来たら来たでちょっとだけ寂しくなってきちゃったところなんです。
 アリオス監督はお散歩ですか?」
「お前に話があって来た」
アリオスの真剣な表情にアンジェリークは緊張した面持ちで彼を見上げた。
「昼間はごめんなさい…。
 明日はちゃんとやりますから」
「できるのか?」
「できるようにします」
「で、今回だけ無理して…。
 その後は引退ってわけか?」
「…そのつもりです。私、役者を続けられない…。
 致命的欠点を見つけたうえに直せない」
俯いた拍子に栗色の髪がさらさらと零れた。

「ラブシーンが出来ねぇって?」
はっとアンジェリークが顔を上げた。
「分かるに決まってんだろ」
この地に来てアリオスからランディとアンジェリークに
そういうシーンが追加されたと聞いた。
アンジェリークのNGが増えたのはそれからである。
『俺としてはなくても構わなかったんだがな…
 スポンサーが数字取るために押し切りやがった』
アリオスが眉を顰めながら二人に告げたのである。
ただでさえ注目されるキャストなのにさらに見所をということで
『アンジェリーク・コレットの初ラブシーン』というあおりを入れることに決まったのだ。

「今までみたいに恋する役なら出来るんですけど…」
アンジェリークの『恋する少女』は好評だった。
初々しさと可愛らしさと女性らしさが同居していて。
しかし、実際にそのシーンを演じるとなると身体が動かなくなってしまう。
「ラブシーンできない役者なんて…役者失格です」
アンジェリークは瞳を伏せた。
「今まで監督にはとてもお世話になったのに…」
「役者を諦めるのか。
 その程度のもんだったのか?」
静かな声に責めを感じながらもアンジェリークは頷いた。
「お芝居に対しての気持ちが『その程度』だったわけじゃない…。
 ただそれ以上に好きな人の方が大きかった。
 その人以外とはそういうことできない…だから役者は続けられないって思ったんです」
望まれて素質もあって…それなのにたった一人の男の為にそれを捨てると
言い切る少女と相手の男にアリオスは苛立ちを覚えた。

「お前に男がいたってのは初耳だな」
オスカーだろうか。セイランだろうか。
少女と特に親しい人物は限られるがそんな気配はなかった。
よく今まで隠し通せたな、と皮肉げな笑みが浮かぶ。
そんなアリオスにアンジェリークは真っ赤になって首を振った。
「ち、違いますっ。その人は私の気持ち、知りもしません。
 言ってないですから」
「は?
 付き合ってもいねぇ、ただ好きだっていうヤツのために仕事を捨てるのか?」
迷わず頷く少女にアリオスの苛立ちはさらに高まる。
その感情が何かなどとっくに気付いていた。ただ認めたくなかった。
磨けば光り輝く原石だと気付いて育てていた。
まさか一回りも年下の子供に本気で惹かれるとは思ってもいなかった。
女に不自由しない自分には嫉妬など縁のないものだと思っていた。
「やっぱり…好きな人としかしたくないです。
 お芝居だからって自分を納得させようとしたんですけど無理でした。
 ランディさんのこと、嫌いじゃないです。
 好きですけどキスシーンはできない…。
 だから私は役者失格です」
ふわりと微笑む少女の純粋さが眩しく、同時に汚したい衝動を抑え切れなかった。

「キスぐらい慣れればどうってことねぇよ」
「え?」
わけも分からず抱き寄せられた少女の顎を持ち上げ、月光に輝く桜色の唇を奪った。
「っ…アリ…」
驚いて逃げようとする少女を腕の中に閉じ込めて、再度唇を重ねる。
酸素を求めるように顔を背けるのを追っては戸惑う舌を絡める。
次第に少女の身体から力が抜けていった。

「アリオス、監督…どうして…こんな」
長い時間をかけてから解放され、呼吸を乱しているアンジェリークは
涙を滲ませて彼を見上げた。
「好きなヤツとじゃなくてもこんな激しいのできたじゃねぇか」
「なっ…できたって…監督がしたんじゃないですかっ。
 …私、はじめてだったのに…」
「それは悪かったな」
少女の言葉にアリオスの所有欲がわずかに満たされる。
「だったらなおさら大丈夫だろ。
 好きでもない男とはじめてであれだけできれば十分だ。
 どうせ今回のは触れるだけのお子様キスだからな」
びくりとアンジェリークの肩が震えた。
「慣れたら…好きでもない人とできちゃうの…?」
見上げる潤んだ瞳にアリオスは我ながら屈折していると思いながら口の端を上げた。
「なんなら慣れるまで教えてやっても良いぜ?」
「そこまでして…私に役者をやめさせまいとしてくれるのは嬉しいですけど…」
鈍いアンジェリークは困ったように微笑んだ。
ここまで来て「もしかして」と思いつかないあたりがアンジェリークなのだが…
普通以上の愛情を向けられていることに気付く気配はまったくない。
「監督がいくら教えてくれても…例え慣れてもお芝居はできないです…」
「そうかよ…。そこまで想われてるやつは幸せだな」
皮肉げに笑うとアリオスは言った。
「どうしてもやめるって言うならもう止めねぇ。
 好きにするんだな」


遠く離れていくアリオスの背中をアンジェリークは見つめていた。
少しの間、動けない代わりに頭を必死に働かせた。
今まで世話になってきた彼には本当のことを言うべきだろうか。
それとも言わずにこのまま離れて二度と会わない方が良いのだろうか。
話しかけてくるような月と星の光に勇気をもらう。
震える唇をきゅっと噛み締めて、そして彼を呼び止めた。
「アリオス監督」
「なんだよ?」
振り返る彼の姿に見惚れてしまう。
「今までありがとうございました。
 そして今日もここまでして役者として引き止めようとしてくれて…。
 でもダメなんです。
 監督に教えてもらって慣れたとしても…お芝居には役立たないんです」
「………」
一呼吸置いてアンジェリークは一番伝えたい言葉を口にした。
「私が好きなのは…アリオス監督なんです。
 だからいくら慣れても…好きでもない人とする練習にはならない……きゃっ?」
強く抱き締められてアンジェリークは最後まで言えずに小さな悲鳴を上げた。
「アリオス…監督?」

アンジェリークは心臓が飛び出そうなほど驚きながら呆然と呟いた。
ドラマのワンシーンみたいにこんな風に彼に抱き締められること…
夢に見ていたが現実に起こるとは思ってもみなかった。
「まさかそうくるとはな…」
アリオスは苦笑しながら少女の耳元に囁いた。
「お前にはやられたぜ。この俺が振り回されるとはな」
少女に想う人物がいると知った時にはその誰かに嫉妬した。
いつからか自分が少女を側で見守っていくものだと思っていた。
自分以外の誰かに譲る気はなかった。
気付けば狂おしいほどの愛しさを抑えきれなかった。
「え? え?」
いまだに混乱状態の少女の頬にそっと手を添え微笑んだ。
「降参してやるよ。アンジェリーク。
 …愛してる」
「…ホントに…?」
じっと覗き込む海色の瞳にアリオスは頷いた。
「誰よりも愛してる。誰にも触らせねぇ」
「監督…」

長身のバランスの良いスタイルも、夜が似合う艶やかな銀髪も、魅力的な表情も、
自分には手の届かない月のようなものだと想っていた。
いつも綺麗な大人の女性がいるから叶わない夢だと思っていた。
「アリオス監督…」
嬉しくて泣きながら広い胸に抱き付いた。
「これからはアリオスでいい」
「アリオス…?」
頬を染めながら見上げ、ちょっと躊躇って囁く少女がたまらなく可愛らしい。
アリオスは間近で視線を絡ませ、今度は静かに唇を重ねた。
「…ん…」
アンジェリークも今度は逃げずに彼の首に腕を回した。
「あのね…恋する少女の演技ができたのはアドバイスもらったおかげもあるからだけど…
 監督のこと好きだったからなの」
キスの合間にアンジェリークは真っ赤な表情で言った。
「お芝居教えてくれたみたいに…これからも教えてくれる?」
まだどう応えて良いかもわからない少女の精一杯のおねだりに
アリオスはふっと笑みを零した。
「いくらでも教えてやる。楽しみにしてろよ?」



月明かりが照らす室内でアリオスは机に向かっていた。
ノートパソコンを扱っているが、部屋の明かりはつけていない。
傍らにあるベッドの中の少女の眠りを妨げるつもりはなかった。
裸の肩に布団を掛け直してやり、眠る少女の額に唇を落とした。
「明日…楽しみにしてろよ?」


                       ★  ★  ★


一ヶ月後…。
例のドラマは放送され、予想を遥かに上回る反響を呼んだ。
当初の予定ではアンジェリーク扮するヒロインはランディ扮する幼馴染との恋物語だった。
友人以上恋人未満の関係がセイランやオスカー演じる少し年上の男の登場で
劇的に変わる、というありがちと言えばありがちな話だった。
しかし撮影が終わってみれば…。

「アリオス監督っ。5年ぶりの役者復帰の理由は何ですか?
 話題になっていたアンジェちゃんの初ラブシーンの相手が
 監督だとは皆驚かされましたよ?」
「必要にかられて、だ」
サラの問いにアリオスは不敵に微笑んだ。
本当はアンジェリークを巡って繰り広げられる明るいコメディ風のラブストーリーだった。
だが実際に編集してみれば終盤のおいしいところを突然現れた
謎の青年が持っていってしまっていた。
もちろんその謎の青年は監督であるアリオスである。


「職権濫用って言わない…?」
一晩でストーリーを軌道修正してしまった彼にアンジェリークは首を傾げた。
対してアリオスはインタビューの時には見せない柔かな瞳で微笑む。
「かまわねぇよ。俺の復帰でスポンサーも十分得してるしな」
「私も役者のアリオスが見られるのは嬉しいよ」
可愛いことを言ってくれる恋人の肩を抱き寄せ、アリオスは宣言した。
「俺以外の男とラブシーンなんかやらせねぇからな」
「アリオスったら」
アンジェリークはじゃれるようなキスにくすくすと笑う。
まさかそれが本当のことになるとは思ってもみなかった。



                                              〜fin〜

                                     初出  2002.05.03 コピー本



女優アンジェリークと監督アリオスの設定で
2人が恋人になるまでのお話です。
頂いた感想…皆様声をそろえて「アリオス、職権濫用…」です(笑)
まぁ、事実ですが…(苦笑)

この設定、予想以上に反響がありましたので
二人の出会い編・その後などまとめて1冊の本にしました。
通販ページにある『Shining Star』です。

この創作にはおまけ創作と頂いたイラストが付いております。
下のアイコンからどうぞv
お戻りになる方はブラウザの『戻る』でお願いします。



おまけ創作 イラスト


ブラウザの『戻る』でお戻りください。