refrain

12月23日。
  ── 突然の失くし物 ──

撮影が休憩に入った瞬間を狙うように鳴り出した携帯。
アリオスは画面に表示された相手の名前を確認して僅かに眉を顰める。
この相手からかかってくる時はいかんせん面白くない内容が多い。
嫌な予感を覚えつつも無視はできなくて通話ボタンを押す。
無視できない理由は絶対にアンジェリークに関わる用件だろうと想像できるからだ。
そしてそれは嬉しくないことに間違いではなかった。
「アリオス!大変ダヨ!」
電話が繋がるなり少女の焦った声が耳に響く。
アリオスはうっとうしげに電話を遠ざけ、低い声で応えた。
「もう少し静かに喋れねぇのかよ、レイチェル」
アリオスの不機嫌な声などまるで気にせず電話の相手…レイチェルは続けた。
「落ち着いて喋れる状態じゃないんダヨ!
 ワタシとアンジェ、事故に巻き込まれて…今病院に…。
 ワタシは擦り傷程度なんだけど…アンジェが!」
「!!」
信じたくない、聞きたくないという思いが一瞬掠める。
だが、それで事態が良くなるわけでもないので理性で感情は殺した。
まずは現状を把握しないと何も始まらない。
「どこの病院だ?」
「パスハ先生のところだよ」
そこならばこのスタジオから近い。
「すぐに行く」
電話を切るなりアリオスは現場から出て行こうとした。
「おい、アリオス?」
カメラマンのオスカーがただならぬ雰囲気のアリオスに声をかける。
「休憩時間を長引かせるか、撮影終了にさせてくれ。
 穴埋めならいくらでもする」
「アリオス!?」
マネージャーであるエルンストが驚きの声を上げる。
彼の傍若無人ぶりは珍しくないが、こんなケースは今までなかった。
真剣に仕事に取り組む彼から出る言葉とは思えない。
だが…彼が仕事よりも自分自身よりも優先させるものは一つだけ心当たりがある。
「いったい何があったのですか?」
自然とエルンストとオスカーの表情も緊張に包まれていた。



アリオスが知らされた病室の前に駆けつけるとちょうどパスハとレイチェルが
出てきたところだった。
「アンジェリークは?」
モデル仲間であるサラの夫、パスハとはアリオスも面識があった。
パスハもアリオスが挨拶もそこそこにいきなり本題に入っても特になんとも思わず、
それどころか当たり前のように話を始める。
「外傷はレイチェル同様擦り傷程度だ。ただ…」
「とりあえず中で話を聞かせてくれ」
アリオスはパスハの言葉に少なからず安堵した。
それでも早く彼女の無事な姿を確認したい。
彼の話が途中だったが、アリオスは病室へのドアを開いた。
「待て、アリオスっ、まだ話が…」
「アンジェ!」
病室のベッドで上体を起こしていた少女は名を呼ばれて振り向いた。
そして困ったように微笑む。
『心配かけてごめんね』とか『でも大丈夫だから』とか…。
そんな安心させてくれるような言葉を聞けると思っていた。
そうしたら、自分は『無事で良かった』とか『あまり心配させるな』とか…。
一言囁いて抱きしめれば、またいつも通りの二人でいられるのだと思っていた。
しかし…。
彼女の言葉はあまりにも衝撃的だった。
「あなたは…誰?」
「!!」
冗談にしてはキツすぎる。
冗談ではないとしたら、先程の安心など吹き飛んでしまう。
「アンジェ?」
彼女のベッドに近付き、そっと絆創膏の貼られていない方の頬に触れる。
びくりと肩を震わせ触れられることに怯む少女をアリオスは見つめた。
「ごめんなさい…何も覚えてないの…」
とても申し訳なさそうな、泣きそうな顔でアンジェリークはアリオスを見つめ返した。
「アリオスのことも覚えてないの?」
「ごめんなさい…」
「あ、いや、アナタが悪いんじゃないんだけど…」
項垂れる少女にレイチェルが慌てて付け足す。
「そうかー。アリオスでさえも覚えてないか…」
信じられないとばかりにレイチェルが重い溜め息を吐いた。
「アリオスさん…アリオスさん…」
アンジェリークは一生懸命にアリオスの名を呟いては記憶を手繰ろうとしている。
しかし、残念そうに首を振る。
「分からない…。
 えーと…私はアリオスさんとどういう知り合いだったのかな…?」



知らない者を見つめる瞳。
彼女の瞳に自分はそのように映っていた。
「マジかよ…」
アンジェリークがいくつかの検査を受けるために部屋を出た後、
アリオスは彼女がいたベッドに腰掛けて低く呟いた。
「だから待てと言ったのだ」
心の準備をさせてから会わせたかったパスハが状況説明を始めた。
「外傷は特に問題ない。ただ彼女の記憶に問題がある。
 事故のショックだろうな」
「どんな事故だったんだ?」
「私とアンジェが今日会う約束してたのは知ってるよね?」
「ああ」
街で買い物とお茶を楽しんでくると聞いていた。
クリスマスを目前に控えてかなり賑わう繁華街の大きな交差点。
学生達は休みに入っている上に祝日とあっては出歩く人々も必然的に増える。
多くの人が歩くそこへ一台の車が突っ込んできたのだとレイチェルが言った。
「居眠り運転だったらしいヨ。
 ワタシ達は車と直接ぶつかったわけじゃないケド…」
周りに人が多くて逃げ切ることはできなかった。
倒れる人々に巻き込まれて転んで…。
打ち所が悪かったのか、倒れたアンジェリークは気を失っていた。
他のケガ人達と一緒に病院へ運ばれて、目を覚ました彼女には記憶がなかった。
親友のレイチェルも思い出せず、面識のあるはずのパスハも分からない。
それどころか自分の名前すら覚えていなかった。
「けっこう大きな事故だったから今頃ニュースになってるかもネ。
 生きてて良かった、って思うべきなんだろうケド…」
レイチェルは視線を落として言葉を濁した。
「今精密検査を受けさせているが…記憶喪失とは厄介だな。
 おそらく日常生活に差し障りない程度の知識はありそうだが
 何をどこまで忘れているのか…」
パスハの言葉に二人は難しい表情をする。
「すぐに記憶が戻るかもしれないし、ずっと戻らないかもしれない。
 同じような体験をすれば思い出すという例もあるが、今回ばかりは
 それも試せないだろう」
「……そうだな…」
忌々しげにアリオスが舌打ちをする。
「居眠り運転だと?
 ふざけたマネをしてくれる」
「本当だよ。事故るなら一人でやってほしいヨ!」
「でも、記憶は戻るかもしれないんでしょう?
 戻らなかった時に怒るってことにしない?」
「「アンジェリーク?」」
『犯人許さん!』と怒りに燃える二人を宥めたのは戻ってきたアンジェリークだった。
「ほら、怒ったところで問題解決するわけじゃないし。
 思い出せたら擦り傷程度で済んでよかったね、って笑えるよ?」
「………」
ふわりと微笑むその表情はやはりよく知っている彼女のもので…。
記憶をなくしてもアンジェリークはアンジェリークなのだと思い知る。
「まったくアナタらしいね。
 OK。とりあえず思い出せるよう協力するよ」
「うん、ありがとう」
「記憶をなくした本人が一番冷静だな」
感心したようにパスハが頷いた。
「ご両親に連絡した時もそうだったもんネ」
記憶をなくしたことに気付いてレイチェルがアンジェリークの両親に連絡を入れた時。
慌てて帰国すると言う両親にアンジェリークはその必要はないと言ったのだ。
戻ってきたからといって状況が変わるわけでもないし、
怪我もたいしたことないので特別に世話をしてもらう必要もない。
仕事が忙しくて冬休みを一緒に過ごせない両親を
わざわざ呼び戻すのは気が進まないのだと。
こまめに連絡は入れて安心させるから、と笑って言ったのだ。

パスハは診断結果の書類に目を通し、アンジェリークとアリオスを見た。
「入院する必要はなさそうだな。
 もし容態が急変したなら私の携帯に遠慮なく連絡してくれ」
「はい、ありがとうございます」
帰り支度を始めるアンジェリークを見守りながら、ふとアリオスは気付いた。
「おい、こいつどこに帰るんだ?」
「え? あ!」
レイチェルもそこに思い至り、声を上げた。
「?」
当の本人はもちろん何のことか分からず首を傾げている。
アンジェリークは寮生活をしている。
だが年末年始は寮が閉まってしまう為、そこには帰れない。
両親は仕事で海外在住のため、国内に帰る家はない。
去年の冬休みはホテル暮らしやレイチェルの家に泊まるつもりだったのだが、
アリオスが自分のマンションに来ることを勧めてアンジェリークも頷いたのだった。
今年もそうだった。
今朝まで彼女はアリオスのマンションにいた。
だが…。
「いきなり初対面のオトコの家に泊まらせるわけにはいかないよね…」
「初対面じゃねぇ」
アリオスは認めたくはないが解るだけに憮然と言う。
「同じようなもんだよ。
 じゃあ、ワタシのうち?」
「……本人に選ばせるか」
「いいよ、それで」
「ああ、その前にスタジオに戻らねぇとな」
「チョットっ、撮影すっぽかしてきたの!?」
「休憩時間に抜けてきただけだ」
「ってそんなに休憩時間長くないでしょー!」
「だから戻るんじゃねぇか。
 ちょっと待ってろ。オスカーに連絡入れてくる」
悪びれることのない態度に呆れつつレイチェルは言った。
「まったく…ちょっとくらい申し訳なさそうにしてもいいのに」
それを見てくすくすとアンジェリークが笑った。
「レイチェルとアリオスさんは仲が良いのね」
うんざりとした表情でレイチェルは首を振った。
「ど・こ・が?
 ワタシとアリオスなんて仲悪いよ。天敵」
いつもアンジェリークを取り合ってる敵同士なのだから。
「そう見えないよ?」
「ともかく! アリオスと仲が良いのはアナタなの!」
「はぁい…」
アンジェリークは肩を竦めて笑った。
「待たせたな。行くか」
オスカーへの連絡と会計を済ませてきたアリオスが二人に声をかけた。
「アンジェも連れて行くの?」
「スタジオ行って、知ったメンツ見て何か思い出すかもしれねぇだろ」
「あ、そっか。
 試せることは全部やっておいた方がいいよね」
レイチェルはうんうん、と頷いた。
「ワタシちょっとうちに寄ってから行くよ。
 二人で先に行ってて」
ぱたぱたと駆けていくレイチェルを見送った後、アンジェリークはアリオスを見上げた。
「スタジオ?」
「ああ、今日の俺の仕事場だ」
「アリオスさんの職業って?」
「モデル」
どうも彼女とこういう会話をするには違和感がある。
知ってて当然のことを知らない。
ちりちりと胸の内を焦がすような焦燥感を覚える。
でも確かにアンジェリークはアンジェリークで…。
「ああ、どうりで…」
ふわりと笑うその表情はアリオスがよく知っているものだった。
「アリオスさん、そういう空気持ってる」
その笑顔につられてアリオスも微笑んだ。
「アリオス、だ。アンジェ」
「?」
「お前は俺のことをそう呼んでた」
「え、呼び捨て?」
大きな瞳を見開いて聞き返す。
「…本当に?」
「ああ」
「………アリオス?」
躊躇いがちにアンジェリークが呟く。
「そう。よく出来ました」
アリオスは苦笑しながら、停めていた車の助手席のドアを開けた。
アンジェリークの顔は見事に真っ赤だった。
初めて彼女が自分の名を呼んだ時も同じだったことを思い出す。
「なに照れてるんだよ」
「だって…」
「早く慣れろよ?」
アリオスは小さく笑うと、くしゃりと彼女の髪をかきまぜた。





「よぅ、お嬢ちゃん。アリオスに愛想をつかしたんだって?」
「え、え?」
スタジオに入るなり、明るく声をかけてきた青年にアンジェリークは戸惑う。
「えーと…あなたは?」
「悲しいな。俺のことまで忘れてしまったのか?
 一昨日、その可愛らしい唇で俺を喜ばせることを言ってくれたのに…
 俺のお嬢ちゃん」
「え? あの…」
アンジェリークはアリオスとオスカーを交互に見比べる。
「私、アリオスと付き合ってた…はずだよね?」
「ああ。こいつの言うことは聞き流しとけ。
 一昨日こいつの誕生日を仕事仲間で祝ってやっただけだ」
「そこに私もいたのね」
「そういうことだ」
「びっくりしたぁ。オスカーさんとも付き合ってたのかと思った…」
「安心しろ。それは絶対ない」
アリオスは混乱する少女に頷いてやると、問答無用でオスカーの首を絞めた。
「オスカー、てめーこの非常時にシャレにならねぇこと言うんじゃねぇよ」
「ぐっ…苦し…。ちょっとした場を和ませるためのジョークじゃないか」
「時と場所を選べ。俺のことまで信憑性がなくなるだろ」
まったく覚えのない男が恋人だと名乗ったところで信じてもらえるかどうか
あやしい状況なのに、そう主張する男が何人も出てきたら
本物であっても信用してもらえないかもしれない。
「さすがのアリオスも余裕がないと見えるな」
咳込みつつも仕返しとばかりにオスカーがにやりと笑うと、アリオスは
アンジェリークに聞こえないよう声を低めて答えた。
「てめーも惚れた女に綺麗さっぱり忘れられてみろ。
 いつまでそのにやけたツラが保てるんだろうな」
これ以上彼女を混乱させるようなことを言うな、という脅しとさえ取れる
その表情にオスカーは肩を竦めた。
「はいはい。それにしても本当にあるんだな、記憶喪失って」
「そうみたいです」
きょとんとしているアンジェリークを見て、オスカーは締められた首をさすった。
メイクを直しに行ったアリオスの背中は明らかに不機嫌である。
「エルンスト。撮影できると思うか?」
アリオスのマネージャーであるエルンストにオスカーは尋ねた。
自分よりも大切にしているアンジェリークが事故に遭ったうえに
恋人である自分の存在すらも忘れられたのだ。
動揺していないはずがない。
そんな状態で仕事を続けられるのか。
「…様子を見てみましょう」
「だな。無理だったら休憩前に撮ったものから選ぶか、後日撮り直しか…」
二人の真剣な表情と会話にアンジェリークは何も言えなかった。
ただ撮影準備をしているアリオスを見つめる。
「……アリオス……」


「さすがですね」
数分後、エルンストが感嘆の声を漏らした。
カメラに向かって射抜くような視線。
トップモデルとして君臨していることを納得させる不敵な表情。
内心はどうであれ、いつもと変わりない仕事ぶり。
彼は本物なのだと思い知らされる。
「だってあのアリオスだよ?」
遅れてやってきたレイチェルが当たり前じゃん、と言わんばかりに答える。
「ね、アンジェ」
「………」
「アンジェ?」
アンジェリークは黙ったままアリオスから目が離せないでいた。
「もしかして、なにか思い出した?」
「え、ううんっ、そうじゃないの。
 そうじゃなくてね…」
アンジェリークは慌てて首を振る。
その頬は熱でもあるかのように赤く染まっている。
「どうしてあんなにすごい人が私の……その……恋人、になったのかな?」
「……それはワタシも知りたいよ」
「同感です」
レイチェルだけではなくエルンストまでもが溜め息交じりで頷き、
アンジェリークは自分で言い出したことながら僅かに落ち込む。
どう見ても大人であんなにかっこいい男性が自分と釣り合うとは思えない。
「だよね…」
「あ、いえっ。貴方が思っている内容とは違う意味で、ですからね」
「?」
「そうそう。あんなオトコにアンジェはもったいない!」
「え?」
「もっと他にイイ人いっぱいいるよ?
 いったいあのアリオスのどこが好きだったの?」
まるで彼に良いところがないような言い方である。
ひどい言われようにアンジェリークは目を丸くする。
「どこって言われても…」
覚えていないものは答えようがない。
返答に困るアンジェリークを助けたのはアリオス本人だった。
「…っ…」
庇うように後ろからふわりと抱きしめられてアンジェリークは声も出ないほど驚いた。
「お前らなに吹き込んでんだよ」
「あら、もう撮影終わったの?」
「ああ。さっさと終わらせてこいつの記憶取り戻さねぇとな」
「アリオス…」
真っ赤になって俯いていたアンジェリークが消え入りそうな声で呟いた。
「悪い。驚かせたな」
アリオスはすぐに解放してやると、ぽんと栗色の頭に手を置いた。
「ううん…大丈夫」
アリオスは自然に抱きしめた。
レイチェルとエルンストも当たり前のように見ていた。
きっと以前もそうだったのだろう。
そう思ってアンジェリークは微笑んだ。


撮影後はアリオスとレイチェルだけではなく、オスカーやエルンストなど
親しい仕事仲間と一緒に夕食をとった。
アンジェリークの状況が状況なので主に話の内容は思い出話となった。
各人とどんな風に出会ったのか、今までにどんな事があったのか。
いくつもの楽しそうな出来事を聞いてもアンジェリークはぴんと来ない。
ただ、周りの人々に恵まれていたのだな、ということだけは分かった。
「さて、と。ワタシはそろそろ帰るケド…」
レイチェルが時計を見て、そしてアンジェリークの顔を覗き込んだ。
「アンジェはどうする?」
レイチェルの家に行くか。
アリオスのマンションに行くか。
アンジェリークは昨日までの状況を説明されたうえで、
好きな方を選んで良いと言われていた。
「私は…」
レイチェルの顔を見上げ、次に隣のアリオスの顔を見つめる。
「…ありがとう、レイチェル。
 でも、アリオスのところに行くよ」
「本当に大丈夫?」
「んだよ、その言い方は…」
レイチェルの言葉にすかさずアリオスが不満げに呟く。
「ふふ、大丈夫だよ。
 それに出来るだけ今まで通りにしてた方が何か思い出せるかなぁと思って…」
「ん、分かった。
 あ、襲われそうになったらいつでも電話していいからネ」
「…っ……」
レイチェルの冗談にアンジェリークが真っ赤になって凍りつく。
「おい…」
「だってー、日頃の行いが行いだからねー」
さらに追い討ちをかけるような言葉にアンジェリークはアリオスを見つめる。
「日頃の行いって……」
その瞳に不審な色が浮かぶ前にアリオスは先手を打っておいた。
「心配すんな。お前がその気にならない限り手は出さねぇよ」
(…………それって私次第でどうにかなっちゃう…って事だよね…?)
それが彼女の心配を拭えるセリフだったかどうかは疑問だが。





「お邪魔しまぁす」
アリオスのマンションに入って、アンジェリークはきょろきょろと
部屋の中を見渡した。確かにそこかしこに自分のいた気配がある。
明らかにアリオスやその弟でアンジェリークの同級生でもあるゼフェルの
持ち物ではない服や小物、生活用品。
何よりこの部屋に入って『初めて来た場所への緊張感』はない。
周囲の人から聞いた話ではアリオスと付き合い始めて1年と少し。
自分はこの部屋でけっこう過ごしていたらしい。
少なくともレイチェルの家へのお泊りよりもこちらの方が多いと聞いた。
「『お邪魔します』よりも『ただいま』の方が違和感ないかも…」
「そうだな」
確かに今朝まで彼女はそう言っていた。
「うん、やっぱりこっちに来て良かったかな?」
アリオスは微笑む少女に答えるように栗色の髪をかき混ぜる。
そこまでしか触れられない。
抱きしめたい。
けれど、今はそれができなかった。
アリオスは小さく笑って、名残惜しげにさらさらと流れる髪を梳く。
「お前がここに来るとは思わなかった」
アリオスへの想いすら忘れた今の彼女はレイチェルの家を選ぶと思っていた。
彼女がここに来ることを選んだだけでも言葉にできないくらい安堵を覚えた。
「どうして?」
彼の笑みに理由が分からないままアンジェリークの胸が痛くなる。
「お前にとっては知らない男の家に泊まるのと同じだろ」
アリオスはレイチェルに言われた言葉をそのままアンジェリークに告げた。
「ゼフェルもいないし、俺と二人きりになるのは遠慮するかと思ってたぜ」
「……で…」
「?」
だが、アンジェリークの声は小さすぎてアリオスまで届かなかった。
首を傾げるアリオスに彼女はなんでもない、と笑ってみせる。
「だってアリオスは私の恋人なんでしょ?」
だからここを選ぶのは当然なのだ、と。
「…サンキュ」
「アリオス?」



小さく聞こえてくるシャワーの音。
リビングにいたアリオスはなるべく聞かないように意識を逸らしながらグラスに手を伸ばした。
残りを一気に呷って、長い溜め息を吐く。
「やっかいなもんだな」
アンジェリークに触れられない。
かつて彼女を口説く時には遠慮などしなかった。
失うものはなかったから、思うままに告げたし触れた。
なのに今は…抱きしめることさえできない。
一度手に入れてしまうと失うのが怖くなる。
全てを忘れた彼女がどこまで自分を受け入れているのか
分からないから容易に手を出せない。
怖がらせて、嫌われたくはない。

アリオスは珍しく弱気な自分に苦笑した。
「らしくねぇな…」
「アリオス?」
「どうした?」
意外に思考の世界に没頭していたらしい。
気付かぬ間にやってきたアンジェリークに声をかけられ、アリオスは顔を上げた。
「うーん…私がアリオスに聞いたんだけどね」
アンジェリークは照れたように笑いながら、アリオスの隣にちょこんと座った。
ソファの上で膝を抱えて丸くなり、アリオスを見つめる。
「難しいカオしてたから…」
そしてきっと彼にそんな深刻な顔をさせたのは自分なのだ。
「ごめんね」
忘れてしまって…。
躊躇いがちにアリオスの肩に寄りかかる。
風呂上りのその身体は心地良い温かさを伝えてくれる。
一生懸命甘えようとしてくれる少女の肩をアリオスは抱き寄せた。
「お前が謝る必要ないだろ」
「うん、でも…」
「パスハも言ってただろ。
 すぐに記憶が戻るかもしれねぇし、そんなに心配すんな」
「戻らなかったら…?」
「それはその時考える」
「ふふ、いきあたりばったり?」
アンジェリークはくすくすと笑い出す。
「でも、そうだね。そうするしかないよね」
「で、だ。
 とりあえず今夜はどうする?」
「え…と…」
口篭るアンジェリークにアリオスは苦笑した。
「ああ、深い意味はねぇよ。
 一人でいたいか、側についていてほしいか。
 お前はどっちが良いかって訊いてんだ」
「アリオス…?」
「お前が一人で平気なようなら俺は別の部屋で寝る」
ずっといつものように笑っていたアンジェリークだが、
記憶を失くして心細くないわけがないのだ。
だからアリオスは極力アンジェリークを一人にしないように、
だが、二人きりにはならないように気を遣っていた。
アリオスがシャワーを浴びに行っている間も、両親に連絡を入れておけと
アンジェリークに電話を押し付けてから浴室へ向かっていた。
そして今も選ばせてくれる。
一人で落ち着いて考えたいと言えば一人にさせてくれる。
心細いと言ったなら、側にいてくれる。
「…っ…」
ふいに涙がぽろっと零れた。
「アンジェ?」
アンジェリークは慌てて涙を拭う。
「ち、違っ…大丈夫。ごめ…止まらな…」
拭いても拭いても涙は溢れてきて、アンジェリーク自身がそれに動揺する。
アリオスは苦笑すると小さな身体を抱きしめた。
腕の中の少女に囁く。
「俺の前では無理するな」
「アリオス……」
彼の言葉と腕はとても安心できて…アンジェリークは泣き出した。
「なんにも覚えてないの…思い出せないの…」
自分の事も、他人の事も何ひとつ分からない。
皆、アンジェリークに忘れられたことに傷ついた表情をする。
でも優しい人達だからそんなことを気付かせないように、
アンジェリークに罪悪感を覚えさせないように明るく振る舞って励ましてくれる。
「早く、思い出したいのに…」
心とは裏腹に記憶は一向に戻らない。
だから両親にだって戻ってきてほしいとは言えなかった。
来てもらっても分からないのだ。
両親の顔すら思い出せない娘と会って、また傷ついた顔を見るのが怖かった。
今まで築いてきた足元が突然なくなったような喪失感。
いくつもの思い出を聞いても、まるで他人事のようで…。
皆良くしてくれているけれど…記憶を失くした自分と彼らは
また同じ関係に戻れるのだろうか。
「ずっと思い出せなかったら…て考えると…」
彼らに限らず、クラスメイトや今までに出会った人々とも…。
どこか知らない世界に一人だけ放り出されたようで
不安で胸が押し潰されそうになる。
「思い出せなかったら、また一から始めるまでだ」
アリオスが子供をあやすようにアンジェリークの背を撫でる。
「いいの…?」
彼の胸で泣いていたアンジェリークは涙に濡れた瞳を上げた。
「アリオスのこと…忘れたのに…」
多分…記憶を失くしてから会った知り合いの中で彼が一番傷ついていた。
なんとなく、分かった。
ショックを受けて、でもずっと気を遣っていてくれて。
触れることに遠慮しながらも微笑みだけは向けてくれて。
その笑みはとても切なくて、なぜだか分からないけれど胸に痛くて。
そんな風に無理して笑わないで、と一度だけ呟いた。
彼には届かなかったから誤魔化してしまったけれど。
もう一度言う勇気はなかった。
彼に手を離されるのはとても怖いと思った。
彼が好きになってくれた前の自分と今の自分はどれだけ同じでどれだけ違うのだろう。
「私のこと…また好きになってくれるの?」
「ばーか、お前はお前だろ」
「…ひどい…」
バカはないでしょう、とアンジェリークが頬を膨らませる。
「ほら、そのクセも変わらねぇしな」
彼女の仕種にアリオスが笑う。
「記憶を失くしてもお前はお前だ。
 今更好きになるもなにもねぇよ。
 くだらねぇこと聞くな」
「アリオス…」
アンジェリークはアリオスの背に腕をまわして抱きついた。
「忘れちゃってごめんね…。
 でも、アリオスがいてくれて良かった、って思ってるよ」
不安はついてまわるけれど…彼がいてくれるから大丈夫、と思える。
少しだけ腕を緩めて、視線を合わせる。
「側にいて…」
「了解」
涙の残る頬に触れて、指先で拭う。
今は病室で見せた怯えるような反応はなかった。
それを確認して、今度は唇で触れる。
「アリ…」
アンジェリークが驚いて声を上げかけたが、その笑みだけで遮られてしまう。
黙らせられた少女が大人しく瞳を閉じる。
アリオスは擦り傷の出来た頬に口接けた。
触れる度にきゅっと目を強く瞑って硬直している彼女が愛しくて…。
「アンジェ…」
「…っ…」
アリオスは唇を重ねた。
驚かせないようにそっと触れるだけのキスを繰り返す。
「アリオス…」
「嫌か?」
真っ赤な顔で、それでもふるふると首を振って否定する。
「そんなわけ、ない…」
「上等」
口元だけで笑うとアリオスは再びアンジェリークの唇を奪った。
びくりと少女の肩が震えたが、今度は気にしない。
「アリ、オス…っ」
「ちゃんと俺のキス覚えてるじゃねぇか」
息継ぎの合間に言われた言葉にアンジェリークはさらに赤く染まる。
「分か…な…いよ…」
それでも絡む舌に応えているのは事実である。
「前は…いっぱい、してたの?」
「まぁな」
無意識に応えるほど覚えこませたアリオスは満足げに笑って頷いた。
そしてじゃれるようなキスを繰り返す。
しかし、ソファに押し倒された時点でアンジェリークはわたわたと慌てはじめた。
「あ、あの、ね。あの…イヤ、じゃないんだけど、ね。
 その…えぇと…」
側にいて、とかその他色々言っておいて、さらにここまで受け入れて、
今更逃げるのは悪い気がする。
だけど、心の準備はまだ出来ていない。
きっと自分も嫌ではないだろうから流されてしまえば良いのかもしれない、と
ちらっと思ったけれどやっぱりどこかで引っかかった。
アンジェリークの慌てぶりにアリオスは可笑しそうに笑い出した。
「悪い悪い。つい、いつものクセでな」
「もぉ…いつもって…」
笑って謝る彼にはちっとも反省の色が見えない。
アンジェリークが待ったをかけなければ、きっとそのまま進んでいただろう。
「え!? いつも?」
ワンテンポ遅れて聞き返す少女にアリオスはなんでもないことのように頷いた。
「キスの先は当然あるに決まってんだろ」
「だって、だって…手は出さないって」
ここに来る前に言ったはずなのに。
「『お前がその気にならない限り』って付けてたはずだぜ?」
「〜〜〜〜〜っ」
確かにその通りである。
その気になりかけていたアンジェリークは言い返すこともできずに
覆い被さるアリオスを見上げる。
レイチェルが日頃の行いがどうこうと言っていた意味が分かる気がした。
「アリオスって…アリオスって……油断ならない」
「なんだ、思い出したのか?」
「思い出してないっ。気付いただけっ」
「そりゃひとつ利口になったな」
「アリオスのばか〜」
全く悪びれない彼にアンジェリークは文句を言うと、
ふっとアリオスの笑みが深くなった。
「アリオス?」
「いや、こうやってるとお前が記憶失くしてるなんて嘘みてぇだな、と思って」
頬に口接けられて、アンジェリークは恥ずかしそうに笑った。
「…アリオス…」
「押し倒しちゃあ、お前に抵抗されてたよな」
「………アリオス」
アンジェリークは呆れたようにアリオスを睨む。
「まぁ、結局は俺が勝つんだけどな」
口の端で笑うアリオスにアンジェリークは今度は遠慮せずに言った。
「と、とにかく今日はダメ!」
「はいはい。もともとそのつもりはなかったって」
アリオスとしてはキスさえしばらく見送るしかないと思っていたのだ。
だから、欲しい気持ちがないと言えば嘘になるが、待ってやれる。
いつもの調子を取り戻しはじめたアリオスは不敵に笑った。
「今日くらい休ませてやる」
「………?」
いくつか外されたパジャマのボタン。
隙間から覗く白い肌には赤い花弁が散っている。
綺麗な指先でなぞられてぞくりとした。
「風呂入ったなら気付いてんだろ」
「…っ…」
素直な少女の顔色が変わったのを楽しげに見つめながらアリオスは続けた。
「お前の身体中に俺がつけた痕が残ってる」
彼の指先と耳元で囁く声にくらくらする。
「ここに来てから三日…四日か。毎晩抱いてたからな」
「〜〜〜アリオスっ」
これ以上ないくらい真っ赤になったアンジェリークがアリオスの口を
両手で塞いで彼の言葉を止める。
「…いじわる…」
恥ずかしさに目を合わせられず、そっぽを向いて呟く少女がたまらなく可愛かった。
くっと笑って塞いでいた彼女の両手を外すと、その指先に口接ける。
アンジェリークがおずおずとアリオスに視線を向ける。
「からかい過ぎたのは認めるが、本当のことだぜ?」
「アリオス…」
「お前がそうやって煽るから…抱きたくなるんだ」
「でも、今日はダメなんだから」
「…流されなかったか」
「アリオスっ!
 も、もういいっ。やっぱり一人で寝る〜」
「側にいろっつったのはお前だからな。
 変更は聞かないぜ」
「待っ……」
ふわりと抱き上げられて、アンジェリークはアリオスの寝室に連れて行かれた。
こうして不安で仕方がなかったはずの記憶喪失初日は落ち込む暇もなく終了したのだった。



                                〜 to be continued 〜



一度はやってみたいお約束ネタ。
「記憶喪失」です。
このバカップルでやったらどうなるかなぁ、と思って。




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