天使捕獲 -1
朝の駅構内はとても混雑している。 アンジェリークはやっぱり昨日のうちに寮へ帰っておけばよかった、と後悔した。 今日は夏休みを終えたばかり、始業式の日。 アンジェリークは夏休みの終盤を、こちらに戻ってきた両親と過ごしていた。 仕事の都合で両親は海外へ、そしてそれを機に アンジェリークは学校の寮へと移り、離れ離れに暮らしていた。 そういうわけで、久しぶりの家族水入らずを楽しむため しばらくホテル暮らしが続いていたのだ。 今朝別れた両親は今ごろ飛行機の中だろう。 朝のラッシュに閉口し、徒歩で通える寮がどれだけありがたいか を認識させられた。 「こんなの、毎日続くなんて大変だよね…きゃっ!」 アンジェリークは階段を降りようとしたところで人にぶつかった。 朝の駅はとても混んでいる。 そのうえ急いでいる人が多い。 老若男女問わずそういう人は、他人を押しのけて進んでいく。 「っ!」 階段のほぼ頂上でバランスを崩し、アンジェリークは声も出せず瞳を閉じた。 「………?」 しかし、いつまでたっても覚悟した衝撃はこない。 そのかわり、しっかりとした腕に抱えられているのを感じる。 アンジェリークはおそるおそる状況を把握しようと目を開けた。 「ったく…たまに電車使うとこれだ……」 頭の上から低い、魅力的な声が降ってくる。 一瞬聞き惚れ、思考が止まる。 直後に自分をまるで荷物のように、軽々と持つ片腕を胸のすぐ下に感じ アンジェリークは赤面した。 身体にまわされた腕は細く見える割にずいぶんと力強い。 なぜか、…この腕を知っている…? という既視感を覚えた。 「あ…あの…」 片腕でアンジェリークを抱き、もう片方で一緒に落ちないよう体を支える ために、手すりを掴んでいた青年はアンジェリークの声に、ああ、と 彼女を下ろした。 「ありがとうございました…」 「ぼけっとしてるとまた突き落とされるぞ。気をつけろよ」 ぞんざいな言葉。でもどこか気遣いが読み取れる。 初めて会ったはずなのに、なぜか彼らしい、と思い微笑みがもれる。 幸い一連の騒動のおかげで二人の周りだけ、人が避けて通っていくため その場でまじまじと彼を見ることができた。 銀色の髪に整った顔立ちのライン。 瞳はサングラスで見えなかった。 長身でバランスのとれたスタイルの持ち主をじっと見上げていると 彼はくっと笑った。 「なんだよ?」 「…会ったこと…あります…?」 自信なげに投げかけられた疑問。 彼はそれにサングラスを外して答えた。 現れる金と碧の不思議な光を宿した瞳。 「ないはずだが…誘ってくれてんのか?」 意味ありげに微笑まれ、アンジェリークは真っ赤になって首を振った。 確かにこれではナンパの常套句である。 「ち、違いますっ。それじゃ…学校あるので失礼します。 本当にありがとうございましたっ」 ぺこりと頭を下げるとアンジェリークは足早に階段を駆け下りていった。 人ごみに紛れていく小さな後ろ姿を見送った後、 青年は足下に落ちていたものを拾った。 「アンジェリーク……天使、か…」 予定外のタイムロスにアンジェリークは走って教室へと向かった。 息を弾ませてドアを開けると、すでに教卓には担任教師がいた。 アウト? セーフ? と訊く瞳に彼はにこりと微笑んだ。 「これから出席を取るところですよ。 間に合いましたね。アンジェリーク」 「ルヴァ先生…」 彼の前置きはなににしてもとても長いことで有名で…。 出席確認前のお話が終わったところだと レイチェルがこっそりと教えてくれた。 「でも珍しいね。アナタがギリギリなんて」 「うん。ちょっとしたアクシデントで…」 アンジェリークは駅での一件をレイチェルに説明した。 「なにそいつー? アンジェを突き飛ばしといてさっさと行っちゃったの?」 そんなに急ぐなら早めに家を出ればいいのよ、とレイチェルは 冷たく言い放つ。 「大丈夫だったの?」 心配そうに見つめるレイチェルにアンジェリークは頷いてみせる。 「後ろにいた人が助けてくれて」 「カッコよかった?」 「レイチェル…」 どうしてそういう方向に…ともてる割にそういったことにはのんびりしている 彼女は困ったように親友の名を呼ぶ。 「あ…でも、確かにカッコよかったな……」 ポツリともらした意外な彼女の言葉にレイチェルは目を輝かせる。 「で?」 「? で?…って…?」 逆に聞き返されてレイチェルは困った。 「名前とか…連絡先とか…なんか話さなかったの?」 「別になにも…? お礼言ってさよならしたわ。 遅刻しそうだったし」 もう会うこともないんじゃないかなぁ、とアンジェリークはのんびりとしている。 期待した私が間違ってたよ…とレイチェルは溜め息をついた。 「まーったくどのコなら頷いてくれるってのよ」 派手な出で立ちに妙な言葉使い、だけど人を惹きつける 雰囲気をもった男性、オリヴィエが不機嫌を顔に表している。 「だから、俺は、誰かと共演する気はねぇって最初っから言ってんだろ」 迎え撃つ青年はそれ以上に不機嫌な表情で相手を睨みつける。 「二人とも落ちついてください」 その間でメガネをかけた理知的な青年が、なだめるように言った。 「落ちついてるわよっ」 「俺は冷静だぜ」 こんな時だけ気が合うのはどうにかしてほしい…と彼、 エルンストは額を抑えた。 「最初から整理しましょう。 まず…今回の仕事はカップルをターゲットにしたもので… 広告には男女のペアで、というクライアント側からの依頼があります」 「ああ、分かってる」 「そして男性には、あなたを…という指名があります」 「ああ」 「だけど、あなたは候補にあがってる相手役を全部断ってしまった」 「しょうがねーだろ」 「『しょうがねーだろ』じゃないでしょうっ。 単なるわがままじゃないの、もうっ」 これはビジネスなのよ、プロならしっかりやんなさい、と再び 彼のテンションがあがる。 対する青年も戦闘態勢に入る。 「プロだからこそできねーって言ってんだ!」 「俺に合わせられる奴がいるか? だからって俺がわざわざ相手のレベルにまで落としてやって、できた 作品なんざ見たくもねーよ」 複数の人間でひとつの作品を作る場合、その空気作りが大変である。 どちらかが目立ってしまわないように、どちらかが霞んでしまわないように。 しかし、彼の場合、彼の圧倒的な存在感・実力に 対等に勝負できる人物がいない。 そうなると彼が相手に合わせるという方法しか出てこない。 しかし、それは彼のプライドが許さなかった。 だから今までも受けた仕事は全部単独での仕事だったのだ。 「クライアントにはこっちもお世話になってんのよ…。 あんたを指名されて断れるわけないわ」 「…また新たに候補の写真が送られてきました」 二人に懇願されるようにテーブルの上に写真を並べられ、 彼は溜め息をついた。興味なさそうにそれらを眺める。 「だいたい女と仕事すると後が面倒くせーんだよ… 仕事が終わってからもうるせーし…」 並の男に言えるセリフではない…。 二人の顔が引きつる。 とりあえず彼を説得しなくては、と文句はあえて言わないことにした。 「それに現実の女に『天使』を求めても無駄―――……」 言いかけた言葉が途中で止まる。 今朝会った少女。 あの微笑み返したくなるようなふわりとした笑顔。 羽が生えてるかのような軽い身体。 なぜか、いつまでも鮮明に記憶に残る少女のことを思い出した。 止まってしまった彼を気にせず写真の中から1枚選び、 オリヴィエは話を進める。 「そんなこと言わずにさー…。 このコなんかイメージぴったりじゃない? アンジェリーク・リモージュって知ってるでしょ? トップ中のトップよ」 「アンジェリーク…か」 「そうっ。やる気になってくれた?」 彼の呟きを聞き逃さずにいたオリヴィエは嬉しそうに言った。 しかし彼の反応はどうも期待していたものと違う。 「心当たりがある。 相手役は俺が連れてくる。お前らは撮影の手配だけしとけ」 今日は打ち合わせだけだったよな、とエルンストに確認しつつ、 彼はもうすでに立ち上がっている。 「ちょ…ちょっと…」 「今からそいつ口説いてくる」 社長とマネージャーはにやりと笑う彼…アリオスを呆然と見送るしかなかった。 帰り道、アンジェリークはぼんやりと考え事をしながら歩いていた。 レイチェルは委員会のため、今日は一人での下校である。 「あの人…知ってるような気がするんだけど… 会ったことない…よね…」 一生懸命記憶を手繰っても出てはこない。 「うーん…」 急にずいぶんと速度を落として側を通った車が、クラクションを鳴らした。 「きゃっ?」 アンジェリークはびくりと、文字通り飛びあがるように後退った。 数メートル先で車は停まり、ウインドウが下がって運転手が見えた。 銀糸の髪に色違いの瞳。 人を惹きつけるその容姿。 思わずアンジェリークは微笑んだ。 「あ…今朝の…」 「よぉ。ちょっと話があるんだが…ここじゃまずいか…」 学校のすぐ近くの大通り。 少女の側に停まった明らかに高級車と分かる銀色のスポーツカー。 一体なんだろう、とさりげなく、でも皆が注目している。 「…ちょっと目立っちゃってますね…」 困ったようにはにかむ少女を見て苦笑する。 「それは俺も困るな。…乗らないか…?」 無用心にもそこで断る、という選択肢はアンジェリークの中にはなかった。 〜to be continued〜 |
冒頭の階段落ち。 アレは私が実際になりかけました…。 隣にいた友人が腕掴んでくれたんで未遂ですみましたけど。 皆さんもお気をつけて。 しかし…転んでもただでは起きないって こういうことを言うんだろうなぁ。 しっかりネタにする私…。 それにしてもアンジェ… 知らない人の車に乗っちゃいけません(笑) 小さな頃に教わるはずなのにね…。 |