Your song




人間に恋をした人魚姫。
結局、想いが通じることはなく、泡となって消えてしまった悲しい物語。
実はその物語には後日談があったという…。

人魚姫が消えてしまった夜以降、王子は彼女を探していた。
恋愛対象ではなかったけれど、妹のように可愛がっていた彼女が突然いなくなって
心配しないわけがない。
毎日毎日行方を捜し続けていた。
そんな様子を見ていた人魚姫の姉達は一度だけ、彼の前に姿を現したのだった。
最初は可愛い妹姫を失った原因でもある男に対して説明をする義理は無いと思っていた。
だが、もうどこにもいない人魚姫をひたすら探し続ける彼に心を動かされた。
感情の種類は違えど、彼女は彼に大事にされていた。
だから、真実を告げた。
すべてを知った彼は驚き、悲しみ、やがて一つの約束を口にした。
二度とこのような悲しいことが起きないように。
想いすら告げられず、泡になってしまうことがないように。
自分の子孫…王族にだけは人魚の存在を語り継がせる。
いつかの未来で助けが必要な時は頼るといい。
本人同士の気持ちばかりはどうしようもないけれど、出来る限りの手助けはしよう。
それは純粋な好意からの約束だった。





「時代が変われば言い伝えもズレてくるいい例だよネ。
 今じゃお互いの利益優先だもん。
 遠い昔の王子様もワタシ達のご先祖様も浮かばれないヨ」
「レイチェルったら……」
不満げに愚痴を零す親友をアンジェリークは困り顔で宥める。
「アンジェったら、どうしてそんなに平然としてられるの!
 アナタが一番関係あるんだよ?」
「分かってるわ」
昔はささやかな約束だった。
今ではその約束は国交の基盤とすりかえられている。
陸の人間達は海の恵みを。
海の住人達は陸の文明を。
それぞれ政治的な思惑があって、定期的に双方の王家で婚姻関係を結ぶようになっていた。
ちょうど今がその時期で、アンジェリークは数日前に陸へ嫁ぐよう言われたのだった。
「どうして他の姉姫達じゃなくてよりによってアンジェなの!?」
「お父様も言っていたじゃない。
 私が一番陸に憧れているって…」
「そもそもそれが勘違いでしょ!」
確かに王は勘違いをしていた。
基本的に人魚は陸に近付かない。
人間の王族に存在を認められているとはいえ、やはり大多数の者には伝説や御伽噺程度の認識だ。
好奇の目に晒されるのは忌避している。
それにも関わらず、アンジェリークは頻繁に陸の近くへ出かけているので物好きだと思われていた。
陸に憧れているのだと皆に思われていた。
嫁げばもう人魚の姿には戻れない。
海の世界に二度と戻れない。
過去に嫁いだ姫の全員が喜んで海を出たとは限らなかった。
だからこそアンジェリークが適任だと考えたらしい。
「陸に興味があるわけじゃない、特定の人間に興味があるんだってちゃんと言ったのっ?」
「……言ったわよ。聞き流されちゃったけど」
「〜〜あの分からず屋っ!石頭!
 言いたいことしか言わないし、聞きたいことしか聞かないんだからヤんなるよっ。
 まったく何様なんだか」
「……王様だもの」
「む、アンジェってばあの人の肩持つ気?」
自分ばかりが怒っている気がする、とレイチェルはアンジェリークを軽く睨んだ。
「まさか。そんなわけないじゃない」
アンジェリークは首を振って否定した。
「言っても無駄だから、こっちはこっちで動かせてもらうわ」
「アンジェ……?」
相変わらず穏やかな微笑みなのに……なんだかいつもと違う。
実は相当怒っている?
優しい幼馴染みの珍しい感情に気付いたレイチェルは心持ち後退った。

「そういうわけで、王子様に会う前に陸に上がりたいなぁと思ってね。
 宮殿付きの魔女であるレイチェルにお願いに来たの」
「本気……なんだよね?」
わざわざ肩書きを強調する辺りに本気は見えている。
真剣に、慎重に訊ねるレイチェルにアンジェリークは頷いた。
「結婚は…王族の義務だから逃げちゃいけないことだけれど……
 その前に悔いが残らないようにしたい」
「……………」
レイチェルはしばらく難しい顔をして黙り込んだ後、
奥の棚の一つ、鍵付きの引き出しを開けて二つの小瓶を取り出した。
「こっちのピンクがヒトになる薬。
 こっちのブルーが人魚に戻る薬。
 一口飲めば充分だから。ヒトでいる時間の目安は半日くらいってとこかな」
御伽噺の魔女の末裔は語り継がれた術に自分自身の才能をしっかり融合させていた。
昔は一度人間になれば、それだけだった。
もちろんアンジェリークも嫁ぐ時にはその薬を飲むことになるだろう。
だが、レイチェルは極秘裏にそれ以外の薬も研究を重ねて開発していた。
「最初のうちは陸に上がるなら夜の間の方がいいかもね」
海の中で生きている自分達にいきなり夏の太陽の光はキツいかもしれない。
「わかったわ」
「でもアンジェ…」
「なに?」
「便利な薬だけど……身体の構成を無理矢理変えるわけだから、
 その時の辛さだけはいくらワタシでも取り除けないよ?」
それを一日に二度も味わうことになる。
表情を曇らせるレイチェルにアンジェリークは笑って言った。
「それくらい我慢できるよ。
 ずっと会いたかった人に会えるんだもの」
それにレイチェルは優しいから声を奪ったりしないしね、と冗談めかして笑う。
すると彼女もくすりと笑って肩を竦めた。
「アンジェの声もらったってネ……。
 アナタと話せなくなるなんてワタシにいっこもメリットないじゃん」
そして、親友を明るく励ました。
「憧れの人に会うんでしょ?
 気持ち伝えておいで」
「うん。レイチェル、ありがとう!」



     ◆



雲ひとつない夜空には満天の星。
満月が海をきらきらと照らしている。
波の音が静かに響いている。
海辺を散策するにはもってこいの天候。
だが、静かな夜には不釣合いなほどアンジェリークの心臓はうるさかった。
「とうとう来ちゃった……」
ドキドキしながら、そぉっとごつごつとした岩場を進む。
目指すは目の前にある瀟洒な別荘のテラス。
玄関は砂浜にあるが、テラスは海…というより岩場に面している。
ある程度の面積は別荘所有者の敷地となっている為、
関係者以外が来ることもほとんどないだろうが
やはり防犯上の関係からか、他人が簡単には寄り付けないような造りになっている。
そんなところを一人の少女が波に濡れた岩の上を危なっかしい足取りで歩いていた。
「……っ……」
初めて人の姿になって歩いているうえに足場もよろしくない。
ぐらりと身体が傾ぎ、上げかけた悲鳴を飲み込む。
なんとか倒れるのを免れ、ほっと一息吐いてテラスを見つめた。
(どうしよう……引き返した方がいい……?)
ぎゅっと手の平を握って俯く。
(今なら…引き返せる……。
 でも……)
迷う彼女の耳に心地良いピアノの音が小波に混じりながらも聞こえてきた。
綺麗な旋律に勇気をもらって、彼女は再び歩き始めた。
足音を立てないようにそっとテラスに上がる。
少しだけ窓が開いているせいで閉められたカーテンがひらひらと揺れている。
そこからピアノの音が流れてくる。
(……これって不法侵入って言うんだっけ……)
悪いことをしている、と思うと気持ちが沈んでしまうけれど。
それでも自分の中で決めてしまったから。
諦めたように苦笑すると彼女は窓の側の壁に背を預け、ちょこんと座り込んだ。
波の音はさほど気にならない。
ここならピアノの音がよく聞こえる。
目を閉じてただ聴いていた。
大好きな音。
綺麗で正確で研ぎ澄まされた冷たい音色。
基本的にはそういう音なのに、ある曲だけはとても優しくて温かい。
たまに聴けるその曲が特に好きだった。
弾いてくれるのをいつも心待ちにしている。



     ◆



夏の一月ほどだけ滞在する海辺の別荘。
どんなに仕事が忙しくても、これだけは毎年譲らなかった。
周囲の煩わしさから隔離されて集中できる。
好きなものを弾きたいだけ弾ける。
「……?」
ふいに鍵盤の上を滑る大きな手が止まった。
彼は窓の向こう側を眺め、やがて立ち上がった。


「あれ…? 音が止まっちゃった」
瞳を開け、どうしたんだろうと首を傾げると長めの栗色の髪がさらりと揺れた。
「勝手に入ってきて盗み聞きとはイイ度胸だな?」
「っ!!」
頭の上から聞こえてきた声にぎくりと身体を強張らせて振り仰ぐと、
銀色の髪の青年が不機嫌そうに見下ろしていた。
その証拠に金と緑の瞳はとても鋭い。
(うそ!? 気付かれた! 私、物音なんて立ててないのに。
 あ〜〜、こんな予定じゃなかったのに〜っ)
動揺のあまり声にならずに口をぱくぱくとさせる。
どうしようという思いがぐるぐると頭の中を回っている。
「……っ……」
本当ならこんな風に出会うつもりじゃなかった。
いかにも勝手に忍び込んでいました、という状況では悪印象しか与えない。
今夜はちょっとだけ聴かせてもらって、こっそり帰るつもりだった。
もっと違う方法で出会うはずだったのに。
「あ、あの…ごめんなさい!」
「…ったく、どっから入り込んだんだ」
真っ先に勢いよく謝ると、彼は気を殺がれたのかあたりを見渡した。
テラスの目の前に広がるのは岩場。そして海。
こちら側からの侵入は難しいというのに。
「えぇと……」
口篭る少女に彼はさらに問いを重ねた。
「何しに来た?」
「あなたのピアノが聴きたくて…」
「ほぉ……」
彼は口の端を持ち上げたが、それは冷たい笑みだった。
(うぅ……やっぱり怒ってる…)
「ファンならファンらしくマナーは守るんだな。
 俺のピアノをタダで聴けると思うなよ?」
「ファン……マナー…?
 あ、勝手にテラスに上がったのは本当にごめんなさい。
 あれ? でも有料なの?」
今にも摘み出されそうな雰囲気が怖かったけれど、アンジェリークは浮かんだ疑問のままに口を開いた。
少女の不思議そうな顔につられたように彼も片眉を上げる。
「俺を知ってて乗り込んで来たんじゃないのか?」
「?」
きょとんとした顔で彼女は彼を見つめている。
「私は……毎年あなたがここでピアノを弾くのを知ってるだけよ」
見つめ合って数秒。
そして、彼は笑い出した。
一気に場の空気が柔らかくなる。
「な、なに……?」
「何者かと思えばただの世間知らずなお嬢様か」
くっくと笑いながら彼はテラスにあるテーブルセットの椅子を二つ引いた。
その片方にさっさと座り、視線でアンジェリークにも座れと示す。
アンジェリークは大人しくそれに従った。
「なんでこっちじゃなくて床に座ってたんだ?」
「……持ち主に無断で座れないもの」
真っ直ぐな考え方も物言いも、忍び込んでおきながら育ちの良さがうかがえる。
「この辺りは貴族の別荘地帯だ。
 どこかの家の箱入りお嬢様ってとこか」
「……そこは追求しないでほしいんだけど……」
さすがに海に住んでいる人魚だとは言えない。
アンジェリークが苦笑すると、彼は肩を竦めただけで許してくれた。
「そりゃそうか」
お嬢様にあるまじき行動をしでかした手前、家の名は明かせないのだと思ってくれたらしい。
「だけど、名前くらいは聞かせろよ?」
「アンジェリークよ」
「アンジェリーク、か。俺はアリオスだ。
 ピアニストとしてそこそこ名は売れてるはずだ」
「ピアニスト……」
アンジェリークは彼をまじまじと見つめた後に納得したように笑った。
「道理で上手だと思った」
「お褒めに預かり光栄で」
「本当にそう思って言ってるわよ?」
彼の皮肉げな表情にアンジェリークは口を尖らせた。
「それは、確かに……私はこの海しか知らない、世間知らずだけど……」
他の人が弾くピアノなんて知らないけれど…。
それでも昔からこの人の音に惹かれていた。
「まぁ、嘘だとは思ってねぇよ。
 こうして忍び込んでくるくらいだからな。
 まったく大胆なお嬢様だぜ。なぁ?」
「う……ごめんなさい」
アンジェリークは居心地悪そうに身を竦めた。
「本当は明日、ちゃんと訪ねてお願いするつもりだったの」
「お願い?」
アンジェリークはアリオスを真っ直ぐに見上げた。
「あなたのピアノを聞かせてほしい」
「正式な仕事としての依頼か?」
「うーん……ピアノをお仕事にしてる人だとは思ってなかったから
 そこまで考えてなかったんだけど……。
 今みたいにあなたが好きなように弾いてるのを聴かせてもらえたらと思ってただけで。
 ……お金だって持ってないし」
アンジェリークはごそごそと持ち物を探った。
「あ、これじゃダメ?」
身に着けていたブレスレットを外す。
そこには大粒の美しい真珠が連なっていた。
そのままでも十分な代物だが換金すれば相当の額になるだろう。
有名ピアニストへの依頼料だとしても破格過ぎる。
こともなげに差し出された真珠にアリオスが一瞬言葉に詰まっていると
少女は足りないと思ったのか、今度は首飾りを外した。
これも見事な大きさ、月明かりでもはっきり分かるほどの鮮やかな深紅の珊瑚。
「あの…今、これくらいしか持ってなくて……」
どうやら金銭感覚がずれているらしい少女にアリオスは口の端を上げた。
面白い少女だと思った。
少女の手から真珠と珊瑚を受け取り、月の光にかざして確かめる。
手に取る前から分かってはいたが、紛れもない本物である。
「何が聴きたい?」
「あなたが弾きたい時に好きな曲を弾いてくれればいいの。
 私は事情があって夜しか来られないんだけど…」
「了解」
貴族の別荘地帯なだけあって、各敷地はとても広い。
たとえ夜中に演奏していようと誰にも迷惑はかからない。
「俺もちょうど休暇でここにいるし、その間なら特別に買われてやるよ」
「な、なんかその言い方って……」
「本当のことだろ?」
からかいの笑みを向けられてアンジェリークは頬を染めた。
「……なんか違う……」
不満げに呟く少女にアリオスは高価なアクセサリーを返した。
「?」
これはアリオスにあげたものだと見つめると、彼は苦笑した。
「ばーか。本当にこんな大層なもん受け取れるか」
「でも、あなたの音は素敵よ?
 これ二つじゃ足りないくらい」
「…………」
真っ直ぐな視線と言葉にアリオスは思わず返す言葉に困った。
お世辞でないことが分かるだけに、どう返したら良いのか戸惑ってしまう。
目の前の少女は普段自分の周りにいる者達とあまりに違いすぎる。
「サンキュ」
ふっと笑うと少女の栗色の髪をくしゃりとかき混ぜた。
「俺の音は安くはねぇが……ここでの練習くらいならいくらでも聴かせてやるよ」
「ありがとう。
 じゃあ、明日の晩、また来るね」
「ああ。今度はちゃんと玄関から来いよ」
「はーい」
アンジェリークは肩を竦めると微笑んだ。



それからアンジェリークは毎晩アリオスを訪ねた。
立派な外観の割りに、ピアノと最低限の家具があるだけの殺風景な部屋。
ほんのりと淡く照らす間接照明しか点いていない。
曲を暗譜している彼は薄暗い部屋で弾くのはそれほど苦ではないらしい。
アンジェリークは大きなソファにちょこんと納まって彼の奏でる音に浸る。
初めてこの部屋に入った時は緊張してソファの上で固まっていたけれど、
今ではリラックスできるようになった。
憧れの音が近くで聴ける。
憧れの音を奏でる人に会えた。
名前を教え合って、知り合えた。
アンジェリークはソファの肘掛に凭れて瞳を閉じた。
(……来て良かった)
いつもは海から聴くしかなかった。
どんなにギリギリまで陸に近付いてもやっぱり距離は感じた。
今はこんなに側で聴ける。
そっと瞳を開けば、月明かりの中、ピアノを弾いているアリオスが見えた。
その横顔を数秒見つめて、またすぐに瞳を閉じる。
(今、幸せだから……後悔はしない)
とても幸せなのに…泣きそうになって困った。
彼の音があまりにも綺麗すぎるから、胸が締め付けられるのだと思った。


初めは音に弾かれて。
次にその音を奏でる人が気になって。
実際に会ってみたくて。
会ったら、もっと会いたくなって。
願いは際限がない。
(困ったなぁ……)
二度とこの音が聞けなくなる前に一度だけ、と勇気を出して訪れただけなのに。
もう一晩だけ、あともう一晩だけ。
それの繰り返し。
またそれを彼が許してくれるから甘えてしまう。
心地良い旋律にうとうとしていたアンジェリークは傍にやってきたアリオスが
髪を梳いてくれるのを夢うつつに感じた。
普段の言葉も態度もまるで愛想がないのに、この指先はとても優しい。



アリオスはいつの間にかソファで眠っていた少女にタオルケットをかけてやり、
頬にかかる髪をよけてやった。
(マジでお子様でお嬢様だよな……)
彼女の無防備な寝顔を見つめて苦笑する。
毎晩男の家に通っているという状況説明だけなら艶っぽく聞こえるのに、
この部屋の色気の無さはいっそ見事だ。
自分はピアノを弾くだけ。
彼女はそれを聴くだけ。
その前後に少し話をして、夜明け前に彼女は帰っていく。
それの繰り返し。

出会って二日目の晩。
アリオスとしては至極当然な質問、ここにやって来た理由を訊ねたら簡単な答えが返ってきた。
「アリオスのピアノが好きだから聴きたかったの」
「いや、それは昨日も聞いたが…」
それだけで忍び込むだろうか。
目の前の少女の雰囲気からは想像し難かった。
アリオスの質問の意図を察したのか、アンジェリークは説明を付け足した。
「私、この近くに住んでたんだけど、今度とあるトコに嫁ぐよう言われちゃったの」
「へぇ、お前がねぇ……」
「……今、十年早いとか考えたでしょ?」
上目遣いで軽く睨む少女にアリオスは笑った。
「よく分かったな」
「もう……。
 とにかく、後悔したくないから…二度と聴けなくなる前にちゃんと聴いてみたかったの。
 あなたに会ってみたかったの」
「なるほど。でも、無用心じゃねぇのか?」
「なにが?」
きょとんとした顔で見つめ返す少女にアリオスは呆れたように言ってやる。
「結婚前に他の男の家に毎晩通ってたのがバレたらまずいだろうが」
ぱちぱちと瞬きをした後、アンジェリークはくすくすと笑い出した。
「後ろめたいことは何もないもの」
「事実がどうであれ、誤解されたらそれまでじゃねぇ?」
「説明して分かってくれないなら、それまでね。
 むしろ好都合だわ」
婚約破棄ともなれば、またここにいられる。
毎年アリオスの音を聴く楽しみが奪われることはない。
そう言って無邪気に笑う少女にアリオスは額を押さえた。
「お前な……俺を面倒ごとには巻き込んでくれるなよ?」
「だーいじょうぶ。迷惑をかけるつもりはないわ」
「どうだか…」
「心配しないで。
 アリオスはピアノを弾いてくれればいいの」
「はいはい。お姫様」
純粋に自分の音を気に入ってくれたのだと解る。
本当にただそれだけなのだ。
彼女は毎晩幸せそうに聴いている。
こちらまでつられてしまいそうなほど、嬉しそうに微笑む。
それほど望まれるのなら、ピアノ弾きとして本望である。
「確かに誤解を招く状況なんだが…手なんか出せるわけねぇよな」
そういうのとは違うのだ。
あくまでも音が繋いだだけの関係。
眠る少女の隣に座り彼女を眺めていたが、やがてアリオスも瞳を閉じた。


「……ん…。
 …………っ!」
ふっと目を覚ましたアンジェリークはびっくりして声を出しそうになって、慌ててそれを飲み込んだ。
ソファでピアノを聴いていて…つい眠ってしまったのは分かる。
だけど、彼の肩に凭れて眠っていたのは予想外だった。
アンジェリークが倒れないように、アリオスの腕が肩に回され支えてくれている。
海の中では決して感じることのない温もり。
(な、なんで……)
思いもよらず至近距離で彼を見つめることになり、とてもドキドキしているのに
睫毛が長いんだなとか、今更だけど整った顔立ちだなとか、のん気に思ってしまう。
そして、ずっとこんな風に近くにいられたらいいのに…と願ってしまう。
下手に身体を動かすと彼を起こしてしまいそうで、視線だけを窓の外に向けた。
細い細い三日月が夜空に見える。
もうすぐ新月、そしてまた満月になる。
出会った時は満月の晩だった。
アンジェリークに許された時間は欠けた月が再び満ちるまでの間。
どんなに長くてもあと半月くらい。
そうすればこの国の宮殿に行かなければならない。
海にもこの別荘にも二度と戻れない。
後悔しない為にここに来たのに…。
かえって心を残すことになりそうで困る。
「アリオスの音が好き……」
それだけなのだと自分に言い聞かせるように呟いた。





海に腰まで浸かる深さで薬を一口飲む。
「…っ!」
身体が変わっていくこの瞬間だけは呼吸が止まってしまうし、苦痛は伴うしで
とても辛いのだけれど…。
それでも、時間の許す限り会いたいと思ってしまうのだ。
声を押し殺してやり過ごしたアンジェリークは海の中へと潜った。
そしてレイチェルのもとへ向かう。
「身体の調子はどう?」
毎晩出かけるアンジェリークを気にして、レイチェルは異常がないか
きちんと報告をするように言っていた。
「うん。大丈夫。
 辛いのは薬飲んだ直後だけだよ」
「そう? ま、この天才魔女レイチェル様の薬だもの。
 安心していいけどネ」
「ふふ、レイチェルったら」
だが、胸を張るだけの実力の持ち主なのである。
そんな彼女が思いついたように口を開いた。
「そうそう、こっちでも情報を集めたんだけどさ」
「情報?」
「アナタが憧れてる人の」
「アリオスの?」
どうやって仕入れたのだ、と驚きに目を丸くする彼女にレイチェルはウィンクした。
「ワタシがその気になったらこのくらいカルイカルイ」
「レイチェルってすごいのね」
アンジェリークが素直に感心するので、レイチェルは小さく舌を出して種明かしをする。
「アンジェが彼の名前と職業を教えてくれたからだけどね」
「それでもすごいと思うけど…」
海にいながら陸の情報を集めるなんて。
「そりゃ簡単じゃないけど、アリオスって有名人だったから」
その点で情報収集の苦労はなかったのだ。
「ピアニストアリオスは実力派としても有名だけど、謎の部分が多すぎて有名でもあるんだ」
彼はまるで彗星のごとく現れたという。
まだ年若い時分、初めて参加したコンクールで優勝して一躍話題の人となったらしい。
だが出自、育った環境、誰に師事しているか等、
何一つ公表されていないし、突き止めることもできない。
そしてピアニストとしての活動も気まぐれそのものである。
人前で弾くこと自体も不定期らしい。
定期的と言えるのは夏の一月だけここの別荘で過ごすことなのだが、これは公にはなっていない。
結局、分かることなどさほど無いという事が分かっただけだった。
「そもそも、アナタが直接本人に聞けばもっと手っ取り早いんだけど」
「私は最初に言ったじゃない?」 
元も子もないことを言う親友にアンジェリークは笑った。
「レイチェルの気持ちは嬉しいけど…別にそういう情報に興味はないもの」
「そういうモノー?」
「必要ないわ」
穏やかな微笑みであっさりと切り捨てる。
「アリオスの音が好きだって伝えられた。
 憧れのピアノを聴かせてもらってる。
 それで十分じゃない」
「アンジェ…」
どうせもうすぐ会えなくなるし、聴けなくなるのだ。
たくさんのことを知りすぎるのは怖い。
憧れどまりで終わらせたい。



     ◆



ちょうど半分の月が漆黒のピアノを照らしている。
弾き手のアリオスも同様に照らされている。
圧倒されるような、包み込むような、不思議な印象の音色。
最後の音の余韻が消えて、アンジェリークは思わず溜め息を零した。
そしてすぐにアリオスの側にやってくるその様はまるで子犬のようだった。
「ね、次はあの曲弾いて?
 〜〜♪ってメロディの曲」
数フレーズ分だけ歌ってねだるアンジェリークを振り向いたアリオスは
椅子の背凭れに肘をついて苦笑した。
「リクエストくらいタイトルで言ってほしいもんだがな」
「いじわる……私が知らないの知ってるくせに」
最初に伝えたから、彼はアンジェリークに音楽の知識などまるでないのだと知っている。
アリオスの弾いたピアノしか知らない。
曲名などもちろん知る由もない。
彼は気まぐれでタイトルを教えてくれることもあるけれど、基本的には教えてくれない。
アリオスは頬を膨らませる少女の反応を楽しそうに眺めると
鍵盤に向かい、弾く前にぽつりと言った。
「お前はこいつの曲が好きみたいだな」
「?」
首を傾げると栗色の髪がさらりと月明かりの中で揺れた。
「気づいてねぇだろうが、お前がリクエストするのはたいてい同じ作曲家だぜ」
「へぇ…そうなんだ。
 じゃあ、きっとこの作曲家さんとは相性がいいのね」
本当に理屈抜きで音を楽しんでいるのが分かる笑顔。
「この人の曲はロマンティックで好き。
 で、甘いメロディをアリオスが涼しい顔してさらっと弾いちゃうからまた面白いの」
「お前な……」
「でも、一番好きな曲はアリオスが作った曲かな」
「アンジェリーク?」
彼女の言葉に珍しくアリオスが驚きの表情を見せた。
「一曲だけあるでしょ、アリオスの曲が。
 私、あの曲が一番好き。
 優しくて温かくて、幸せになる」
どうして知っているのだと問う彼の視線にアンジェリークは曖昧に微笑んだ。
「アリオスって不思議。
 どんなに激しい曲も難しい曲も甘い曲も顔色変えずに弾いてるの。
 でも音の表情はちゃんとあるんだもの」
しかも硬質な印象だった音色が随分とやわらかくなった気がする。
やはりさらう程度に一人で弾いているのと、聴かせる相手がいるのとでは違うものだろうか。
「………………言ってろ」
「あはは、照れてる?
 本当にそう思ったのよ。私、アリオスの音が好き」
「知ってる」
彼の音が好きなのは嘘偽りのない気持ち。
すべてはそこから始まった。
だけど、それだけじゃない気持ちも育ってしまっている。
「だからお前の為に特別に弾いてやってんだろ?」
さらりと返された余裕の笑みにアンジェリークも頬を染めて微笑んだ。
彼の皮肉げな笑顔も、偉そうな態度も、さりげない優しさも…全部が好きになった。
弾いてる時はただ見惚れるだけ、聴き惚れるだけなのだが…。
いつからかピアノに向かう彼の背にぎゅっと抱きつきたくなってしまう自分に気付いていた。
憧れどまりで終わらせたい。
そう思った時点でもう遅いのだと…ようやく認める気になった。
彼の音に惚れ込んだだけ。
会えればそれでいい。
叶わない恋をするつもりなんかない。
自分自身に繰り返し言い聞かせていたけれど…。
これではまるで御伽噺の人魚姫である。
(……ううん、違う。
 私には私のシナリオがあるはずよ)
なにも進んで悲恋を倣うつもりはない。
物語の書き手は自分であって、どんな風にでも書き換えられると信じたい。
陸と海の婚姻の約束を忘れたわけじゃない。
自分の責任も役目も重々承知している。
それでも自分の気持ちに正直に考えられるのは、目の前の彼も彼の音も諦めるには
素敵過ぎるからだと責任転嫁しておくことにした。
なんだかんだ言いつつ、リクエストに応えてくれた彼が奏でる旋律は甘くて心地良い。
最初は眠ってしまうのはもったいないと思っていたのだけれど、
この音に包まれて眠るのは最高の贅沢だと考えを改めた。



すでに習慣と化している少女のうたた寝にアリオスは苦笑した。
確かに彼女は夜更かしできるようなタイプとも思えないが。
「警戒心なさすぎだろ…」
どんな環境で育ったんだかと思い、幼ささえ残すくせにすでに嫁ぐ先が決まるような
家の娘だったとすぐに思い出した。
裏表のない、真っ直ぐに育ったお嬢様。
きっと嫁いだ先でも可愛がられるだろう。
あまり人を寄せ付けないはずだったこの自分に受け入れさせたのだ。
「アンジェリーク……か」
どこの家の娘なのか、いまだにアリオスは知らない。
アリオスが彼女に聞くこともなければ、本人から語られることもなかった。
ただ、この近辺に別荘を持つ家にアンジェリークという名の少女はいないということは調査済みだった。
初めて彼女を見た時は月の妖精かとすら思った。
月の光を浴び、瞳を閉じてじっと音に耳を澄ましていた彼女はとても透明な空気をまとっていて
そのまま景色に溶け込んでしまうようで…。
どちらにしろ、自分の目の前から遠からずいなくなる予定の少女だということはすぐに分かったが。
「お前、いつまでここに通えるんだ?」
少女に聞かれることがないからこそ、口にできる疑問だった。




                                        〜 to be continued 〜







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