『 思 い 出 』

   田辺 源三   
 昭和の初め頃には、下田町の中央を流れる谷戸川に沿って、帯状に水田があった。柳の芽吹きと共に蛙の声が生まれ、きれいな流れには目高の可愛い列が幾組も見られた。夜は青田風に乗ってほたるが飛び交い、一入夕涼みの情緒を添えてくれたことなどが思い出される。
 高田町の名刹、興禅寺の時鐘も、忘れられぬもののひとつで、一日の仕事に疲れた夕暮、ゴ−ンと大きくひびく鐘の音を合図に「さあ入相だ」と、みな仕事の手を止めたものである。夕空を仰ぎながら家路を急ぐ野良姿も、もう見られない。
 あじさいが咲くと田植季が来る。最も忙しい季節だ。梅雨の晴間に麦のとり入れをしながら、田植も同時にやらねばならない。まさに猫の手も借りたい時・・・。時には、晩鐘の余韻を水面にただよわせながら植えつづけることもあった。

           晩鐘の 渉る田の面を 植ゑいそぐ     素風

                                     第 3号(昭和46年) 
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