『 その時の気持は 』

   石丸 巍   
 私は東京都の小学校教員だった戦時中の19年8月から20年3月まで、集団疎開をして40余名の子供達と静岡県の金谷町におりました。
静岡は茶と蜜柑の有名な生産地です。子供達は蜜柑が木になっているのを始めて見ましたが、10月頃からおやつ代わりに毎日蜜柑を食べることができました。農協からの配給と、寝泊りしていたお寺が副業に蜜柑の栽培をやっていて、それを分けてもらったのでかなり豊富に口に入れることができました。
 20年3月に東京の本校で卒業するために子供達は疎開地から引上げることになりましたので、自分の家への土産として銘々茶と蜜柑を大量に買込んで、寝具等と一緒に荷造りの中に入れました。
 この頃戦況が悪化していて荷物の鉄道輸送が円滑に行かなくなっていました。土地の運送屋に荷物を預けたままからだだけで帰京しましたが、その後いくら待っても荷物が届かないのです。3月から4月も過ぎてやっと5月の末に着いた荷物をあけたとき、全員土産に買った蜜柑が残らず腐ってしまっていたそうです。私はまだ家族を金谷においていましたので、みやげの必要もなく被害に遭いませんでした。
 今はそれぞれ成人した当時の子供達が、時々会合してその時の残念だった気持ちを話しますが、無理もないことだと思います。

                                     第 7号(昭和47年) 
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