『 大震災の思い出 』

   内藤 千津子   
 早いものであの当時から50年もたちました。9月1日の間近になりますとあの恐しかった震災の時のことを思い出して、亡くなられた方々の御冥福を祈らずにはいられません。
 丁度私はその時妊娠三ヶ月でまだ22才。結婚した翌年のことでした。身体が弱かったので、毎年房州白浜の祖母の家へ養生にやられ、8月の末には帰京するのが常でした。あの時は慶大生の従兄と法政に通っている従弟と3人で海岸へ出たり燈台のあたりで遊んだりして楽しい日を過しておりました。
忘れもしません。9月1日の正午近くに、いつもの日課である鳥小屋の卵を取出そうとした時、突然すごい地震が起り卵どころではなくすぐに表へ飛出しました。母屋にいた学生たちも驚いた顔で飛出して来るし、一人では立っていられないので3人でしっかりと腕を組み、そのままあっちへ揺られこっちへ揺れして生きた心地もありませんでした。
 何気なく海岸の方へ眼をうつした時でした。白くそびえ立っていた野島崎燈台が一寸ゆがんで見えたかと思う間もなく、左の海の方へ崩れ落ちてしまいました。こんなおどろきは生れて始めてでした。浜の畑にいた祖母もこれは只事ではないと直感したのでしょう。当時まだ若くて足も丈夫でしたので、すぐに私たち孫の所へとんで来て言いました。『 今海の水がずっと引いて遠く沖の方まで海の底が茶色に見えるから、きっと津波がやってくる。さ、早く山の方へ逃げなければあぶないよ 』 と。二度びっくり。すぐ近所の方々と共に大切な物だけ持って山の方へ逃げ、一週ばかり田と田の間の道で夜を明かしました。
 幸津波は来ませんでしたが、今でも、夜蛙が飛んで来て顔に止り気味が悪くて眠れなかったことや、余震の合間にびくびくしながら祖母と二人で山を下り母屋へ梅干やラッキョウ漬等を取りに行ったことなど、思い出の笑い話になっています。
 田舎でしたから火事も起らずその点幸せでした。東京の自宅は幸火災にもかからず、暫くたって私の衣類を大きな信玄袋につめて背負って来た心配顔の父を見た時うれし涙にくれたものです。
 翌年長女が生れましたが、余りショックが大きかったためか、4日目に亡くなりました。
近頃又地震がある話で不安な日々ですが、体験はあっても若い時とはちがいますので、大きな地震がないようにと祈らずにはいられません。
お互に地震に対する心構だけはしっかりもっていきましょうね。

                                     第16号(昭和50年)
 
目次へ