『 原爆被爆者を忍んで 』

  菅 時子   
 三十一年目の原爆記念日を迎えて、まだ元気でいる事を嬉しく思って居ります。
当時は私は佐世保市郊外に住んで居りました。20年8月9日のお昼頃、ピカッと白い光がしたと思った瞬間、ものすごい音がしました。
どこかに爆弾が落とされたのだろうと思っている中、長崎の浦上に原子爆弾と言うのが落とされ浦上の町は建物も人も全滅に近いとの情報、次は佐世保とのうわさに恐怖におびえていました。翌日10日の朝、駅の方から被爆者の人がタンカに乗せられ、続々と私宅近くの小学校へ運ばれて来ます。
 皮ふは微乱して見るも無惨な姿でした。早速医者、看護婦、私達婦人会も皆全員出動し、手当に掛りました。学校の床にワラを敷き、そこに転がされて150人位の被爆者が苦しそうにうなっていました。体は生き乍らにしてウジ虫がわき、その臭気たるや、その場の光景は筆舌では言い現せません。親と子が別々の収容所に連れて行かれ、子供を探す人、親はどこへ行ったのか赤ん坊だけ来ているのや、実に此の世の地ごくと言う有様でした。
 やがて15日の終戦が来ましたが皆残念がって床をたたいてくやしがっていました。その人たちも最後はみんな亡くなられましたが、ほんとに戦争は二度と起ってはならないと心から祈って居ります。

                                   第19号(昭和51年)
 
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