正直に言ってしまいますが、私は大学で哲学科にいたのに、倫理学にはあまり興味を持っていませんでした。今から考えると、大体次のような考え方をしていたと思います。
倫理学とは善悪を考えるものである。善悪というものは、その時代や社会によって基準が変わる相対的なものである。自分はそれよりももっと根源的なもの、普遍的なものを知りたい。
この、相対性ゆえに倫理学を軽視するという考え方は、現在私が克服すべきだと考えている価値相対主義と非常に近いものです。このことについては別に書きたいと思います。
さて、そんな私が倫理学を真面目に考えるようになった理由の一つは、私の哲学観の変化です。細かいことを省くと、私は世界を、論理、物理、倫理の三本建てで理解しようと考えるようになりました。この内、倫理が最も未開拓だったので、いつの間にか最重要課題になったと、一応は言えます。
ところで、この三本建て、実はアリストテレス以来の古い考え方だということを後で知って、妙に感心してしまいました。世の中に新しいものなどない、という格言が真理なのか、あるいは私のセンスが幼稚なだけなのかもしれません。
しかし、正直なところを言うと、倫理を切実な問題として考えるようになった真の動機は、もっと泥臭いものです。
私は、世間の基準で言えば、議論好きで、しかも負けず嫌いな方だと思います。そのくせ、争いは苦手で、いやな思いを後に引きずることがよくあります。これは争いを好まない平和主義者という意味ではなく、争い方が下手だというだけのことです。
議論で勝ち負けを競ったり、感情を波立たせたり、そんな日常的な場面の中で、私は議論の筋道があまりにでたらめなのではないか、という感じを抱くことがしばしばでした。議論の焦点が何なのか、基本的なところの合意なしで、争いだけが際限なく繰り返されているように思えたのです。
この倫理学の部屋の入り口に掲げた宮沢賢治の言葉は、彼の理想主義を最もよく表わすものとして早い時期から記憶していたのですが、これを具体的に、実際的に考えることはできないだろうか、考える必要があるのではないか、そんな気になったのが、私の倫理学の第一歩になりました。