価値相対主義については、加藤尚武氏が一般的な形にまとめているとおり(「現代倫理学入門」講談社学術文庫)ですが、価値の相対性を指摘することで、価値規範の有効性を否定する主張と定義しておきます。
この価値相対主義に対して反論するために、私は本家物理学の相対性理論を引き合いに出したいと思います。相対性原理では、どのような観測系から見ても同一の物理法則が成り立つことが第一の要請になっています。物理現象を記述するために絶対的に静止しているような特別の系を仮定する必要はない、というのが相対性原理の本質だと思います。
ここで、絶対的な特別の系の否定は物理法則そのものの否定と全く違うことに注意しましょう。相対性原理は絶対静止系の否定であり、物理法則の否定ではありません。相対性理論が成り立つからといって、物体の落下という現象がなくなるわけでもないし、落体の法則の有効性が否定されるわけでもありません。
これと同じことを倫理学においても言うことができないだろうか、というのが私の考えです。倫理規範は原理的に相対的なものだ、という仮定を受け入れるとしても、それは倫理規範が全く無効だということとは別の命題になります。価値が相対的だからといって、恋愛がなくなるわけではありません。恋愛についての倫理規範が有効かどうかは、価値の根本的な相対性とは別の問題だということです。
私の考える、倫理学における相対性原理は、次のようなものになります。
a.倫理的な現象を記述するためには、絶対的な倫理規範を前提にする必要はない。
b.倫理的な現象に適用される法則は、どのような倫理規範から見ても同一でなければならない。
a.の命題は、すでに絶対的な倫理規範を持っている人には受け入れられないものでしょう。特に宗教の場合は絶対的であることにその特徴があるとも言えますから、根本的に対立するのは避けられないかもしれません。
b.については、第一に、そのような法則は成立不可能であるという批判が予想されます。また第二に、もし成立したとすればそれ自体が絶対的な倫理規範であり、自己矛盾であるという指摘も予想されます。
第一の批判には私もほとんど同意してしまいます。しかし、そうなるとお互い絶対的な倫理規範を振りかざして相争うという状態を脱出できないということになり、そもそも倫理学を志した意味がなくなってしまいます。
第二の指摘は重要です。全く価値を主張しない形での倫理法則が成立可能かどうかという、根本的な問題です。第一の批判もおそらくここから派生してくると思われます。つまり、倫理法則を立てるためには何らかの価値を主張せざるを得ず、それは異なる倫理規範から見れば全く別の意味になってしまう、という論理です。
価値を主張せずに倫理を語る、というのはいかにも不可能なことに思えます。倫理学とは即ち価値を語ることだと言ってもよいのですから。私としては、実際に価値の主張を含まない形での論理を模索してみるしかありません。その上で批判を仰ぐわけですが、その模索自体がある価値の主張であるという批判は斥ける準備をしておかなければならないでしょう。数学の研究はそれ自体何らかの価値を、例えば好奇心の満足といった動機を前提にしていますが、数学の論理には当然価値は含まれていません。
私が相対的な倫理学を求めるのは、もちろん、不毛な議論をいいかげんにやめて合理的に倫理を論じる基盤が欲しいという、個人的な価値観丸出しの動機があるわけです。それと、倫理学の中身の論理を価値中立的にすることは、決して矛盾しないと思っているのですが、いかがでしょうか。
私の考える相対性原理の輪郭が大体わかっていただけたでしょうか。物理学のアナロジーが安易に通用するとは思いませんし、相対論の分が悪いことも承知しているつもりです。私は価値相対主義を積極的な態度で克服したいと思っていますが、自分でも足を取られないよう、次の言葉を肝に銘じておきたいと思います。
即ち、そのような立場はいかに相対的な装いを凝らしても、その中心には絶対的な独善が隠れているのだ、というのが加藤尚武氏の指摘するところです。