私が加藤尚武『現代倫理学入門』について不満に思っていることが一つあります。それがこの、誰のための倫理学か、という問題です。
加藤氏は「倫理には、最低線の倫理と最高線の倫理とがある」として、前者に功利主義、後者にストア主義をあげます。そして、「国家や自治体など公共の機関が、どうしても決めておかなくてはならない、最低限度の規則は、どのようにして決まるか。これが倫理学の一番重要な課題である」とします。
この主張そのものには、私は賛成です。ただし、ここで求められている倫理とは、あくまでも為政者のためのものだろうと思います。為政者が民衆に与える倫理規範ならば、まさにかくあるべし、と思います。その限りでは、まったく異論がありません。
私がこのホームページで展開してみたい倫理学は、それとは異なるものです。確かに、私たちの生活が正義や公平のうちに守られるように法律を定めるためには、倫理的な問題をとことん考え尽くす必要があるでしょう。それはまさしく倫理学の最重要課題だろうと思います。
しかし、全ての人が為政者の発想をするわけではないし、その必要もありません。では、その人達にとっては倫理学は無縁のものなのでしょうか。逆に、倫理学を学ぶためには政治家を志す必要があるのでしょうか。
私が考えてみたいと思っている倫理学は、為政者のための倫理学(功利主義)でもなく、聖人君子のための倫理学(ストア主義)でもありません。ごく普通に生活している私たちのための倫理学なのです。
実際のところ、私たちは皆、倫理を論じるのが大好きです。周囲の人間の発言や行動についてあれこれと批評しあうのは、私から見れば立派な倫理学の演習問題です。ところがその一方では、価値相対主義による倫理規範の否定、軽視のために、拠り所をなくしている人が大勢いるようにも思えます。
不毛な議論のための議論ではなく、倫理を考えるのは意味のあることなのだと、それは政治や哲学まで地続きにつながっている豊かな世界なのだということを、私は主張したいと思います。もちろんこれは倫理学の法則などではなく、私個人が持っている倫理規範の柱の一本です。
そして何度でも繰り返しますが、私はそのために倫理規範の見本を提示しようとは思いません。私の主張に同意してくれる人と共有できるような、倫理に関する法則は成立可能かどうかを模索していきたいと思っているのです。