My little Emperor



「う〜……頭痛いよぅ〜……」
翌日、目を覚ましたアンジェリークは起き上がれなかった。
「本当に弱いな。
 二日酔いか?」
「ふぇ? 二日酔い……?」
「今日は店は休むか」
「え、それはまずいよ。
 私なら大丈夫だから……」
「お前が大丈夫でも天気がな……」
レヴィアスは窓から外を見上げながら呟いた。
金と翡翠の瞳が険しく細められる。
「荒れるぞ」
「そう……なの……?」
アンジェリークにはただの曇り空にしか見えないが、彼はきっぱりと宣言した。
「店を開けても客など来ないぞ。
 薬を飲んでもう少し寝ていろ」
「はぁい……」



レヴィアスの言うように午後からは風が吹き、大粒の雨が激しく降り続いていた。
人が出歩けるような状況ではなくなっていた。
一眠りしてすっかり元気になったアンジェリークはリビングに出てきた。
「すごいね、レヴィアス。
 お天気読めるんだ」
さすが妖精さん、と妙に感心している少女にレヴィアスはふっと笑った。
「もう大丈夫なようだな」
「うん。ご迷惑かけました」
少しだけ視線を泳がせた後、アンジェリークは思い切ってレヴィアスに訊ねた。
「あの……」
「なんだ?」
「私、昨日……泣いてた気がするんだけど……」
「ああ」 
「やっぱり〜?」
赤くなった頬を押さえて、アンジェリークは困った顔をした。
「あの、私覚えてないんだけど……。
 ……ヘンなこと言ってたとしても気にしないでね」
「ああ。寝ろと言っても子供のように言うことを聞かなかったな。
 眠らせるのに苦労したぞ」
「ごめんなさい〜、お酒を使ったケーキ作る時は気をつけます」
意地悪な笑みでからかわれ、アンジェリークはそう誓ったのだった。



突然の休暇だがもちろん出かけるわけにはいかず、二人はリビングでゆっくりと過ごしていた。
夕食の後片付けをして、ふと気になって窓の外を覗く。
「それにしても雨全然止まないね」
午後から振り出した雨は一向に弱まる気配がない。
それどころか、風も雨もさらに強くなっている気がする。
「明日は晴れるといいなぁ」
「心配するな。
 これほどの雨がそう何日も続きはしないだろう」
この国に雨季はない。
「……だよね」
それなのに……どうしてだろう。
昼間の風雨もどことなく憂鬱になるけれど……夜の嵐はわけもなく不安にかられる。
よくないことが起こりそうな予感がする。



そして、アンジェリークの予感は嬉しくないことに当たってしまった。
うとうとと眠りかけていた頃。
急にガシャンとガラスの割れる音がしたと思ったら、強い風が部屋に吹き込んできた。
一瞬のうちに窓から入った雨が室内を濡らす。
飛び起きたアンジェリークはびっくりして動くことができなかった。
ガラスの破片が散乱しているので、結果的にはその方が良かったのだが。
音がした直後にリビングで寝ていたはずのレヴィアスがやってきた。
眠る時の小さな妖精姿のまま、一瞬で転移してきたのだ。
「アンジェリーク!?」
部屋の惨状を見てすぐに理解し、魔法を使う。
「あ……」
壊れた窓も、割れて散らばったガラスも、雨に濡れた部屋も……
瞬く間に元通りになる。
レヴィアスは本来の姿に戻ってアンジェリークの側に寄った。
呆然としている彼女の様子を確かめながら、本人にも確認をする。
「怪我は?」
「あ……うん。大丈夫」
少し遅れてレヴィアスの問いにこくこくと頷く。
「強風に折られた枝が飛んできたようだな。
 もう大丈夫だ」
安心させるように肩を抱く腕と優しい声に涙が出そうになる。
「ありがとう……」
「くっ……」
お礼を言っただけなのに喉で笑われて、アンジェリークはきょとんとする。
「我が初めてお前の目の前に姿を現した時もそんな様子だったな」
「え?」
「大きな目を見開いてぼうっとしていた。
 ずいぶん反応が鈍いものだと思ったものだ」
「そんなこと思ってたの〜?
 だっていきなりあんなことがあったんだもん。
 びっくりするに決まってるじゃない」
「それでも固まっている時間が長かった」
「レヴィアスったらひどい〜」
元気を取り戻したアンジェリークを優しく見つめてレヴィアスは頷いた。
「もう大丈夫なようだな?」
その言葉でわざと自分をからかったのだと気が付いた。
「う、うん……でも、また……」
あんな風に心臓に悪い起こされ方をするのは怖い。
「大丈夫だ。
 今は何も聞こえないだろう?」
レヴィアスに言われてアンジェリークは耳を澄ました。
耳を澄ましても何も聞こえなかった。
先程までは強い雨と風が窓や壁に当たる音でうるさいくらいだったのに。
「我の力がこの敷地全体を覆っている。
 もう心配いらない」
子供に言い聞かせるように栗色の頭にぽんと手を置くとレヴィアスは立ち上がろうとした。
「あ……」
離れようとした彼の袖をとっさに掴んでしまい、アンジェリーク自身が戸惑った。
「ごめんなさい……」
それでも手を離せなかった。
離したら行ってしまう。
「アンジェリーク?」
「レヴィアスを信用してる。もう大丈夫だって解ってる。
 でも……今夜はここいて……?」
「………………」
「雨が止むまででいいから……いかないで」
「アンジェリーク……」
吐息混じりの声にアンジェリークはびくりと肩を竦めた。
呆れられた?
聞き分けのない子供のようだと思われたかもしれない。
「何も危険はない。
 一人でも大丈夫だろう。
 それともそれを最後の願いにするか?」
「……っ?」


日常生活における些細なことは願いにしなくても
彼はアンジェリークの希望通りにしてくれていた。
魔法ですら使ってくれた。
しかし、今夜は違った。
それは突然レヴィアスに突きつけられた別れのようなもの。
アンジェリークはさっきの惨状を目の前にした時よりも驚いた表情をしていた。
ただ彼を見つめるだけで何も言えなかった。
「……どうして?」
ようやく小さく震える声で囁く。
答えてくれない彼に再び訊ねる。
「どうして……。
 今までだって一緒にいてくれたのに……そんな、急に……」
「………………」
答をねだる瞳でじっと見つめても、いつまで経っても彼は答えてくれない。
いつもいつも側で見守ってくれている優しい人なのに……。
今夜はこんなに近くにいるのにとても遠く感じる。
アンジェリークは涙が滲んでくるのを自覚しながら言った。
「正直に言っていいよっ。
 いくら私だって気付いてるんだから!」
金と翡翠の瞳が僅かに動揺したのが暗い部屋でも分かった。
「レヴィアス……お屋敷にいた時は同じ部屋にいてくれたじゃない。
 なのにこっちに来てからはリビングに行っちゃうし。
 最近なんか……夕食が終わったら妖精の姿になって
 一人で散歩に行っちゃったり、早々に寝ちゃうじゃない」
ここに来たばかりの頃は、まだ夕食後ものんびり話をしたりして過ごしていたのに。
「避けられてるの……私でも解るよ……」
昼間は優しいのに、夜になると避けられてしまう。
昼間の優しさすら信じていいのか、時折不安になる。
一生懸命その不安を隠して笑えるようにしていた。
「アンジェリーク……」
「私、そこまでバカじゃない……」
涙が溢れて止まらない。
「これ以上私と一緒にいたくないなら……そう言ってくれればいいのに」
「どうしてそんなことを思う?」
「違うって言うの?
 私のこと嫌になっちゃったんでしょ?
 私が……レヴィアスのこと……」
言いかけて躊躇う。
どうしても言葉が出ない。
彼の迷惑になるのは分かっているのに言うなんてできない。
「言ってみろ」
促す言葉に首を横に振って抗う。
さらさらと絹糸のような髪が舞った。
「アンジェリーク」
大きな手が少女の頬を包んでレヴィアスを見つめさせる。
逃がしてもらえない。
アンジェリークは泣きながら降参した。
「……レヴィアスを……いつまでも帰そうとしないから……。
 私が……レヴィアスのこと……好きになっちゃったから」
こんな風に言いたくなかったのに。
悔しくて涙が止まらない。
もっと落ち着いて、笑って別れられるその時に「好きだったよ」と言いたかった。
それなのに、まるでレヴィアスを責めるように言わなくてはならないなんて……。
初めて好きになった人なのに。
「だから距離を取るようになっちゃったんでしょっ?」
「……馬鹿」

突然強く抱きしめられて、息もできなかった。
「レヴィアス……?」
「やはりお前は鈍いな」
何故こんな風に抱きしめられるのかが分からない。
やっぱり自分で分かっている以上に鈍いのかも……と少々落ち込む。
「我は確かにお前を避けていた」
分かっていたけれども、彼本人に言われるとまだ辛い。
それでも受け入れるしかない。
アンジェリークは泣きじゃくりながら頷いた。
「だが、お前を嫌って避けていたわけではない」
「え……違うの?
 だって……」
がばっと身を起こしてレヴィアスの腕の中から出る。
彼の不思議な瞳を見つめた。
今は苦悩の色を滲ませている金と翡翠の瞳。
「逆だ、馬鹿」
「逆って……?」
それ以上は苦笑して誤魔化した。
「欲しくなるから、近付けない」
きっと奪わずにはいられない。
「……?」
理由などその意味すら分からない純真無垢な少女には話しても無駄だろう。
昼は抑えられる。
大半は店にいるし、休日も外に出かけたり、誰かが訪ねてきたりするので理性が勝つ。
夜は……以前のように同じ部屋にいて何もしない自信などない。
ましてやアンジェリークが自分に好意を抱いているのは解っているのだ。
部屋を別にして、早々に妖精サイズになって自分を誤魔化すしかなかった。
首を傾げて見つめる少女にレヴィアスは笑った。
「お前は我といる方が危険なんだ」
「なぜ?
 レヴィアスと一緒にいて怖いことなんてあるわけない」
絶対の信頼を寄せる少女をレヴィアスは抱きしめた。
「アンジェ……」
想いを込めて愛しげに囁く。
アンジェリークは幸せそうに頬を染めて微笑んだ。
「レヴィアス……初めて、呼んでくれた……」
「初めてではないぞ」
「ウソよ。いつもアンジェリークって呼んでたわ。
 アンジェ、なんて呼んでくれたことない」
親しい者が使うその呼び方は一度も聞いたことがない。
言われたなら嬉しくて忘れるわけがない。
「……呼んだことはある」
少女が眠っていた時に。
眠る彼女の唇と記憶を奪ったあの時。
あれで育ち始めた想いに区切りをつけるつもりだった。
意図的にレヴィアスは『アンジェリーク』と呼んでいた。
「いつよ……?」
「もう気にするな。
 これからはそう呼ぶ」
「本当?」
頬を染めて喜ぶ少女が愛しい。
約束するようにその名を囁き、額に口付けた。
「アンジェ」
「レヴィアス……もっと呼んで……」
うっとりと瞳を閉じて、どんな素敵な音楽より心地良い声を待つ。
「アンジェ」
涙に濡れた頬を拭うように口付ける。
アンジェリークの細い腕がレヴィアスの背に回された。
「レヴィアス……」
唇が重なり、熱い吐息が零れた。
長く甘いキスで心が溶けそうなほど幸せになる。
その唇も、絡む舌も、なぜか懐かしい。
彼の息継ぎのタイミングさえ知っている。
知っている。
それに気付いた時、アンジェリークははっと身体を引いた。
突然の少女の異変にレヴィアスは問うように見つめた。
「私、レヴィアスのキス……知ってる……?」
信じられない、と真っ赤な顔で口を覆った。
「前にもしたこと……ある?」
でも、それは夢だったような気もした……。
曖昧な記憶。
だけど感覚はすごくリアルに覚えてる。
「卒業パーティーの時……」
呟いて、再度記憶のあやふやな部分を辿れば今度は思い出せた。
「どうして……忘れたりしたんだろう……?」
初めてだったのに。
あんなに激しく何度もしたのに。
「悪い。我がお前の記憶を消そうとした。
 ……思い出されるとは思わなかった」
動揺するアンジェリークに自嘲の笑みを漏らしてレヴィアスは謝罪した。
「どうして……」
「殴って良い」
レヴィアスは切なげに微笑むとアンジェリークの手を取った。
「あのままではまずいと思った。
 互いに想いを止められない。
 互いの為に……卑怯だと思ったが、お前の記憶を消した。
 覚えていたらお前が後で辛くなる」
「レヴィアス……」
優しさ故なのだと分かる。
分かるけれど……。
「目、閉じて。
 覚悟してよ?」
素直に瞳を閉じたレヴィアスに訪れたのは頬を張る手ではなく、
唇に触れるやわらかな唇の感触だった。
「アンジェ?」
「怒ってはいるのよ。
 レヴィアスだけが覚えてるなんて……」
アンジェリークは困ったように微笑んだ。
「レヴィアスだけが辛かったじゃない……」
「アンジェ……」
「悪いと思うなら……もっとキスして?」
了解の返事の代わりに熱いキスが降りてきた。



起き上がっていられない程、力の抜けた身体を押し倒されて何度も唇が触れ合う。
間近で視線が絡んで微笑んだ。
言葉などなくても幸せだった。
この夜が永遠に続けばいい、そう願った。
「っ……」
首筋へのキスは初めてで……
その感覚にアンジェリークは肩を竦ませた。
「レヴィアスっ……?」
胸の上に彼の手を感じ、身体が強張る。
驚いたような潤んだ瞳がレヴィアスを見つめた。
年頃の少女にしてはこのテの知識が圧倒的に乏しいアンジェリークは
彼の求めるものが分からず、困惑の表情を見せる。
レヴィアスは苦笑すると、アンジェリークに触れるだけのキスをした。
その後、覆い被さっていた彼の身体が離れてしまい、アンジェリークは不安な表情で呟いた。
「レヴィアス?」
慌ててアンジェリークも起き上がって、縋るような瞳でレヴィアスを見上げた。
「あの……ごめんなさいっ、怒っちゃったの?」
彼女の不安が不謹慎ながらも可愛く思えてレヴィアスは微笑んだ。
乱してしまった栗色の髪を梳いて直してやる。
「怒ってなどいない」
「ちょっと……びっくりしただけだから……だから…」
分からないなりに、それでも続きを許すアンジェリーク。
それで十分だと思うことにした。
「アンジェ」
少女の頬に触れ、今度は深く口付ける。
苦しいくらいのキスだったが、彼の熱いほどの温もりは嬉しかった。
レヴィアスは息を乱すアンジェリークの唇に囁いた。
「おやすみ」
魔法の淡い光が一瞬煌き、そのまま腕の中で眠ってしまった少女を横たわらせた。





                                    〜 to be continued 〜







back      next