上馬キリスト教会

教会Q&A 

初めての方のQ&A 礼拝についてのQ&A 生活についてのQ&A 教会学校についてのQ&A 洗礼についてのQ&A 牧師が答えるQ&A
Q1 . 聖書とはどのような書物ですか?また、誰が書いたのですか?
Q2 . 牧師と神父はどう違うのですか
Q3 . 教会とは何ですか?
Q4 . 聖書と科学は矛盾しないのですか?
Q5 . 教会では占いをしてはいけないと言われますが・・・
Q6 . クリスマスとサンタクロースの関係は?
Q7 . イスラム教とは何ですか?
Q8 . 天国や地獄は本当にあるのでしょうか?
Q9 . 聖書は天動説と地動説のどちらを支持していますか?
Q10.宇宙人は存在するのでしょうか?
Q11.陰陽師や霊媒師をどう理解すればいいでしょうか?
Q12.カウンセリングとキリスト教との関係は?
Q13.政治と教会の関係は?
Q14.処女懐胎は本当ですか?
Q15.なぜクリスチャンは教会に行くのでしょうか?
Q16.宗教戦争についてどのように考えますか?
Q17.宗教多元主義についてどのように考えますか?

聖書とはどのような書物ですか?また、誰が書いたのですか?

このような聖書に関しての質問はよく受けます。多くの方々が持つ疑問の一つです。聖書は旧約聖書39巻と新約聖書27巻、合わせて66巻から成り立っています。聖書には何が書いてあるのでしょうか。新約聖書は新しい契約の書、旧約聖書は古い契約の書という意味です。ですから、聖書は神様と私の契約の書ということです。その契約の内容が聖書の中に書いてあるのです。

聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する
信仰による救いを受けさせることができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので
教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
[テモテ第2の手紙3章16節]

この言葉の中に「神の霊感」とあります。この「霊感」という言葉は英語で「インスピレーション」という言葉で「息吹」という意味です。私たちが寒い日に息を吐くと、白い息が息吹のように内側から出てきます。それと同じように、聖書は神の言が神の内から息吹のように溢れ出て、聖書の著者たちに働き、各々の個性を用いて、一言一句間違いなく、ダイナミックに、しかも個性的に、記された書物なのです。

聖書の著者には思想だけが伝達されたのであり、細部の記述は正確ではない、と言う人々がいますがこの理解には問題があります。思想を正しく伝達するためには、正確な記述がなければならないからです。

つまり、聖書の著者は「神御自身」です。神は、聖書の記述の実務担当として、著者たちを用いたのです。

聖書は、私たちにイエス・キリストに対する知恵を与えてくれます。そして、私たちに信仰と救いを与えてくれます。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」とあるように、聖書は人間に全人格的成長を与えるものなのです。

牧師と神父はどう違うのですか?

よく問われることの一つに「牧師」と「神父」の相違点があります。一般的には無理のないことだと思います。むしろ混乱するのは当然だと思います。しかし、似たような混乱は日本人全体にもあるような気がします。一般的なことですが、「私は仏教徒です」と多くの日本人は答えます。ところが、「大師、上人、禅師」の区別があることさえ知りません。また、本来の仏教と日本仏教は違うということも知りません。まして、大乗仏教と小乗仏教の存在すら知らない方が少なくないのです。宗教音痴といわれる日本人ですから無理からぬことだと思います。

さて、「牧師」はプロテスタント諸教会(新教)の聖職者に用いる名称で、「神父」はローマ・カトリック教会(旧教)の聖職者に用いる名称です。ローマ・カトリック教会の場合、ほかに「修道士」、「修道女」という名称もあります。

私が依頼を受けて結婚式場で結婚式の司式をしたときのことです。式場の方が私を「神父様、神父様」と呼ぶのです。一瞬、誰のことがわかりませんでした。せめて、式場の職員は牧師と神父の違いくらいは知っておいてもらいたいと思いました。また、こんなクレームをつけられた経験があります。新郎の母親は、どこかの教会に行かれていたようです。結婚式が終わり一週間経過したときのことです。式場から「先日、結婚式をした新郎の母親から、式をした者は偽物の牧師だ。どうしてくれるか。」という連絡を受けたとのことでした。なぜ、偽物と決めつけたのかを問いますと「聖公会の司教」や「ローマ・カトリック教会の神父」のような服装をしていないからだと言うのです。どうも、服装で判断していたようです。神父の服装は、さまざまな歴史的な経緯の中で今に至っているものです。牧師はそれと比較してみると普段は背広姿、礼拝を執り行う際も、背広姿の者もあればガウンを着る者もいます。それは、教会の伝統による違いです。

さて、「神父」や「牧師」という名称は聖書のどこに出てくるのでしょうか。教会の歴史の中で、初代教会時代にはこの名称はなかったのです。しかし、やがて教会制度というものが確立してくると「神父」とか「牧師」という名称が登場してくるようになったのです。ちなみに、聖書の中には「神父」という単語は一度も出てきませんし、「牧師」も一回使われているだけです。

教会とは何ですか?

一般的に教会に対するイメージがあるようです。欧米の映画やテレビなどの影響でしょうか。三角屋根の白い建物で十字架がついているのが教会だと思っている方々が少なくないようなのです。今は天理教などの宗教団体も「教会」という言葉を使用しています。

私が大学生の時のことです。私が教会で奉仕をしていた時、近所のいくつかの宗教団体の方々が訪問してこられ「私たちも教会という言葉の方がイメージが良いので今後教会という呼び名にすることになりました。これからはお仲間ですのでよろしく」と言って帰られたのです。これは、大きな誤解です。このような誤解の一つが結婚式場のチャペルです。チャペルは教会ではありません。チャペルは別名「チャーチ・ビルデング」というのです。つまり建物、教会堂を指しているのです。教会と教会堂(建物)とは違うものなのです。

ところで、聖書がいう教会とは何かということです。原語はギリシャ語でエクレシアです。この言葉の意味には「建物」や「教え」という意味は含まれていません。この言葉は元々、古代ギリシャ社会において公共的目的で召集された集会を意味していたのです。この意味が転じ、「この世から召し出された神の国の市民(キリスト者)の集会」という意味で聖書にこの言葉が使用されるようになったのです。そして、やがて「集会」という意味よりも「共同体」という意味が主となっていきました。

従って、どんなに立派な教会堂があっても、礼拝を中心とした共同体が形成されていなければ、それは教会とは言えないのです。反対に、会堂を持たない教会もあります。一軒家やマンションの一室で、という教会もあるのです。聖書の基準から言えば、これらは立派な教会です。

さて、「教会」という言葉はこのような意味なのですが、二通りの使い方があります。それは、「ローカル・チャーチ(地域教会)」と「 トータル・チャーチ(地域教会全てを含む公同教会)」です。私たちが日常生活で目にする教会がローカル・チャーチです。これを別な言い方で「目に見える教会」と言います。

また、時間、時代を越え、地理的広がりを持っている、初代教会から世界の終末までに至る全時代の教会をトータル・チャーチ(公同教会)と言います。これもまた、別な言い方をすると「目に見えない教会」と言います。従って、すべての教会は、この意味では一つの教会なのです。

このようなトータル・チャーチをさして聖書は「キリストの体」「キリストの花嫁」などと言います。教会の歴史の中では「公同的使徒的教会」と言います。

聖書と科学は矛盾しないのですか?

このような問いはよく尋ねられる問いです。多くの方々が抱く疑問であり問いです。かつては「聖書があるから科学の進歩が遅れた」と主張する人々がいました。しかし今は「聖書があるから科学がここまで進歩した」と言う科学者が少なくないのです。

以前、上智大学の学長の講演を聞いたことがあります。ある一人の学生が「先生は司祭でありながら物理学者であり、物理学を教えていますが矛盾はないのですか」と質問したというのです。それに対して先生は、次のように答えたそうです。

ある人が砂浜に「私はあなたを愛しています」という文字を書き残し去っていきました。次に知らない人がやって来て、その文字を読み、
「私はあなたを愛しています」というメッセージを聞いたというのです。人間は、聖書と出会わないうちは、この天地万物を誰が創造したのか知りません。しかし、科学によって発見されたこの世界の秩序の中に、神のメッセージを聞く事が出来るのです。つまり、神様が創造された世界の秩序を発見し、この世界を創造された方のメッセージを発見する事が科学であると説明したのです。見事な説明です。

物理学の太陽といえばアインシュタインです。彼もまた、「何のために科学をするか−神の創造の秩序を発見するためである」と言いました。決して聖書と科学は矛盾しません。本当の意味で科学を知らない者は、科学は聖書と矛盾すると言います。また、本当の意味で聖書を知らない者が、聖書は科学と矛盾すると言うのです。

聖書は「すべての事物は神から」というところからスタートします。それに対して、哲学(科学)は「すべての事物は証明によって」というところからスタートします。神が創造した秩序を、人間理性である科学は証明をもって発見するのです。ですから、さまざまな法則・秩序が発見されることで、科学は聖書の真理に近づいていると言えるのです。

しかし、どうしても近づく事ができないものがあります。それは、十字架と復活の歴史的出来事です。これは、神話ではありません。歴史的事実であり出来事なのです。この出来事は科学では証明できません。この出来事、そして神を、人間理性である科学で証明できたとしたら、そのような神はたいした神ではないということです。万が一証明出来たとすれば、神を証明できる人間が神となってしまうことになります。人間が、人間理性が、神となり絶対化していくのです。

私たちは、科学によって発見された秩序の中に神の愛のメッセージを聞くのです。どんなに神は私とあなたを愛しており、その愛のゆえに十字架で私の罪の赦しのために命を捨ててくださったという神と人間(私)の秩序の回復のメッセージを聞くのです。科学の中に神の愛のメッセージを聞く。壮大ではありませんか。

教会では占いをしてはいけないといわれますが・・・

旧約聖書の中にレビ記という書があります。このレビ記19章26節の後半の部分に「まじないをしてはならない。卜占をしてはならない。」と記述さています。レビ記は神様が嫌う人間の行為、人間が避けるべき「さまざまな汚れた行為」を列挙し警告を与えています。実はその中の一つが「占い」です。

朝の民放を観ると「占いコーナー」があり「あなたの今日の運勢は」と放送されます。各民放の内容を比べると内容が違う事に気がつくのではないでしょうか。また、驚くべき事にそのコーナーのバックミュージックにバッハの「ハレルヤ!」が使われているのです。この曲は三位一体の神を讃えるために作曲された曲です。そして、バッハは作品が完成するといつも最後に「神に栄光があるように」とサインしたそうです。ハレルヤも例外ではありません。神が忌み嫌う占いのバックミュージックにハレルヤを用いるということは道義的にも信仰的にもあってはならないことだと思います。

さて、神はなぜ占いを忌み嫌われるのでしょうか。聖書の中のいろいろな箇所を参照してわかることは「人を惑わせる」ものだからだ、ということです。まさに「迷信」ということです。カウンセリングブームの時代にあって、占いは人生相談の一つである、という人々がいます。人々が占いに頼るのは、何かに迷っているからです。自分の人生に対して責任を持った判断が出来ないからだともいいます。何らかの人助けになればいいではないか、という人もいるのです。

しかし、この場合一つの問題があります。それは、その占いの答えが本当に正しいかどうか、と言うことです。あなたの人生を占い師自身が保証するしかないのです。しかも、その世界は「吉、凶」という世界なのです。実は、もう一つ問題があります。それは、占い師は自分自身を占う事ができないという事です。

かつて、あるアメリカの宣教師が東京にやって来ました。そして、夜の新宿の町を歩きました。そして、目についたのが街角にいる占い師です。私に「彼らは、なぜ夜になると登場するのかわかりますか」と問うのです。そして、その宣教師は「サタンは闇を好みます。占い師はサタンの手下です。だから、闇を好むのです。」と説明するのです。サタンには「訴える者」「惑わす者」と言う意味があります。サタンは混乱の神です。従って、聖書は占いを禁じています。

人間は未来を考え興味を持つ存在です。未来を予測し、適切な対応を考え、計画を立てるのは人間が未来を考える存在である以上、当然であり、健全な事です。しかし、未来は常に複数の予測を要求します。それを、吉だとか凶だとか簡単に断定するところに、宿命論的な迷信が侵入して人生を狂わせるのです。人間は自分の責任において未来を選ぶ事を許されている存在なのです。運命論、宿命論に自分の人生を委ねる事は、自立した人間の姿ではありません。神は、人間を自由意志を持った存在として創造されているのです。

クリスマスとサンタクロースの関係は?

クリスマスは、キリスト教のお祭りで贈り物を「もらう日」「贈る日」と思っている人が少なくないようです。サンタクロースの起源となったのは、ロシアのセント・ニクラウスという人です。この方が、今でいう養護施設にいる子供たちに贈り物をしたことが現在のサンタクロースの由来となったと言われています。ちなみに、サンタクロースの衣装の、赤と白のデザインの起源は、コカコーラ社の広告戦略だそうです。

さて、クリスマスの起源の問題です。クリスマスはキリスト教のお祭りといえばお祭りですが、キリストの誕生日です。私たちも子供の頃、誕生日には家族でお祝いをしてもらった経験があると思います。誕生日は、それぞれの家庭では一つの「家族のお祭りの日」だったのではないでしょうか。そのような意味でクリスマスは、キリスト教のお祭りです。

そもそも、キリストはなぜ誕生したのでしょうか。旧約聖書には預言書といわれる書があります。その中に、キリストの誕生に関する予告がされています。そこには、「場所」「状況」「処女降誕」に至るまでが記述されています。預言した人物はイザヤという預言者です。神様から言葉を預かって預言したのは、救い主(メシヤ)は処女から生まれるということです。このことをインマヌエル預言といいます。インマヌエルとは「神は私たちと共にいて下さる」という意味です。この預言は紀元前734年のことでした。場所はエルサレムの町の東南側にあるギデロンの谷の「布さらしの野」に至る大路のそばの「上の池の水道の端」でありました。「いつ」「どこで」ということを少々詳しく述べました。それは、誕生がおとぎ話ではなく、歴史的事実であるからです。

この預言の背景は、イザヤの祖国ユダ王国の国家的危機状態です。世界最強のアッシリヤ帝国の軍隊がユダ王国を占領せんとして宣戦布告したのです。小国であるユダ国家は国家的危機状態に至ったのです。その時、王であったアハズは不信仰になり、エジプト国家に助けを求めました。アハズ王は神様を退けたのです。しかし、神様はユダ国家を見捨てることをしませんでした。預言者イザヤを通して「一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」といわれたのです。

キリスト誕生の預言の成就が近づいた頃、アハズ王が不信仰になって神様が見えなくなったように、地上には信仰が見えなくなったのです。地上(世)は大変な貧しさもあって不信仰と不道徳が蔓延していました。希望を見いだすことができない社会だったのです。このような時、希望の光として救い主が私たちに贈り物としてベツレヘムの馬小屋に与えられたのです。

私たちの心の中には、闇の世界があります。その闇を照らす真の救い主イエス・キリストが来られたのです。つまり、神が救い主イエス・キリストを贈って下さったのです。最大の贈り物は人類に、私とあなたに、救い主イエス・キリストが与えられたことなのです。これがクリスマスの歴史的出来事の本当の意味なのです。 

イスラム教とは何ですか?

この問いについて最近、よく問われます。書店の新版コーナーには「イスラム教」に関する書物が山のようになっています。人々の関心がいかに高いか物語っていると思います。イスラム教は別名「回教」と言います。概観だけを説明しましょう。

1.歴史的背景

イスラム教は西暦7世紀の初め、アラビアのマホメットによって開かれた宗教です。イスラム教は、アラビアを中心として西方「アフリカの北半分」東方「中央アジアから中国」、東方から南方に下り東南アジアの諸島に伝えられたとされています。  

2.生育史

イスラム教の創唱者マホメットが生まれたのは、西暦570年頃とされています。彼の前半生については確かな記録がないため不明です。明確になっている点を説明すると次のようになります。

マホメットは、当時のアラビアの中心都市メッカを支配していたクライシュ族に属するハーシム家に生を受けました。幼児期に両親を失い孤児となります。そのため祖父や叔父のアブー・ターリブに引き取られ養育を受けることとなったのです。25歳の頃、メッカの裕福なハディージャと結婚しました。

マホメットが最初に啓示を受け、預言者として波瀾に満ちた生活に入ったのは610年頃で40歳の時であるとされています。その後、世界歴史を動かすに至るイスラム教の基礎が築かれたのは、この610年より623年(死去)の間、約20年のことなのです。

3.社会的背景

マホメットの布教活動は故郷メッカを中心に開始されました。メッカという場所は地理的に貿易通路の要であったため経済的繁栄を誇っていたのです。そして、メッカには宗教的中心聖所としてカーバ神殿が存在していました。それに伴って、アラビア諸国の人々はカーバ神殿に巡礼する習慣がすでにできあがっていました。
また、メッカの支配的部族であるクライシュ族は経済力とカーバ神殿の祭祀権とを一手に掌握し、最も有力な部族としてアラビア社会に君臨していました。

当時の社会にはクライシュ族と砂漠の遊牧民が存在していました。クライシュ族が定住民族であるのに対して、遊牧民はいうまでもなく移動民族です。一見、共通点がないかのよう思えます。ところが、このどちらも社会構造が血縁を基礎とした社会であるという点が共通しています。この両者は、さまざま違いがあるにも関わらず、先祖を同じくするという血縁意識の上に成立していたのです。従って、血縁集団を離れて個人は考えられませんでした。生活の安全保障の問題においても、家族、氏族、部族によって保証されていたのです。例外的に、血縁集団から離れ個人になっても、他の部族と連帯し、その保護を受ける必要がありました。弱小部族は強大な部族と同盟を結ぶことによってその存在を維持したのです。クライシュ族は、豊かな経済力を背景に攻撃的な遊牧民と同盟を結ぶことによってその勢力を拡大していったのです。

4.アラビア部族の民間信仰

メッカを中心とする当時のアラビアの宗教は、樹木、岩石、天体、またそれに結びついた神々の崇拝、ジンと呼ばれる一種の精霊信仰等がその主な内容をなしています。いわゆるアニミズム、あるいは多神教の形態における宗教だったのです。実に日本的形態ですね。さらに重要な点は、この信仰が部族、氏族間の社会構造と密接に結びついたということです。この神々こそが、部族、氏族を保護する存在として信じられていたのです。

5.マホメットの教え

マホメットの教えが、このような社会構造といかにかみ合ったかが大切なことです。

  i.唯一神アッラー

20年にわたるマホメットの預言者活動のよい記録は「コーラン」です。コーランは全114章によって成り立っています。このコーランを分析してみると「メッカ啓示」と「メディナ啓示」の二つの構造になっています。「メッカ啓示」の内容は、短く鋭くかつ美しい詩的形式です。そして、熱烈な宗教的敬虔に満ちています。教理的には、神アッラーの一元性・全能性ときたるべき最後の審判の日が強調されています。特に、来世に幸せを願い求めるべきことが強調されています。「メディナ啓示」は、散文形式になっています。内容的には、政治的・立法関係の教示が多く記述されています。

 ii.教理

第一、神観 :アッラーの神とは、創造から終末(審判)に至るまで、すべてを支配する神であるとします。この場合、血縁関係を越えた超越者なる神を意味します。マホメットはアッラーの神から派遣された一人の予言者である人間に過ぎないとされています。

第二、終末論:最後の審判の後の彼方なる「来世」の究極的価値が強調されています。ここで、知っておいてほしいことは、宗教的世界観について三つの型があるとされているということです。その三つの型のうちの第二に属するのが「この地上の現実世界を具体的に理想世界につくり変えようとする型」です。昨年のテロ事件は、このような終末論に基づいた世界観によるものと理解できます。

第三、人間観:血縁の親族・氏族・部族等から離れた個人としてとらえられています。終末においてアッラーの神の前に個人が審判のために立つ時がやって来きます。その時、親、兄弟、親族等は何の力にもならない、という理解に基づいています。

まとめてみると、マホメットの教えは伝統的なアラビア社会を特徴づけていた血縁的絆、部族中心の宗教・モラルからの飛躍的脱皮を意味していたのです。これは、当時の社会構造と相矛盾する内容ですが問題にされませんでした。なぜなら、人々はマホメットをアラビア社会に少なくなかった巫者の一人として理解していたからです。ところが、人々がマホメットのところに集まり始め集団を形成するようになると、メッカの支配者達も、彼らの社会的、経済的意味合いの重大さに気づき、彼らを無視すること出来なくなりました。その結果、メッカの支配者たちはマホメット集団への迫害を開始するに至ったのです。この迫害、対立を一言でいうならば「家父長的支配体制」対「カリスマ的権威」ということになります。

6.信者のつとめ

主なものとして「礼拝」「喜捨」です。礼拝は、ギブラ(礼拝を捧げる方向)や日に五度にわたる公式礼拝の型があります。彼らにとって、これらは唯一神アッラーへの賛嘆と帰依の表現です。マホメットは礼拝指導者の役割をしていました。喜捨は、敬虔な信仰を表現し、救済への道をさすものとして、礼拝に次いで重要な行為とされています。後になって法律的義務として制度化され、一種の宗教税のごときものとなって発展しました。その後、ラマザーン月と呼ばれる、イスラム暦の第9月の「断食」、メッカの聖地への「巡礼」、及び「信仰告白」の三つが加わり「イスラム五基」として制度化されるに至ったのです。

さて、これらの宗教的行為に対して、信仰箇条の方は「アッラー」「天使」「経典(コーラン)」「預言者」「来世」「天命」への信仰が「信仰の柱」あるいは「イスラム六信」として制度化されるに至りました。

以上、イスラム教の内容について簡単に説明しました。それでも、理解するには難しいかもしれません。政治的あるいは経済的問題はさておいて、宗教的な問題として、なぜ、あのテロ事件が起きたのか。なぜ、あのような行為が出来るのか、ということついて理解できたでしょうか。

天国や地獄は本当にあるのでしょうか?

このような問題についてよく問われます。私たちは、人が亡くなると「天国に行く」といいます。また、私たちは生活の中で「そんなことをしたら地獄へ行く」といいます。何か、自分たちの都合によって天国、地獄という言葉を使い分けているような感じがします。死んだら天国へ行く。仏教でいう極楽のことでしょうか。私たちは、感覚的に天国と極楽は同じ世界であると思っています。僧侶は極楽と理解する方々が少なくないかもしれません。また、ある僧侶は地獄や極楽は方便と説きました。元来の仏教である根本仏教には、そのような教えや理解はなかったようです。

聖書ではどの様に語っているのでしょうか。聖書をみると天国という言葉は、マタイの福音書にだけ表現されています。では、それ以外の箇所には表現されていないのでしょうか。そうではありません。他の箇所では「神の国」という表現が同義語として、多く用いられています。その意味は、「神の支配」「神の恵みの支配」ということですこれは、メシヤ(救い主)であるイエス・キリストが支配する国ということです。この国は、まずメシヤ(キリスト)を信じ受け入れる者の心に生まれます。 それがその人の生活の中にも次第に形造られていくのです。この国は、物質的存在ではないので、心の眼が開けないと見えない国です。この天国ないし神の国が、最終的に完成された形で実現するのは終末の時代なのです。

他方、「地獄」とか「極楽」という語は聖書にはありません。聖書は、死後の世界を「よみ」(黄泉、陰府)といいます。決して、地獄や極楽とイコールではありません。聖書で大切な語は、「審判」「最後の審判」という言葉です。いずれも「状態」を示すもので「場所」の意味は弱いのです。聖書の記述は、天国は宇宙の一角あるいは宇宙のはるか彼方、地獄は地下に位置するなどという理解やイメージを意味しているものではありません。また、聖書はそのような理解を支持するものではありません。

聖書は地動説と天動説のどちらを支持していますか?

最近、教会に来る高校生達が「学校の授業で『キリスト教は天動説を言っている』と教えられた。ひどいものだ。聞いていると何も知らないで腹が立つ。」と言っているのを耳にしました。いつの時代も学校教育で教える内容は変わらないと思いました。中世のカトリック教会が行ったガリレオ裁判があまりにも有名です。その結果なのでしょうか。キリスト教また聖書は“天動説”を支持するかのように誤解されてきたのです。

中世のカトリック教会は、聖書とは関係のない哲学を神学の中に取り入れました。その結果、アリストテレスやプトレマイオスの天動説があたかも教会の信仰と同じであるかのように人々は受け取ったのです。そして、教会内外に混乱を与えたのです。この誤解が今日まで続いているということです。文部科学省も、中学校や高校の先生方も、事実を見る目をもってほしいと思います。また、きちんと調べてほしいと思います。

では、聖書はどう言っているでしょうか。聖書は天動説も地動説も、取り上げていません。むしろ沈黙しています。それは、天文学等の知識を与えることが聖書の目的でないからです。聖書の目的とするところは別のところにあります。それは、聖書を読む人に自分の人生について深く考えさせ、正しい生き方を求めさせることにあるのです。

聖書の中には天文学に関する表現もあります。それは決して、天文学的な表現や現代科学の表現ではありません。むしろ、誰でも理解できる言葉で表現されています。地球上に住む人間の視点からの表現です。その表現とは、「太陽が昇り、沈む」です。この表現は現在社会にも通じる共通の言葉です。

これで、誤解が解けたでしょうか。本来の聖書の目的に目を向けていただければ幸いです。

宇宙人は存在するのでしょうか?

いつの時代にも問われる質問です。現代社会にとってもはや人工衛星は常識となりました。アメリカの宇宙開発局は無人の人工衛星を打ち上げ、地球外生命を発見しようとしています。また、地球の外側では、宇宙ステーションが建設されています。そして、生命の起源を宇宙に目を向け研究し始めています。新しい世紀を歩き始めた人類は、ますます宇宙開発へと進んでいくでしょう。

果たして、地球外生命が存在した場合を過程してみましょう。地球外生命から地球人を見た場合、地球人である私達は宇宙人という事になるのではないでしょうか。また、逆に地球人である私達から地球外生命を見た場合、彼らは宇宙人ということになります。こうして見ると、どの立場に立ってみるかによって随分違いが生じると思うのです。

さて、聖書は地球外生命が「存在するか、しないか」という事については沈黙しています。従って、地球外生命が存在していても何ら聖書と矛盾する事はないのです。なぜなら、聖書は地球人である私達に与えられた命の書だからです。その命の書である聖書には、人間の創造とその目的が記述されています。それはまた、愛のメッセージです。

もし、地球外生命が発見された場合、神様の創造の一つとして喜んだら良いのです。神様が創造したものに悪い者は一つもないのですから・・・。むしろ、地球外生命の発見は人類にとってロマンではないでしょうか。

陰陽師や霊媒師をどう理解すればいいでしょうか?

最近のテレビ放映では、陰陽師が登場し霊に取り憑かれている人を何らかの方法で解放し自由にする様子が画面に映し出されます。私も、興味本位であの番組を見ることがあります。しかし、不思議だな!と思う事があります。それは、霊に取り憑かれている人に向かって、「神を入れる」「神が出た」などと言う表現をしていることです。人間が、神を操作できる!驚きです。神を操作できる人間こそ神そのものではないでしょうか。

聖書には、汚れた霊に取り憑かれている人の様子が記述されています。一ヶ所、開いてみましょう。聖書をお持ちの方は、マルコによる福音書5章1節〜20節を参照して下さい。ここには、汚れた霊に取り憑かれている人が登場してきます。彼は、墓場を住居としているほどの人です。そして、鎖につないでおくことが出来ないほどの状態になっていたのです。その状況は、鎖でつないでも引きちぎり、足かせも砕いてしまうほどでした。そして、夜昼となく墓場や山で叫び続け、自分の体に石で傷つけていたのです。状況は最悪です。

ところが、彼はイエス・キリストを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝したのです。どんなに、自由になりたかったでしょうか。そして、大声で「いと高き神の子、イエス様。いったい私に何をしようとするのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください」と叫んだのです。この叫び声は、この男に取り憑いていた汚れた霊の声です。この汚れた霊は、レギオンという名であると聖書は教えます。レギオンは、イエス・キリストによって追い出されます。すると、彼は正気に戻りました。

大声で叫んだのは誰でしょうか。一人の男に取り憑いている汚れた霊であるレギオンです。汚れた霊でさえ、イエスが神ご自身である事がわかっているのです。もしかしたら、人間はレギオンよりも悪いのかもしれません。なぜでしょうか。人間はイエスが神ご自身であり救い主である事を知らないからです。

ヨハネは
「愛する者達。霊だからといってみな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは、反キリストの霊です。」(ヨハネ第一の手紙4章1節〜3節a)と言っています。

どうぞ、このような基準によって判断して下さい。決して、惑わされてはいけません。

カウンセリングとキリスト教との関係とは?

個人的な事ですが、私はある学校でカウンセリングに関する科目を教えています。そこで感じる事は、カウセラー希望者の動機が曖昧な人が少なくないという事です。何が曖昧なのでしょうか。代表的な内容を紹介します。

第一は、「仕事として楽である」というイメージがあるようです。第二は、「諸理論を学ぶ事によって人の心がわかる」と思っています。第三は、「人に必要とされている人になりたい」という事です。その他いろいろな動機があります。

この仕事は、決して楽なものではありません。あるカウンセラーは、クライアントを結果的に自殺に追い込んでしまいました。理論を学ぶ事によって人の心を理解する事は結局できません。人に必要とされる人になりたい、という気持ちは良くわかります。しかし、そのように願っているあなた自身に問題があるのでは・・・。逆に、クライアントの立場になって見ると、自分自身のためにクライアントを利用している事になるのです。

自分自身の姿、深層を知る事なしにカウンセラーにはなれません。「カウンセリング技法」という科目がありますが、技法でカウセリングは出来ません。結局、最後は人格です。

カウセリングの語源はやはり聖書です。それは、ヘブル語の「ya’ats」という言葉です。この言葉は旧約聖書では「教える」「議する」という意味です。これが、「助言する」「相談する」「相計る」という平易な意味で使用されています。この言葉が英語の名詞でcounselor、動詞でcounselingと訳されるのです。これは歴史的に、特に旧約聖書では王を助けて神のみ旨を実行する大層重要な仕事であると位置づけられていました。イザヤ書9章6節では、メシヤ(救い主)を「WONDERFUL COUNSELOR」と呼んでいます。新約聖書の中にヨハネによる福音書という書がありますがそこでは、イエス様の霊であり慰め主である聖霊を「COUNSELOR」と訳しています。従って、本当のカウンセラーは三位一体の神ご自身なのです。

カウンセリングの歴史を見ても明らかです。カウンセリングはキリスト教会の中にある敬虔主義の影響を大きく受けています。また、敬虔主義から生じて来たものであるという指摘もあるくらいです。さらに時代を遡ると、修道院の中にエニア・グラムというカウセリング理論が2000年間継承されて来たものも存在するのです。

私は日本交流分析学会に所属しています。彼らの主張のひとつは「カウセリングによって自分が変わる」ということです。人間が人間を変えるのです。いや、変えて見せるという事でありましょう。しかし彼らは罪の問題を扱いませんし扱えません。個人個人の諸問題や感情を引き出そうとしますが、引き出してどうするのかが結局不明です。ある人は、引き出したものを相対的価値観の中に埋没させるのです。

カウセリングには大切さはありますが、下手をするとカウセリングがカルト化現象を生じさせ絶対化する危険があります。

いずれにしても、本当の意味であなたの人生に対して責任をもって保証して下さるものは天地創造の神です。それを、神の言葉である聖書を手がかりに信じるのです。すると自分の本当の姿がわかってきます。そこで、大切な感性や共感能力が養われ死の問題に対しても勝利をもって関われるカウンセラーになることができます。 

政治と教会の関係について教えて下さい。

この問題は、大変な問題です。また、重要な問題でもあります。先日、教会で仕事をしている時、共産党員(区会議員)の方が「有事立法反対声明に賛同してもらいたい」との文書をもって来られました。もちろん、教会もそうですが私個人としても「有事立法」は大反対です。しかし、その表明を共産党と一緒にして良いかどうかは別な問題なのです。

さて、聖書の翻訳の中に「リビング・バイブル」という、ここまで砕いて良いのか、と思えるような聖書があります。その聖書を見ると次のようになっています。 

民数記 → イスラエル放浪記
サムエル記 → 王国成立記
列王記 → 王国衰亡記

実に、明解なタイトルだと思います。一目瞭然、内容がわかります。イスラエルは、かつて王国制度をもっていなかったのです。しかし、サムエルが預言者活動をしている期間に、神様は自分が選び愛した民から捨てられたのです。この時まで、イスラエルは士師制だったのです。士師制というのは一種の「共和制」のことです。ところが、イスラエルの民は、神を捨てたのです。そして、自分たちを治める王を要求しました。そこから、世界で始めての王国制度がスタートするのです。

王政採用は、神の側からすると譲歩することができないことです。しかし、制度というものは結局、人を殺すも生かすも運用する「人物」によります。そこで、神は預言者サムエルに告げました。「イスラエルに王が立てられる場合、王はこのようでなければならない、こうあってはならない」という大憲章を定め公布させたのです。この様子は、第一サムエル記10:25及び8:9〜18にも書いてあります。

この大憲章の内容は、一言で説明するならば「王が専制君主化し暴君化するのをふせぐような歯止めとなるもの」です。ところが、歴史が証明していますが、権力を握った者は暴君化し自己肥大化します。あげくのはて、自己絶対化するのです。不思議なことに、自己絶対化した権力は絶対腐敗します。

政治権力の頂点に立つ王に対し、常にそれを批判しうる宗教的権威としての預言者という存在があります。そして、預言者が語る神の言葉が王の行為を是正するのです。王はその場合、神の言葉を尊重し、これに従うのです。ただし、預言者自身は決して権力と癒着してならない。このような仕組みが健全に機能している限り、王政は破綻しないのです。この原理に不忠実だったのが初代の王であるサウルです。それと対照的な王はダビデでした。神はダビデを祝福しました。

さて、これらの姿を現代の政治の問題に適応させてみると、政教分離の原則が当時すでに存在していたことがわかります。政治権力を絶対化してはならないのです。ですから、宗教的権威と癒着することは絶対に避けなければなりません。むしろ、政治的権力と宗教的権威は対立的に併立することが望ましいのです。従って、日本の場合を考えると政治家の靖国神社参拝問題は絶対にいけないことなのです。また、有事立法も同様です。なぜなら日本の場合は天皇(神道の最高神)と結びつく危険があるからです。もちろん、戦争の法律ですから基本的に賛成してはならない法律です。余談になりなすが、教会制度の中に会衆制というのがあります。この会衆制の中から民主主義という理念、思想が生まれて来ているのです。私などは、聖書の神抜きにして国家の問題も語れないというが歴史的メッセージだと理解しています。

処女懐胎は本当ですか?

毎年クリスマスのシーズンを迎えると必ず問われる問いのひとつです。聖書の真理は人をつまづかせると言います。この問いもそのひとつです。特に科学万能時代であるからこそ起こる問いでもあるといえるでしょうか。新約聖書の最初のページには、イエスの系図が書いてあります。この系図を見ると誰でも読むのがいやになってしまいます。私も例外ではありません。マリヤが性交なしに子供を産む出来事は常識から考えられないことです。しかし、最新のバイオテクノロジーの技術をもってすれば可能な時代ともなってきました。胎外受精などはその典型的な例ではないでしょうか。イエスの誕生の時代は、現代のように科学も医学も進歩していません。ですから、科学的な説明の範囲外の出来事です。現在なら科学的説明の範囲内ということが出来るかもしれません。

この問題は、当時の人々の証言を「信じるか」「信じないか」しかないのです。しかもこの歴史的出来事は、当時の人々でさえ信じることができなかったのです。マリヤ自身も「そんなことがありえるでしょうか」と告白しています。
マリヤは次のように告白します。

マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」ルカの福音書1:34

マリヤもマリヤの婚約者ヨセフも信じることができなかったのです。また、当時の人々の中にはいろいろな材料(情報)からヨセフがイエスの父でなかったことを知っていました。この歴史的出来事はごく少数の人だけが信じ、多くの人々は疑惑と非難の目を向ける出来事でした。こういう状況ですから、沈黙を守るのが最善だったのかもしれません。むしろ、信じる人々に対してのみ、口を開いて説明したと推測することができます。イエスは不義の子か?それとも神の子か?この答えはマリヤの証言を信じるしかありません。また、聖書の証言を信じるしかありません。

聖書は、聖霊によってマリヤは懐妊した!と告げます。この聖霊は三位一体の神です。天地創造の神は、無から有を創造しました。その創造の神の業がマリヤの内で歴史的出来事として人類に向けて起こったのです。クリスマスの出来事は、天地創造の神の業である、ということができます。

なぜクリスチャンは教会に行くのでしょうか?

かつてお寺のお坊さんが私に次のように言いました。

お坊さん:「クリスチャンはいいですね。」私:「何がいいのですか。」お坊さん:「クリスチャンは毎週礼拝するために教会に行くではありませんか。檀家だと言っても仏教徒はお葬式と法事くらいしかお寺にきません。あとは、せいぜいお盆くらいですからね〜」

神様は六日間かけて天と地を創造し七日目に休まれました。そして、この七日目を安息日としたのです。一週間の始めは安息日(日曜日)から、というのはこの原則から始まったのです。ところが、何年か前に国連は決議で一週間の始めを月曜日にしてしまいました。その結果、カレンダーは週の始めを月曜日にしているものがほとんどになってしまいました。実に不便です。ある神学者は、この現象が人間の堕落の現象であると指摘しています。

また、週休二日制度もこの安息日を背景としてアメリカ社会から生まれて来たものであることをご存じでしょうか。六日間働いて七日目(安息日)に教会に行く。すると、家のさまざまな用事ができなくなってしまう。例えば、掃除洗濯など・・・。そこで、週休二日制度が誕生したわけです。

出エジプト20章10節には「しかし七日目は・・・主の安息である。あなたがたはどんな仕事もしてはならない」とあります。七日目は休め、ということです。健康維持や精神衛生上から言っても人間にとって安息することは重要です。特に、現代社会はストレス社会と言われ、精神衛生上、安息はことさら大切です。また、人類の歴史に目を留めると、自他への強制労働の例に満ちています。神はこのような社会的背景と現実を知りつつ安息日の戒めを求めた、ということです。

この安息日の戒めを与えられた理由は以下の通りです。第一は、天地創造の関係において。神はこの世界を六日間で創造し七日目に休まれました。この「一日」の理解については、いくつかの解釈的立場があります。例えば、「一日」を「24時間」と、あるいは、「ひとつの期間」と解釈する、等です。しかしとにかく、神は七日目を聖とされたのです。第二は、出エジプトの歴史的出来事との関係においてです。それは、イスラエルの人々が神の恵みによりエジプトから救出され、奴隷労働から解放されたことを記念するためとされています。従って、この日は雇い人も家畜も休息を与えなければならないとされています。単に、休息するだけではなく、神を礼拝し、神と交わる時間を設けて、心も魂もリフレッシュされるように勧められているのです。

しかし、イスラエルの民の歴史はこの原則を破り破壊しました。その結果、イスラエルは紀元六世紀の頃に、亡国の悲運を経験します。この経験を通して彼らは罪を悔い改め、律法を守ることに情熱を燃やしました。特に、安息日厳守については極端に力を入れたのでした。それがエスカレートし、イエスの時代には問題が生じていました。イエスとユダヤ教の指導者たちの間に起こった安息日問題は一つの例です。そして、イエスの十字架の歴史的出来事の原因のひとつはこの問題でもあったのです。

とにかく、医学的にも人間は一週間のうち一日は安息日をとらないと健康維持はできないようになっています。肉体は、休息で回復するでしょう。しかし、心と魂の安息は、神を礼拝共同体の中で礼拝することがなければありえないのです。人間のリフレッシュの場は礼拝の中で起こるのです。

宗教戦争についてどう考えますか?

今回の戦争で一番嫌いになったのはアメリカ国家、という声を良く聞きます。それは、多くのクリスチャンたちの声です。そもそも、イスラエルという名は、「神が支配なさる」という意味です。目に見えない真の神が真の王として支配なさる国ということです。これが、イスラエル建国の理念です。人間の王を立てようという願いは、この理念の衰退を示します。この姿を憂いた預言者サムエルに、神は「彼らの言うことを聞いてやれ」と言われたのです。ところが、子の言いなりになる甘い親を求めるわがままな子の様に、人々は自分の言うことを聞き、人間の言いなりになる神を求めたのです。

しかし、真の神は人の言うことを聞きはしても言いなりにはなりません。その様な神は人を拒む。サムエル記は、このような悲劇的な葛藤をなまなましく描いています。その悲劇とは、神が王制度を導入することを承認したということです。この承認は、神の側の最大限の譲歩です。しかし人々は、この譲歩を当然であるかのように理解するのです。そして、王制度が始まります。どの時代もそうですが、制度というものはそれを生かすも殺すも運用する人物によるのですそこで、神は預言者サムエルに対して、王を選ぶ場合に「王とはこのようであらねばならない」「こうあってはならない」という大憲章を定め公布させたのです(第一サムエル10:25参照)。この内容は、王が専制君主化し暴君化するのを防ぐような歯止めとなるものでした。

実に人間は弱い者で、欲深い者で、王という権力は自己肥大しやすく、自己を絶対化したがるものです。そして絶対化した時から絶対権力は絶対腐敗するのが歴史の事実であり鉄則です。しかし、イスラエルにおける王政が、真の王は目には見えぬ神ご自身、という建国以来の理念に忠実である限りこの危険は避けられたのです。それは、政治権力の頂点に立つ王に対し、常に批判できる宗教的権威としての預言者という存在があり、預言者が語る神の言が王の行為を是正したからです。王はその場合、神の言を尊重しそれに従うのです。但し、預言者自身は決して権力と癒着してはなりません。この様な仕組みが健全に機能している限り、イスラエルの王制と理念は破壊されなかったのです。この原理原則に対して不忠実であったため失格したのが初代の王サウルでした。それと対照的に、この原理原則に忠実であったのがダビデです。その忠実さの故に、神はダビデを祝福しました。見事ではないでしょうか。政教分離の原則は3000年前にすでに示されていたのです。政治的権力は絶対化してはならない。宗教的権威と癒着することは絶対に避けなければならないのです。宗教的権威は政治的権力にすりよってはならないのです。むしろ、二つの権力は対立し併立するのが望ましいのです。

世界の歴史は、この失敗を繰り返し重ねてきました。その結果、政教分離の原則を生み出しました。歴史観の希薄な国家や民族は、この失敗を繰り返すのです。日本も改憲派の人々が、天皇を元首にと言います。このような理念は、歴史観の希薄さから来るものです。 今回の戦争には、歴史観の喪失、政教分離の原則の喪失ではないでしょうか。また、国家と国家の戦いは自分たちの「正しさ」の衝突です。この衝突は、個人対個人の関係の中にも見ることができます。どちらも構造は同じではないでしょうか。戦いに正義も悪もないのではないでしょうか。むしろ、いかなる戦いも「悪」だと思います。

宗教多元主義についてどう考えますか?

宗教多元主義とは、世界貿易センタービル破壊(9.11)以降、にわかに脚光を浴びるようになった思想です。宗教多元主義を提唱した人は、ジョン・ヒックという人物です。彼は何年か前に日本にも来られました。そして、各地を講演して歩きました。東京では、慶応大学で講演を行いました。この思想について一般的に、日本人は抵抗なく受け入れることができる文化的資質を持っています。

さて、宗教多元主義とは何なのでしょうか。2003年9月10日に多元主義の神学者と宗教学者の国際会議が行われました。同会議の主催者はジョン・ヒック(バーミンガム大学)、ポール・ニッター(ザビエル大学)ペリー・シュミッド・ロイケル(グラスゴー大学)、レオナルド・スウィドラー(テンプル大学)の面々です。この人々は、この思想を指して「他に勝る宗教無し」と宣言しています。その思想とは、世界のどの宗教にも妥当性があり、特定の宗教をもって「唯一の」、あるいは「最善の」宗教であるとは見なさないとするものです。一言で言えば、「あなたが良ければ何でも良い」とします。なぜなら、根本的にはどの宗教も本質的価値は同じだとするからです。この本質的価値とは、愛、慈悲、平等、正直、自分がしてもらいたいと思うことは他人にもせよという理想を共有していることだとします。

きっと、このような内容を見聞きすると日本人である私たちは納得するでしょう。しかし、聖書の世界からこの問題を取り扱うと、問題が起こります。この思想は、イエス・キリストの十字架と復活の否定ということになるからです。それは、福音が福音とならないということを意味します。キリスト教は宗教か?という問いがあります。ある人々は、宗教であると言います。また、ある人々は宗教ではない、福音である、と言います。私は、福音だと信じています。仮に、宗教としても問題が残ります。キリスト教の救いの理解は、十字架のイエスです。つまり、救いの根拠は自分の外側にあるということです。しかし、他の宗教の傾向はどうでしょうか。自分の内側に根拠を持つのです。外と内、この違いは交わることはないものです。

従って、宗教多元主義は認めることはできません。余談になりますが、ファンダメンタル(根本主義)に対する批判がマスコミなどでよく聞こえてきます。それは、ブッシュ大統領がこの立場だからです。ブッシュ大統領の立場=ファンダメンタル=悪という公式ができてしまったように感じます。本来のファンダメンタルはそうではありません。日常生活の中で敬虔に生きる姿が本来の姿なのです。むしろ、政治や戦争問題には関わらないとする姿勢をもっているものなのです。マスコミ等の影響によってファンダメンタルに対する誤解と偏見が生まれたのです。