上馬キリスト教会

教会員の「救いの証し」 

死の恐怖からの解放

私は世田谷区の駒沢で育ちました。小学生のころ、同じアパートに住んでいた駒沢大学の学生さんに誘われて、大学のなかにある日曜学園というところに行っていました。そこは、ちょうど教会の日曜学校と同じように、仏教の教えを子どもたちに教える集まりでした。

毎週のように仏様の話を聞いていましたが、人は死んだら仏になること、極楽へ行くこと、そういうことは何かお話のように捉えていて、むしろ、本当は死んでしまったら何も無くなって、真っ暗で、生きてきて楽しかった思い出も、消えてしまう。家族や友だちとも別れてしまう。自分が自分だっていう思いも消えてしまうに違いないなと思っていました。そしてそれはすごく怖くて、でもそれからは決して逃げられなくて、いつかその日は来るんだ、と思っていました。

日曜学園ではいつも「おちかい」というのを、みんなでそろって唱えていました。それは、「私たちは仏様を敬い、その教えを守り、従い、清く、正しく、情け深くて立派な人になります。」というような内容でした。でも、「立派な人になります」といっても、自分の力でなれる人はいいけれど、私はどうかな、と思っていました。

私は、今でもそうですが、気が小さくて自己中心的、人に対して気をつかったり、人の気持ちを考えたりすることが苦手な性格です。そのうえ、面倒なことに出会うと、すぐに「知らん顔」とか「逃げちゃえ」とか「やめちゃえ」とか「壊しちゃえ」という声が心の中で聞こえてしまうタイプです。そんな私は、死んだら極楽に行ける!なんて思えませんでした。

その思いはそのまま、私を苦しめていました。学校や家で、なにか一時的に楽しいことや、一生懸命になれることがあって、その苦しみを忘れていることはあっても、ああやっぱり自分はいつか死ぬ存在なのだ…という思いは決して消えることがありませんでした。そしてこんな苦しい絶望的な、ぞーっとする思いを消してしまう方法はどこかにないのだろうか、と思っていました。

人はなぜ生きているのだろう、いつかは死んでしまうのに…。他の人たちはどう思って、どう考えているのだろう?そんな思いがありました。高校生になると、本を読んでみたり、友だちや先生に聞いてみたりしましたが、納得のいく答えにめぐり合いませんでした。

それから、短大生になって、私は、友だちに誘われて統一教会のビデオを見て一緒に考えましょう、ということになって、そこに通うようになりました。統一教会というのは、正しいキリスト教を教えるところではありません。そのことは後で知りました。でも、そこで勉強していったら、自分がカシコクなった気がしました。マジメで、タダシクなっていけそうな気もしました。そして、何で生きているかの答えが、見つかりそうな気がしました。でも私は、少し気が変になってしまいました。自分が、清くも正しくもないことは、自分が一番よく知っていました。統一教会でも多少は聖書の話があって、人の心の弱さについても考えさせられました。

そのうちに、頭の中に、それまで誰も知らないから大丈夫だと思っていたような自分の過ちとか、勇気がなくて謝れなかったようなこまごましたことから、何からがどんどん頭の中にわいてきて、これらを全部清算してしまわなければいけない、と心が責められるような思いにかられるようになったのです。そして、夜も眠れなくなってしまいました。私の父や母が、そんな様子のおかしくなった私に気づいて、精神病院につれて行きました。そのころはもう、一人で外も歩けない状態でした。それでも、統一教会の話を聞きに行きたかったのです。そこに答えがあるような気がしてならなかったからです。でも、そういう気持ちをうまく言い表すこともできない状態で、誰かが殺しに来るんじゃないかという妄想も出てきました。もう、この世の中が終わってしまって、めちゃめちゃになってしまうような気がしていました。それこそ、空も落ちてくるんじゃないかと思っていました。

それでも、通っていた統一教会が正しいキリスト教でないなら、正しいキリスト教ってどういうことだろう、知りたいなと思う気持ちもありました。私は、母に付き添ってもらって、叔母の行っている教会へ初めて行きました。でもその教会は、東京と埼玉の境にあって少し遠かったのです。でも、どうしても教会に行ってみたくて上馬教会へ来ました。

そして、教会の礼拝に出席し、牧師と話したりするうちに、イエス様がすべての人の罪を神様に赦してらうために、罪のある人に代わって罰を受けて、十字架にかかって死んでくださった救い主であることを知りました。それほど神様は人間を大切に思っていてくださる、ということを知らされました。

信じれば、私の罪も赦してもらえるものらしい。罪を赦してもらえれば、心の苦しみは無くなるんじゃないかと思いました。そして、人は何で生きているのかという私の長い間の問いかけには、「神様が人を創った、神様の計画があるから」という答えをいただきました。それは、それまで、「何故なんて考えるものではない、良い行いをして、精一杯生きなさい」とか、「生きているから生きているんだ。それだけだ」というような答えと全く違う、ちゃんとした答えだなあ、と感じたのです。「神様の計画があるから生きている」のか、そーかーと私は納得したのです。私も、この考え、この教え、聖書にある本当の神様を信じてゆきたい、そう思いました。

そして私は、聖書の中の新約聖書のコリント人への第2の手紙5章17節「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。」という言葉をいただいて、洗礼を受けました。ちょうど22歳の誕生日でした。

こうして私はイエス様を信じました。不安だった気持ちもだんだん落ち着いてきました。それまでの自分が変わってしまったのではなくて、特に性格はぜんぜん変わっていなくて残念ですが、考え方が、方向転換して行ったことは確かでした。いつかは死んでしまうことの恐れがとても強かったことは、神様を知らなかったこと、自分の罪への恐れだったことに気づかされました。

お読みくださってありがとうございました。

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