上馬キリスト教会

教会員の「救いの証し」 

「神を殺す者」からの回心

あっははははは!! 俺の足が悪いのは、神の栄光が俺に示されるためなんだとさ。 へえ、そうかぁ、じゃあ良かった良かった 。。。。。。。って、ふざけるんじゃねえや!! これのせいで俺が今までどれだけ苦しい思いをしたと思っていやがる。 おめえの栄光なんか爪の垢ほども要らねえよ。 そんなこと言うならその栄光とやらをとっとと見せてもらおうじゃねえか、おう? 神様よ。

・・・・・と、ヨハネ福音書の9章3節を初めて読んだ時、僕は心の底から反発した。いや、反発なんてものではなく、それはもはや神に対する憎しみと殺意だった。「自分の栄光のために人を苦しめる神なんざ、俺がぶっ殺してやる」「イエスだかノーだか知らねえが、そんな舐めた偽善を抜かす奴はこの世界から完全に消え去ってくれ」

大学の哲学科に入学すると僕は「神を殺し超人の時代、アクエリアスの時代を迎える」ためにニーチェや、ニューエイジの思想に没頭した。しかし、その学びを深め、神を排斥する言葉を積み重ねれば積み重ねるほど、あのヨハネ9章3節の言が、反対に心にしっかりと焼き付いていくのだった。ことある毎にその言葉が、まるで意志があるかのように、僕の脳みそを揺り動かした。その度に僕は頭を思い切り左右に振り回して「ふざけるんじゃねえ!お前がどんなにしつこくしがみつこうと、俺は必ずお前を世界から消し去ってやる!」と、その言葉を振り払うのだった。今思えば、僕はすでにその時、その言葉によって神さまに手を掴まれていたのだった。イエス=キリストという人に、その一言だけですっかり惚れ込んでしまっていたのだ。

小さな頃から「クリスチャンは弱い人間、偽善者の見本だ」というようなことを教え込まれていた僕には、イエス=キリストに惚れ込むなんていうことは、恥以外の何ものでもなかく、また何より非常に恐ろしいことでもあった。それはそれまで築き上げてきた価値観を根底からすべてひっくり返すようなことだった。だから心の奥底ではキリストに着いていきたくて仕方なかったのにも関わらず、もう一方の「着いていって良いわけがない、弱者の仕掛けた巧妙な罠だ。甘ったるい慰めで真実ではない」という思いが、それを強く引き留めた。

そこで(こういう表現が適当かはわからないけれど)神さまは僕を痛めつけた。自分が決して強くなく正しくもなく何一つ持っていないということを認めるまで、僕から様々なものを力ずくで奪ってしまった。僕は当時から既に作曲家として活動していたけれど、まず自分から出てくる音楽をすべて止められてしまった。曲が作れなくなった僕は仲間達にも顔向けができず、次第に自分から仲間と距離を置き、恋人はそんな僕に愛想を尽かして離れていった。さらに、神さまは「死」とか「永遠」とか「起源」とか、人知ではとても計り知れない無間地獄のような問いを僕にぶっつけた。それらの問いは、考えれば考えるほど人間を深い闇と底のない恐怖に引きずり込んでしまう。そこに引きずりこまれたら誰だって頭を抱えてうずくまって唸り声を上げるしかない。しかも考え始めたら最後、考えるのをやめるということができないのである。ニーチェを始め、多くの哲学者が苦悩の中で死んでいったこともうなずける。無力と孤独に打ちひしがれながら、この深い闇に叩き込まれ、思考を止めようとしても止まらない。「もうダメだ、もう負けだ。神には太刀打ちできない。もう死ぬしかない。死のう」と決心し、実行に移そうとした時に、イエス=キリストが僕に語りかけた。

「お前さ。3日だけ信じてみないか?悪いようにはしないから。騙されたと思って。」

毎日、昼間から湯飲み茶碗で日本酒をガブ飲みして、ぐだぐだに泥酔し、頭を抱えてうめき声をあげ、挙げ句に包丁を首にあてているような状態。顔は土気色、髭は伸び放題。我ながら、よくここまで意地を張ったもんだ。これ以上、落ちるところもなければ失うものもない。どうせ死ぬと決めたのなら、3日だけ試しに信じてみてから死んだって遅くはない。

「騙されてみますよ、3日だけ」

まず例の無間地獄のような問いが嘘のように解決した。どの思考法を以てしても必ずいつもそこにぶち当たる、根源的な「闇」に「神」を代入すると、巨大な氷山のように固まっていた諸問題が一気に融けて、綺麗な水になり、飲んでも美味しく泳いでも心地よい「泉」になった。仲間も恋人も、もともと僕が「所有」していたものではなく、神さまに与えられていたものであると気付き、何と傲慢な接し方をしていたものかと、思い知らされた。そして音楽についても同じこと。もともと僕が作った曲など一つもなく、すべて神さまが僕に与えて下さっていただけのこと。神さまが与えてくれなければ、何もできなくなってしまう。そのくらいに自分は無力な者であると、悟った。

そして、いつも引きずるこの足。このためにどれだけ苦しんだからわからない足。でもこの足以外の僕なんて一瞬たりとも存在したことはない。陶器師が壺を作ればそれは壺、皿を作ればそれは皿。壺が皿になりたい皿が壺になりたいと言うのはナンセンス。神さまが僕をびっこに作ったのなら、それが僕のあるべき形。それで苦しむのならそれは僕に与えられた糧だ。

しかし、これらのことに気付き、目の前が開け、「救われた!」と思った時、自分が「神を殺す」という冒涜を繰り返してきたこと、人にも音楽にも世界にも傲慢であったこと、犯してきた数々の罪、それらに気付いて愕然とした。この救いに与る資格は今さら自分にはない。やっぱり自分は死ぬべきだ。死ぬ前に神様を知ることができて良かった。最高の冥土のみやげ。

・・・・・と思ったら、そこに十字架があって、イエス=キリストがはりつけられていた。手足に釘を打ち込まれ、身体は切り傷とミミズ腫れだらけ。茨の冠の下からは血がタラタラと流れて、汗と混じって顔をつたっている。痛そうだ。苦しそうだ。なんでこの人がこんな目に。こんな目に遭うべきは、この人じゃなくて俺だろう!!

「あ。」

そういうことか。キリストとはそういうことか。赦されてるんだ俺はもう。生きてて良いんだ。いや、むしろ生きなきゃダメなんだ。イエスさん(敢えてこう呼びます)が俺のためにこんな痛い思いをしてくれたのにその俺が死んじゃったらダメじゃんか。あぁ、それだけ痛かったから、あんなに俺を痛めつけてまで俺のことを呼んでくれたんだ。おいおい。とんでもなく優しいな。誰よりも優しいな、この人。とんでもなく格好いいな。誰よりも格好いいな、この人。

たとえ嘘でもいい。ただの慰めでもいい。そんなことまで俺のためにしてくれた人がいる。この人について行かない理由がどこにある?この人について行って何を失うっていうんだろう?ついてゆこう、この人に。

と、僕は家の近所にあった上馬キリスト教会に足を運び、かつては「石を投げ込んでやる!」とか思っていたこの教会で洗礼を受けた。まさか自分がこの教会に足を踏み入れ、しかも洗礼を受けることになるとは。

それから何年も経って。僕は相変わらず今もむらっ気の多い問題児だけどそれでも今じゃイエスさんがあの時、僕に言ってくれたことは慰めなんかじゃなくて、まぎれもない真実だってことは分かった。うそじゃない。ああ、どこまでも本当だ。それに万が一、万万が一、嘘でもいい。だから何だって言うんだ?それでも僕は幸せだ。

小学校の帰り道にたまたま落ちていた無料配布の聖書。もしそれを拾っていなかったら、僕は今ここでこの証を書くこともない。神さまの計画と導きには驚かされるばかり。ほんとに。

渡辺牧師の証し K.Kさんの証し Y.Kさんの証し H.Iさんの証し T.Yさんの証し K.Kさんの証し