上馬キリスト教会

教会員の「救いの証し」 

神様の計画と導き

わたしは、典型的な無宗教の日本人として生きてきました。結婚式はキリスト教の教会で行い、子供が生まれたら 神社でお宮参りをし、亡くなれば仏教のお寺で葬儀をする。お正月にはわれ先に初詣に出かけお賽銭を投じて神社に願をかける。そういう生活に「神様なんていいかげんなものだ・・・」と思いつつもさしたる疑問も不自由も感じることなく今まできました。

そんな私が最初に「信仰」に関心を持ったのは、曽野綾子氏が執筆された著書「時の止まった赤ん坊」を読んだときでした。これは、アフリカで看護師として奉仕する修道会から派遣された女性(実在の方をモデルにしている)の話でしたが、「キリスト教」を信仰し、神に仕えるということの意味について深く考えさせられ感動しました。

このとき、心の奥でおぼろげに「わたしも神様を信じて生きたい」と思いましたが、その後、教会を訪ねることはありませんでした。何故なら宗教をもたない者にとって教会はとても敷居が高いところだったからです。

月日は流れ、私は福祉関係の仕事に就くべく、勉強を始めました。そして、老人介護の現場へ研修で出向くようになったとき、これと特定することのできない不安にかられるようになりました。自分のこころをどうやってこの方たちに向けていけばいいのか分からず、自分自身が恐ろしくなりました。

そんなときに学校の特別講義で教会の先生の授業を受けさせていただく機会を得ました。講義の中で人間の精神的な「基準」について話された部分があり「無宗教というのは自分教であり、それは自分を基準にしているということ」という言葉がいつまでも心に残りました。そして、この世で唯一絶対のものは自分の中にはあり得ないというところへたどり着き、ずっと感じていた不安の正体に気付いたのです。

人知の及ばない大きな力を神の力と信じたとき、不安が消えていくのを実感しました。意図せずに開いた聖書の1ページに記されていたのは

求めなさい。そうすればあたえられます。捜しなさい。そうすればみつかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイの福音書 7章7節)

この御言にであったとき、長い時間をかけながら知らず知らずのうちに私は神様に導かれて今ここに立っていることを思い、その計画の大きさに、また寛容さに、暖かく心が満たされていくのを感じました。

まだ神様の方向をまっすぐ目指すにはたどたどしいあゆみではありますが、ここまで導かれるのにかかった長い時間と同様にまた長い時間をかけてゆっくりと神様への道をあゆませていただきたいと思います。ずっと求め続け、捜し続け、たたき続けてこれからの人生を生きたいと考えています。

渡辺牧師の証し K.Kさんの証し Y.Kさんの証し H.Iさんの証し T.Yさんの証し K.Kさんの証し